1986ソウル・アジア大会極秘メモ

【韓国大使館であわや監禁!?】

1986年のアジア大会は、88年のソウル・オリンピックの前段として、ソウルにて9月20日~10月5日のスケジュールで行われた。この二ヵ月前、これは事前取材を行って、トウスポ独自の切り口で本番の紙面展開への誘導路を作っておくべきだ、と思った。編集局では、「またあいつが目立とうとしている」と白い眼を向けられ、陰口も聞こえてきた。守りより攻め……お構いなしに、企画を進めた。ソウルのナショナル・トレーニング・センターに乗り込んで、目玉選手を根こそぎインタビュー。これができると面白い。アーチェリーの美人選手がいたし、陸上、ウエイトリフティング、柔道などにアジアでトップクラスの選手たちがいた。こうした情報をまず、編集局に知らしめることも重要だった。環境を整えておけば、次に進みやすいのだ。とりあえず、ソウル在住の個人的アドバイザー、申徳相さんに電話を入れた。申さんは名門、延世大学の出身で、長年京郷新聞のデスクなどで鳴らしたマスコミ人。各方面に幅広い人脈を持っていた。「ナショナル・トレセンに入れますかね? もう本番に向けてシャットアウトになって、いるとか……」「大丈夫、大丈夫、センター長よく知ってますから」。この人の人脈は底知れない。1979年10月26日に朴大統領が暗殺された時の大統領警護室長が同級生だったことから、しばらくKCIAにマークされていたこともあった。……企画を整理して、韓国大使館にビザ申請に行った。これまで韓国には何度も取材に行っていたが、お国柄、微妙な事情もあって、観光ビザで何となくすり抜けてきた。しかし、派手にアドバルーンを揚げようというのだから、仁義を切る必要がある。ビザを取っておけば、堂々と写真撮影もできる。アジア大会の盛り上げにもなるわけだから、ビザは簡単に下りるはず。同行予定の堀内良夫カメラマンと南麻布の韓国大使館へ行った。この人は、駒澤大学のバレー部出身。その筋からのコネ? で入社。校閲部、第二運動部……ここでは私と共にアマチュアスポーツを担当したことがあった。不器用だが、真面目一筋。写真部から最後は編集局長まで登った。体力もあるし、アマチュア・スポーツを知っているので心強い。「ビザ終わったら、一杯やろうか?」「いいですね、グチ聴いてくれますか?」「OK、OK」。大使館の窓口へ書類を提出した。「よろしきお願いします」。「ちょっとこちらへ」。ン!? どうした? 案内係の紳士はどう見ても素人ではない。肩幅広く、たっぱもある。いつでも戦闘ウエルカムの風体である。「こちらへ」と別室へ案内され、部厚いドアがバン! と音を立てて閉められた。ン!? 取調室じゃないかい。堀内カメラマンの表情も白く、緊張気味。「オタクたち、ソウルで何をするんですか?」。完全に取り調べモードだ。「いや、アジア大会に先立ち、韓国のスター選手を紹介するために取材です。できればナショナル・トレセンで」「あんた何言ってんの! センターは立ち入り禁止になってますよ!」「いや、知り合いがアレンジしてくれて……」「そんな事無理だと思うけど」。しばし沈黙せざるを得ない、と追っていると。「まあいい、今回はビザを出しましょう。堀内さん、たまにはおいしいお酒を飲みたいねぇ。こっちは時間あるんだから」と意味のよく分からな言葉が飛び出してきた。「どういう事でしょう?」「あんたがリーダー? もう帰っていいよ。堀内さんはちょっと残ってもらうから」「いや、これからセットで仕事の予定が……」「すぐ済むよ。何なら外で待ってたらどうですか?」。結局、飲み会への招待を約束させられて、放免されたのだが、真相は未だに藪の中。堀内カメラマンは実際に酒を驕らされた。訪韓して、申さんに話すと、「木っ端役人が、時々変な奴がいるんですよ。調べてとっちめてやりますか」。資材は思惑通り。センター長が案内とセッティングしてくれた。韓国は人脈が社会を動かしていることを実感した。

【金浦空港爆破テロ、開幕8日前】

大会8日前の9月13日。アジア大会の目玉企画は実行された。中身はマラソンコースを自分の身体で下見して、代表の中山竹通選手にアドバイスを送ろうというもの。だが、自分の足で走れるわけはない。といって、車で廻っても何も面白くない。そこで自転車で走る。42.195は自転車でもそんなに楽ではない。さらに趣向を凝らし、日の丸入りの中野浩一選手のユニフォームを借りた。ヘルメットも。私の仕事を面白がっていた競輪の須藤キャップがヘルプしてくれた。「君、本当にそんな事できるのか?」政治と駆け引きで成り上がった編集局上層部には理解できない。当然だ。早朝、中野浩一のユニフォームに身を包み、レンタルのスポーツ・サイクルにまたがって、ホテルを出発した。先導は申さん。マイカーのハザード付き。こっちは日の丸付きのユニフォームで決めているから、街角のお巡りさんも好意的だった。日本代表選手の公式練習と映ったようだ。緩い時代で良かった。途中、気の荒いタクシー運転手にすさまじい剣幕で怒鳴られるハプニングはあった。ソウルの交通事情は凄い。プレスルームでイタリアはローマからの特派員が言った。「ローマも凄いけどね、ここじゃ絶対運転できないと思う」と。……42,195キロ。自転車とて、そう楽なものではない。ポイント、ポイントで撮影もしているので、午後3時頃、汗みどろでゴールイン。やった! これでライバルの鼻を明かすことができるし、会社のお偉いさんにも、胸を張ることができる。頭を下げたり、言い訳はしたくなかった。他社のライバル一番手は報知新聞の吉江光弘記者だった。東京大学から報知に入った変わりダネ。似たような企画を打ち出すので要注意だった。普段は酒を飲むことが多かったのでなおさら。走り終わってシャワーを浴び、プレスルームに顔を出すと、少し遅れて吉江氏が入って来た。「少し、街中を回って来ました。そっちも取材でしたか?」。翌日、早朝から42,195の綿密な調査結果を原稿にして東京に送った。内容を見て驚いているようだった。やったな……。歩っとしていると、吉江氏が近づいてきてささやいた。「原稿終わりましたか? 出られますか?」「どこへ?」「まあ、行きましょう」。吉江氏は多くを語ろうとせずに、タクシーを掴まえた。「kimpo airport ツセヨ!」「金浦って!? 何が?」「何か起こっているらしいんだ」。金浦空港への道路は封鎖前だったが、やたらに警察官、軍人のがそこここに集まっていた。何と、爆破事件が起こった直後だった。空港の建物入り口付近はおびただしい血が流れていた。持っていたカメラでシャッターを押しまくった。だがすぐに警察官に止められた。五人が死んで、3~4人が負傷した直後の現場であった。

☆composision 4☆ プレスルームに戻った。しかし、テロとなると、トウスポの切り込む余地はあるのか? とりあえず、申さんに電話を入れてみる。「金浦でひどい現場を見てきました。何でしょうかねぇ?」。「馬鹿どもが起こした事件、あまり触れなくてもいいのではありませんか?」「まあ、そうなのですが、うちで書けるような材料が出てきたら、教えてください」。数分後、申さんから電話がきた。「爆弾はcomposision 4で時限のようですから、大会に合わせて計画的に起こしたということでしょう。我が国は戦争状態にありますから」。血みどろの現場写真と、ありったけの材料を集めて東京へ原稿を送った。何しろデリケートな問題である。使用された爆弾は韓国陸軍、米軍が常備している物。ここから、「自作自演」説も飛び出していたのだ。東京からはいつもの調子で「もう少し、刺激的になりますか」といった、リクエストは返ってこなかった。朴大統領健在の戒厳令下の時代から、韓国で取材をしてきた。これまで何どもホテルの電話の盗聴、尾行、直接アプローチを経験していたので、ペンを滑らせる勇気は無かった。

☆爆破テロ事件の夜☆ 開幕8日前の13日は血の匂いの漂よわせながら、暮れた。午後七時、デスクを整理して、報知新聞の吉江記者に声をかけた。「昼間はありがとう。爆発直後の現場を見ることができた。あまり良いものではないね」「当然でしょう。できれば、遭遇したくないよね」「行きましょうか? 気分を換えに」「良いですね。やっぱり一杯やりましょう」。こういう話はすぐまとまる。タクシーを拾って、清心洞(チョンジンドン)へ繰り出した。ここは安くておいしい食堂が多く、過去の取材で多少の土地勘もあった。麦酒(ビール)で乾杯の後、真露(焼酎)。本場物は砂糖が入っているので甘い。辛い料理に甘い酒というバランスだ。日本への輸出品は甘くない。本場の真露は口当たりが良いのでついつい。吉江氏も強い。空き瓶が転がる。昼間の借りもあるので、「さっきはありがとう。おかげで貴重な体験をさせてもらった。今日はこっちでもたせてね。後、別に隠していたわけではないんだけど、昨日、マラソン・コース下見してきたんだ。自転車で」。吉江氏はにやりと笑った。「やっぱり、何かやるとおもってたけど。実はこっちもやったんだ。体力に自信がある方でもないので、タクシーをチャーターしてさ」。何のことはない。ライバルも似たような企画を敢行していたのだ。「何か面白そうなことやらないと、会社じゃよく分かっていないので」。吉江氏も報知では、異端児だったようだ。この後、真露の空き瓶はさらに転がった。

【韓国日報と個人的密約】

アジア大会は、オリンピックと比べれが多少コンパクトだが、未だ戦争状態にある国の首都で開催されるわけだから、それなりに注目度も高く、世界各国の特派員が集まった。日本のマスコミもスポーツ紙でも大手は記者三人、カメラマン二人といったチーム。我がトウスポは、記者一、カメラマン一のお決まり陣容。「君、アジア大会なんかで新聞売れんのかね?!」上層部はこんな調子なのだ。ミスター・トウスポ、故井上博社長のように、売るためには何をやろうか、何を仕掛けようか……という思考とは違う。ま、しゃあんめえ。そこで、可能かどうか分からなかったが、現地の新聞社とうまく連携できないか? と考えて、申さんに相談した。申さんは韓国マスコミ界の大物OBである。「白石さん、いいね。それ、やりましょう」「そんなに簡単にいきますか?」「韓国日報がいいでしょう。私のいとこが局長ですから、電話しましょう」。こうして、韓国日報を訪問して、仁義を切った。「できれば磨り出し前のゲラ(校正紙)を見せていただけると……」「OK、じゃ時間になったら、取りに来られますか?」。これでニュースの入手が確保できた。翌朝から、申さんは韓国日報の最終ゲラを持って宿舎ホテルに来てくれて、コーヒーショップで面白そうな、まあ、トウスポ的な記事を」拾い読みしてくれた。それを私はメモに取り、プレスルームに出勤しては、チョイ脚色も入れ、もちろん許される範囲で、東京へ送りまくった。これを見た他社は、一様に不思議がっていたようだ。一人なのに、どうしてこんなに幅広く取材できるのだ?……種明かしは今が初めて、と言っていい。もう時効でしょう。

【谷津嘉章の「乱入・直訴」】

大会半ばのレスリング会場。私は谷津嘉章と待ち合わせていた。目的はFILA(国際レスリング連盟)のミラン・エルセガン 会長 とのツーショット。写真と両者のコメントだが狙い。谷津氏はこの春の全日本選手権にプロから復帰優勝を果たして、五輪出場の道を探っていた。FILAの会議では当時の笹原正三会長がオープン化推進の意見を出していたが、結論には至らなかった。それではと、”アジア大会でエルセガン会長に直談判” ……これでいこうと考えた。谷津氏に「旅費など持つので、行きませんか?」と誘ったところ、「乗りかかった舟だし、韓国は知り合いもいるので行きましょう」となった。笹原会長にはあらかじめ、「谷津が直訴といった感じの写真をこっそり撮ろうと思っています。エルセガン会長にそれとなく言っておいてもらえませんか?」。笹原会長に頼み込んで、この日を迎えた。谷津氏の記者証はどうにかならないか、と思案していると、谷津氏は「お~い○○、パス一枚何とかしてよ」と、旧知の韓国選手をつかまえて、頼素早くゲットしてしまった。緩い、良い時代である。これで会場内をある程度自由に動くことができる。問題は他社に悟られないことだった。通信社、スポーツ紙一社が微妙な動きを見せて、少し緊張させられたが……。エルセガン会長が貴賓席に着いたのを確認して近づき、隣の笹原日本協会会長に、「まもなく谷津を連れて来ますので、よりしくお願いします」。笹原 日本協会会長 は無言でうなずいた。こちらをマークしているかもしれない2~3社の目が外れたところで、谷津氏に合図を送った。谷津氏はそれとなく貴賓席に近づき、まず笹原日本協会会長と握手、笹原会長は隣のエルセガンFILA会長に、谷津氏を引き合わせる形をとった。谷津氏とエルセガンFILA会長が握手。言葉を交わした。「会長、プロにもゲートを開けて下さい」「おー君か、オールジャパンで復帰優勝したのは。君のことは聞いている。FILAは強い者をいつでも歓迎したい」。こんな会話が交わされた。やった‼ 「エルセガン会長、プロを容認!!」。ツーショット写真とともに、紙面を飾ることができた。また一つ仕掛けが陽の目を見たのであった。この時、テニスはすでにプロアマの垣根が取り払われていた。時代はその方向で流れてはいたのだが……。

※ミラン・エルセガン=

※ミラン・エルセガン(セルビア=当時はユーゴスラビア)。1972年~2002の間、FILA(国際レスリング連盟会長を務める。福田富明現日本協会会長と組んで、女子レスリングを登場させるなど、レスリングを見せる競技に変えた功労者の一人。95歳にて近年他界されている。合掌

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