007を追え

【オリエント急行に乗るか?】

1982年秋口。ロンドン郊外のウェントワース・クラブで行われるゴルフのサントリー世界マッチプレー選手権の取材準備を進めていた。この頃は海外取材に少しばかり慣れて、気持ちに余裕があり、どうせロンドンまで行くのだから、何か紙面を賑やかに飾れるような別のネタはないものか? と頭をひねっていた。そこへ、「イギリスか? オリエント急行に乗れたら面白そうだな。テレビはやったけど、紙媒体はまだだね」とささやきに来たのが、レジャー部のデスク、S氏。酒が好きで、乗るととことん遊ぶ方で、野球部出身だったが、居心地が悪くなったのか、レジャー部に籍を移して少し経ち、関係筋にも、顔が利くようになっていた。「やってみようか。企画書書くからフォローしてね」。早速、マッチプレーと合わせ技の企画書を書いた。可能かどうか分からないが、自分自身を被写体の中心に置くゆ、というもの。かのジェームズ・ボンドがタキシードなら、こちらは羽織袴で乗り込もうという算段なのだ。企画は編集部のトップレベルまで上がり、呼ばれた。「本当にばかなことを考える奴だな。でもできたら、面白いなあ。50回くらいの連載やれっか?」「50は軽いでしょう。100でも!! 是非!!」。あっけなく企画が通ってしまった。相手は桜井康雄さん。駆け出しの頃から、公私ともにお世話になり、仕事も酒も教わった「面白いと思ったら、どんどんやれ。それがトウスポだ」と常々。

※桜井康雄さんは残念ながら、平成29年に80歳で他界された。病院にお見舞いに行ったところ、集中治療室にいらした。こちらに気づくと、「お~来たか? あの時のおんなはどうした?」。凄い記憶力だった。お世話になりました。合掌。

【鉄壁のOriento Express]

企画は面白くても、オリエント急行に乗れなければ、話にならない。日本にも代理店ができていた。趣旨を説明して、ありがとうございました。あわよくば取材枠で……しかし、そうは問屋が卸さなかった。オリエント急行の客の多くはお金持ち。お遊びで、時にはお忍びで、というもの。具合なのだから取材記者をカメラマン付きで同乗させるなんてことは、進んで考えるはずもない。「本社に聞いてみます」。次は「趣旨を申請書形式ニュートンして、送って下さいさい」ときた。ok,ok。記者自らが取材対象となって、旅をする。他の乗客を取材したり、プライベートを邪魔するような行動は一切取らない、と熱い内容でまとめた申請書を提出した。そして、これが通った。また、社内でいろいろな声が聞こえてきた。「いい気になってないか? 海外取材、みんなもってちゃうのかよ」。無視するしかない。紙面で勝負しよう。させていただきます。さて、羽織袴……着たこともないのに、どうする? 出発まで、一ヵ月を切っている。ン? 待てよ、うちの奥さんの母親が着付け教室をやっていることを思い出した。steamお伺いありがとうございました。相談すると、二つ返事で引き受けてくれた。袴、足袋、雪駄などをかき集め、夜の特訓は始まった。この義理の母親(伊東清子さん)も随分前に他界している。正面切って感謝するときは、大抵いないものだ。

【右腕はMカメラマン】

トウスポが誇るMカメラマンとは、時々コンビを組んでいた。いつもお世話になっております。いろいろとエピソードがあった。もう時効とお断わりして、書かせて頂こう。写真部に入った頃、「オイ、いい加減にしろよ!  今度やったら首だぞ!」写真部デスクの雷が落ちたことがあった。何があったのかというと、プロレスの取材に行き、現像したところ、ネガが半カケで使い物にならなかったという。当時ASA100のフィルムを使って、フラッシュ焚き&シャッタースピード60が大基本、というか、鉄板だった。Mカメラマンは緊張のあまり? これが外した。雷は落ちた。そして鉄板を外さないよう、調整目盛りを60に合わせ、テープでガチガチに止めていたところだった。「007の足跡を辿るオリエント急行」取材の同行カメラマンは、予想もしなかったMカメラマンに決まった。決まった以上、うまくやるしかない。一抹の不安を抱えながら、現像関係の薬品類、引き伸ばし機、電送機などの機材を持って、まずは世界マッチプレーの取材のため、ロンドンへ向かった。飛行機は順調にヒースロー空港へ向かっていたが、着陸となってハプニング。霧のため着陸不可となった。近郊のガトウイックへと変更になった。Mカメラマンの表情が曇りだした。「会社に電話……」「今、無理!」。何も起こらないでくれ、と祈る思いだったが、事件は起こった。

【パスポートがありません!!!】

霧のロンドン。ヒースロー空港は時々了解しました。離着陸に影響を及ぼすことは耳にはしていたが、まさか自分が……。まあいいか、落ち着いて行こう。飛行機はガトウィック空港に着陸。やれやれ。〈タクシーでThe Runnymede on Thamesだな〉。入管の列に並んでちょいとボンヤリしていると、「パ、パスポートが無い⁉」と、Mカメラマンがうめいた。〈何ばかなことを言っとんのや⁉〉と張り倒したくなったが、「無いって⁉ 無けりゃこっちへ出て来られないから、そんなはずはないよ。手持ちのバッグの中をもう一度ちゃんと見て」。しかし、「ありません‼‼‼ 飛行機の中に置いてきたかも」「だって、飛行機の中では出してはいなかった、と思うよ」。ちょいと異様な光景。入管の役人も「ん⁉」という感じになってきた。仕方なく、「何かの勘違いだと思いますが、パスポートを探したいので、列を外れます」と役人に説明した。「OK」役人は苦笑いしていた。「飛行機に戻っていいですか?」「そりゃあかんで」。〈公海から英国領域に入りかけている。今度は別の問題が起きる可能性がある〉「落ち着いて、バッグの中を調べろや!!」。だんだん血圧が上がって来た。すると、「ありました!! バッグのこんなとこに入っていました」「自分で入れたんでしょ? 落ち着いていかないと、この先長いよ」。「すいません、ちょっと慌てて」。しかし、ハプニング」というか、何と言うかの事件はまたまた……。

【The Runnymede on Thames】

世界マッチプレーでの定宿ともなっていたThe Runnymede on Thames。霧のために変更となったガトウィックからは約40キロ。本来のヒースローからは7キロ。霧のロンドン。仕方なし。「すみませんでした。無くなったと思って、焦りました」「外国じゃ、特に落ち着いてやらないと、感覚が違うからね」。Mカメラマン、飛行場での”自爆”寸前の事件をまだ引きずっていた。〈ええ加減にせえよ!〉我が心、なかなか波静かとはならなかった。「馬鹿な質問だと気づいたら、しないように」……全英オープンの名物プレス担当、ジョージ・シムズ氏の顔を思い出してしまった。なんてこった。タクシーは1時間ほどでホテルに着いた。テームズ川のはとり、エガムの町だ。水と緑を背景に、こじんまりとした佇まい。大会コースのウェントワースまで5キロチョイ。最高のロケーション。運営上手なサントリー広報部のお手配による。

※Wentworth Club 当時は確か、Golfの文字がなかった。それは当初、貴族たちが暇つぶしで、キツネ狩りを行う森付きの広場だったとか。そもそも、catch & releaseなんて言葉も、放さなければ、おもちゃが少なくなる、という発想なのだ。貧乏人の感覚ではない。

The Runnymede on Thames。さてさて、世界マッチプレーの取材準備を始めよう。カメラマンは浴室に簡易現像所を作り、現像液を調合。さらに電送機のジャックを部屋の電話の裏蓋をめくって、しかるべきポイントにつなぐ。国際回線を確保して、白黒の光信号→音声信号→光信号、こんな感じで生写真を送るのだった。練習ラウンドの取材を終えて、さてテストを兼ねて、築地の編集部へ写真を送ろう……こちらは記事原稿を送り、写真電送の終了を待ったいた。おなかも空いたし、のども乾いた。確か、サントリーの広報の人も一緒だった、かな。早く終わらないかねぇ、と思った次の瞬間、ボン!! という遠慮気味の爆発音とともに廊下対面のカメラマン部屋のドアの隙間から白い煙が流れ出てきた。何だ~~!!!! かくして、Mカメラマン主役のハプニングは起こった。飛行場からすれば2回目であった。

【The Runnymede爆発事件の真相】

「おかしいんですよ!!」カメラマンの目は血走っていた。」「おかしいって!?」「回線が切れちゃうんですよ。だから、まだ送れないんですよ」「そんなはずないと思うよ」「フロントで訊いてもらえませんか?」。当時はフロント横に交換室があり、交換手が常駐して、ジャックをつないでいた。本当に切れるというなら、この人たちが切った……と。そんなはずはない。いつもお世話になっております。一応、確認させてもらったが、「まさか、何ゆえに?」と。「それでも」とカメラマンは、差し込んだジャックをテープで止めに行った。「OKでした。今度はいけます」。だが、またどこからか白い煙とともに、火花も飛んだ。「こりゃあかんよ。回線には」関係なく。こちらの機材がおかしい。コンセントには」まず変圧器がセットされている。英国は220―240なの日本の機材を使うにはこれが必。見れば、何やら焦げた痕跡がある。素人目にも、これが問題。「明日、電気屋を探して修理を頼んでみよう。今日はあきらめて一杯飲もう」。運良く、同じエガムの町に電気屋を発見。翌日、取材の合間に変換器を持ち込んでみた。主人は快く、といった感じで電送機をチェック。一瞥に近い時間で一笑に付された。変換器だから、変換のスイッチがある。これをやらなかったのでショートしてしまったのであった。「すぐ直るよ」と主人。10分後に解決。カメラマンは「Thank you very much!!」を連発した。主人は一言「you never miss again」と言って、笑った。

【サントリー広報部にはお世話になりました】

世界マッチプレーの取材では、サントリー広報部さんに大変お世話に」なった。こちらもお酒が嫌いな方ではないにで、打ち合わせと称してよく飲んだ。もちろん打ち合わせもした。日本でも何かと連絡をいただいてよく飲んだ。一軒目でご馳走になり、それではと、二軒目はこちら。そこで終わったためしはなく、三軒目、そしてダメ押しの四軒……向こうは営業を兼ねた顔出しの意味もある。皆さんめっぽう強い。ある時は女性のスタッフも同行。強い、強い。「朝、残りませんか?」「飲んで帰ったら、寝る前に目いっぱい水を飲みます。それこそ喉元まで。大抵、朝すっきりしてますよ」「なるほど」。試してみたが、そんなに、言うほど、すっきりしなかった。やはり、根本的に強いのである。もう一人の男性スタッフは、「ダメそうになったら、トイレで吐いて、また飲むんですよ」。そこまでやるか。大会の期間中には、当時副社長の鳥井信一郎さんにも、お世話になった。市内の日本割烹で記者懇親会を開いてくれた。こちらが世界マッチプレー終了後、オリエント急行の取材をすること、その合間を見てTGVにも乗ってマルセイユの探訪する予定であることを話すと、『ワイン街道(アルザス)にはうちのワイナリーもありますよ。連絡しておきましょうか?」と。「ワインは全くの素人でして。何から入ったら良いんでしょうか?」「そうねえ、手頃なのはムーラン・ナ・ヴァンでしょう。高くありません。ボージョレ地区のガメイ種100%で造られるもので奥が深い。これを頼むと店側はホー、となりますね」「よし、このネタでフランスでひと暴れしよう」。この夜も結構酔ったことを憶えている。

【君も成金なのか?】

Mカメラマンのハプニングもなく、世界マッチプレーも順調。スペインのせべ・バレステロスが勝ち進み、サンディ・ライルを下して優勝した。こちらの頭の中は、オリエント急行の事で一杯。プレスルームでもついつい、その話題になってしまっていた。日本人記者連中は、それにしても、何だかトウスポらしくて面白そうだな」と笑っていた。しかし、地元、英国の記者の反応は違った。「一体、そんな観光列車に乗って何をするんだ。金が高いだけだ。意味あるのかい? その半額以下でアテネへ行って、ぜいたくに遊べるぜ」と。「オリエント急行は007、アガサ・クリスティなどで、日本ではちょっと謎めいた存在対象にもなっている。そこで実際に乗って、その雰囲気を読み物にしようというコンセプトなんだ」「日本のマスコミは金持ちだなあ」。まあ、いいか……。

※オリエント急行。起こりは1883年、国際寝台車会社が運行を開始した、パリ→イスタンブール間の国際定期列車。当初から貴族、富豪たちが客筋だった。戦争などで中断。1977年にスイスの旅行会社によって、ノスタルジー・オリエント急行の名で復活した。これが007、オリエント急行殺人事件などの映画の舞台となって、日本でも注目されるようになったのだ。

【Chip Star on the Orient Express】

世界マッチプレー、セベ・バレステロスの圧勝の原稿、写真を無事送稿。その夜は、ゴルフ専門誌の記者、サントリー広報部のメンバーが集まってくれて、The Runnymede on Thamesにて、打ち上げ&壮行会。明けて翌月曜日、旅の衣装となる羽織・袴を含む様々な荷物を抱えてタクシーでLondon Victoria stationに向かった。日本なら東京駅と上野駅を合体したような役割を果たしている。オリエント急行は、東側プラットホームの2番線を、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスの専用としていた。ホームに人はまばら。限られた人しか乗らないので、それも当然。お揃いのバーバリーのコートに身を包んだフロアスタッフがきびきびと、しかも笑顔を絶やさず、接客していた。何か、有名になった気分。「タキシードならボンド、こっちは羽織・袴だから、世界のMifuneか」と、右腕のカメラマンに軽い冗談。「緊張しますよ。この雰囲気は。結婚式用のスーツ持ってきました」。ロンドンからはまずドーバーに向かう。フェリーでフランスのカレーへ渡り、ここから正規のコースに乗る。だから、ロンドン発時点では豪華な車両ではない。なるほど、と思っているところに、アジア系の女性に声を掛けられた。「東京の新聞社の方ですか?」。何だ日本人の女性だ。聞けば旅行会社の現地アテンド。「さくらフイルムの缶を作ってらっしゃる会社の社長ご夫妻が乗られるのですが、英語がだめなんです。ディナーまでヘルプお願いできませんか?」。帰国後の読者が増えるのは大歓迎。「OK、楽しくやりましょう」。老夫婦は嬉しそうに着席した。オリエント急行は静かにドーバーへ向けて滑り出した。

【我こそは和製007】

ロンドン発カレー行きの国際列車は、ドーバーからフエリーに乗った。サービスのアルコール、ジントニックをチビチビ、時々海と切り立った白い壁を眺めているうちに、カレーに着いた。ここから汽車が替わる。いわゆるオリエント急行である。日も暮れて、薄暗いホームに”貴族専用”といった佇まい。丁重にコンパートメントに案内されて、目を見張った。007、アガサ・クリスティの世界である。ついに来たか。さあ、トランクの中から、羽織・袴、雪駄を取り出して、お召し替え。渡英前に細君の実家、味一番(中華料理)の二階で特訓して身に着けた着付けであった。何とか様になったところで、扇子を袴の帯にねじ込んで、よし!! 右腕のカメラマンを従えて、デイナー車へ向かう。こちらは礼服に白いタイ。約束通り、さくらフイルムの缶を作っている会社の社長夫妻にも声を掛ける。こちらを見て、「えッ!!??」と絶句。よし!! デイナー車のドアを開ける。「オーツ!!」と歓声。「movie star‼??」。ついに007の向こうを張って、tousupoの一記者がオリエント急行の主役へと躍り出たのである。

【オリエント急行の宴】

オリエント急行がフランスのカレーの駅を出た。次の停車はパリだ。デイナー車の各テーブルでは豪華な宴が始まった。カクテル、高級そうなワインのボトル注文。こちらは日本の老夫婦のエスコートもしながら、カメラマンの注文に応える。主人公は忙しい。スチュワードが来た。「日本のムービースターですか? お飲み物は?」。そら来た。「ムーラン・ナ・バンはありますかな?」「フランスは何度目ですか? うれしくなった。懐から千円札を出してチップを渡した。どっきり顔のスチュワード。「I’m chip star‼」。デイナー車内、大爆笑。やった! カメラさん、しっかり撮ってよ! 気が付けば、白人の母娘と思しき二人がテーブルに来て、「ご一緒していいかしら?」「why not? 光栄ですな」。聞けばオーストラリアからバケーションでやってきた、という。機会がありましたら、是非遊びにいらしてください。歓迎いたします」。娘さんの方はワインのせいだか何だか、ウットリしているように見えた。だめだよ、こっちは仕事中だ。千円のチップのおかげか、ピアノ弾きもが、「何かリクエストはございますか?」「そうだなあ、ルート66なんてどうかな?」。オリエント急行でルート66なんてどうしたもんだか……。こんな調子で飲んで食って、しゃべって、千円のチップを撒いて、デイナー車の中心人物となった。着物を着ての宴会は結構疲れる。パリのオステルリッツ駅に着いた時は、結構よれていた。羽織・袴・雪駄、これにアタッシュケースを下げてホームを歩いた。パリでワンストップ。TGVに乗って、マルセイユを探訪する企画もあったからだ。「OH、ムービースター!!」「NO、NO、チップスター!!」。また受けた。この旅は面白くなりそうだ。いくらでも書ける……。

【TGVでマルセイユへ】

オリエント急行をパリで一時下車。一日のオフの後、パリ北駅からマルセイユに行った。時速250キロ以上。フランスの誇る弾丸列車。車内は飛行機を思わせるような空間。結構ワクワク感もあって、快適。「ちょっとのんびりできそうかな」。しかし、カメラマンMは緊張しているようだった。無理もないか。一日のオフを利用して、観光スポットを抑えるべく、パリの街をぶらついた。二人の若者がこちらの正面に来て立ち止まった。両手に紙を広げている。見れば、”Give me money”と。ン!? もう一度紙の文字を確認しようとした時、紙の下に異変を感じた。紙の死角……若者の手がこちらのジャンバーのポケット探っているではないか。私は紙を払うなり、「馬鹿野郎]と叫んだ。若者はナイフをちらつかた。私は二度目の「馬鹿野郎!!」とともに、蹴りを出した。二人の若者は道路を渡って慌てて逃げた。私は「待て泥棒!!」と叫びつつ、追った。途中でカメラマンMに止められた。つかまえていたらどうなったのか? 若者は明らかにジプシー風。深追いすれば、別の危険が待っていたか? 「パリは危ないですねえ。気を付けないと。こっちは高いカメラ持っているし」。カメラマンMはカメラバッグを抱いた。

【マルセイユにて禁断症状!?】

☆にわかフレンチ☆ 初めてのマルセイユ。改札を出たとたん、浅草か三ノ輪か……といった印象を受けた。港町。いいじゃないか。しかし、我々は無謀にもホテルの予約をしていなかった。駅の案内所でホテル探しにトライするが、英語が通じない。フランス語がしゃべれずにふらり旅などありえないのかも。さてさて、「白石さん、ここに広告がありますよ。これホテルでしょ!?」とカメラマンのM。確かにこじんまりとしたホテルの写真。電話番号も。何か、ジーン・ハックマンがお忍び捜査で隠れ家にしそうな雰囲気だが、ぜいたくは言ってられない。公衆電話から「Allo! Allo!」とやった。「エングレ?」「Non」だからだ。こうなったら、度胸でぶちかますしかない。「disuponibles? ドュ ジャポネ?」。「ウィ ムッシュ」と向こうから。「おー、フレンチOK。やりますね白石さん」カメラマンMも嬉しそう。ホテル名を紙に書いて、タクシーの運転手に渡した。あさ黒いアラブ系と思われる運転手は小さくうなずじくと車をスタートさせた。

☆グルメ探求の結果☆ ホテルはこじんまりとしていた。当たり前だが、写真より安っぽい。でも素泊まり3千円はgood! マルセイユのグルメも取材計画に入っていた。夕刻を待たずに街に飛び出した。フランス語で”グルメ”……食べる、食事という意味だ。さて、港へ行ってどこか良さそうな店に入ろう。しかし、オリエント急行のどんちゃん騒ぎで内臓がややお疲れモード。下っ腹を帯で締めていたので、暴飲暴食はそこでダムのようにせき止められていた可能性がある。ちょいと胸焼けもしている。こんなもん、飲めばすっ飛ぶだろう。てなことで湾に面したこぎれいなレストランに入った。白ワイン、生ガキ、ガーリックトースト、取材で写真を撮るから、ブイヤベース……”まいう~”を連発。ワインをガブリ、生ガキをチュルチュル、胸焼けはどこかへ消えて、またまた暴飲暴食モード。ついでだ! 一つ憶えの「ムーラン・ナ・バン頼みます」。店の主人は、「おぬし、できるな」といった表情で、運んできた。赤ワインも飲みつつ、合間にブイヤベース。カメラマンのMも、「うまいっすねえ。マルセイユは気に入りました。安全そうだし」。何言ってんだか? 来たばっかりだぜ。それに世界に知られた麻薬組織の本拠地とも。油断は禁物。両者腹が突き出たところで、「散歩しながら、ホテルの方へ戻ろうか?」。港の夕暮れはやたらにきれいだった。ジャン・ギャバンが出て来そうな風景であった。きっと映画で観た記憶もどこかで重なったのかもしれない。

☆SOS 誰か助けて!☆ 喉元まで地中海料理を詰め込んで、港をぶらぶら歩いてホテルへ帰った。部屋に入って、突き出た腹を見ながら、「ちょっと休憩」と言って、ベッドにゴロリ。フランス語のテレビをぼーっと眺めているうちにうとうと。2時間ぐらい経った頃か、何か内臓の異変で眠りから覚めることになった。腸のあたりが熱く、痛い。胃も未経験のむかむモード。トイレに飛び込む。物凄い下痢。出せば治る……しかし、ベッドへ戻ると、再び強烈にもよおす。一体何が起こったのか? 水のような下痢の後は吐き気。これも治まる気配はない。ふらつく。発熱しているのは間違いない。それも結構な高さのようだ。経験からして、39度は堅そうだ。まずい。カメラマンのMは緊張の面持ちで、そばにいる。「どうしましょう? 薬が必要ですよね? 外で探し来ましょうか?」と言ったって、フランス語しか通じない感じのマルセイユの街で、”宝探し”ができるのだろうか? オリエント急行での暴飲暴食で内臓がダメージを受けているところに、さらにアルコールと生ものを詰め込んだ……完全なる消化不良だった。日本でならバッファリンやら、消化剤などを飲めば解決。だめなら医者に駆け込むところ。しかし、このマルセセイユではどうすりゃいいんだ? カメラマンのMはフロントに走り、身振り手振りで状況を説明して、おそらく鎮痛剤と思しき錠剤をゲットしてきてくれた。藁をもすがる思いで飲んだ。ちょっとだけまどろんだ。起きてはまた上下から出した。そして薬。日付が替わった頃にようやく落ち着いて、浅い睡眠に入った。

☆再度、にわかフレンチ☆ 翌朝8時、死の淵から蘇ったかのように目覚めた。いつもの空腹感は無い。「白石さん、何か買って来ましょうか? 食べ物ぐらい言葉が分からなくても大丈夫でしょう。何が良いですか?」「ありがたい。まず水分が欲しいね。固形物は受け付けそうもないから、精一杯果物かな?」。カメラマンのMが街でゲットしてきてくれた食料で何とか復活の兆しをつかんだ。この日の予定はパリに向かって立ち、途中のワイン街道を探索することであった。しし、歩くのもまだまだ不安な状態であることから、街で薬の入手、そしてパリ行きの列車の予約変更をやっておくことにした。10歩歩いては休み、といった調子で薬屋、マルセイユ駅と回った。薬屋では「メデイシオン」」連発して、ゼスチュアで。何とか消化剤と鎮痛剤をゲットした。 メデイシオン は英語のmedicinenonoの勝手にフランス語読み。駅では「リザベルシオン」の連発だった。こちらは英語のreservationの勝手にフランス語読みであった。すべてOK。怖いねえ。トウスポは何をするやら。大ピンチであった。しかし、これもおまく乗り切れば、連載のネタになるのだ。トイレの中でうなりながら、そんなことが頭をよぎってもいた。

【再びオリエント急行】

☆パリ東駅→ベニス☆ マルセユからパリに戻って一日のオフ。猛烈な消化不良からかなり回復。明けて夕刻、パリ東駅から再びオリエント急行に乗った。映画ではイスタンブールが終着駅だが、通常はベニスが終点。洗練されたスチュワードにコンパートメントに案内されて、ホッと一息。「体調が戻って良かった。一時は旅が続けられないかと……」「そうですね、必死でしたよ。フランス語なんて分かんないし」とカメラマンのM。薬と食料の調達がなかったら、どうなっていたのやら。旅は道ずれ、世は情けってか。列車はカレー→パリ間でディナーも終了。夜の闇と共に静寂が漂っていた。サロンカーも客はまばらだった。もう暴飲暴食はいかん。ウィスキーを軽く2~3杯。コンパートメントに戻ってゴロリ。映画ではないので、殺し屋も、ロシアの美人スパイも現れなかった。

【ベニス→イスタンブールで事件は起きた】

☆通常の終点はベニス☆ オリエント急行はパリを出てスイスのジュネーヴを通り、シンプロン峠を通過して、ミラノ→ベニスへと。途中、ジュネーブを通過したあたりで夜明けを迎え、朝日がやたらきれいだ、と感動していた。この企画は個人的にも、何だかとても良いものに感じていた。それほどゆったりして、貴重品を部屋に残してきても、何の心配もなかった。「ベニスから国際列車に乗るんだけど、食堂車で一杯飲んだりしていれば楽勝だな」「そうですね、もう終わったようなもんですか?」。カメラマンのMもリラックスしているようだった。

☆国際列車は危ない⁉☆ 「手打ちうどんでいってみっか? ハウワインもいってみっか?」。ベニスはまさに水の都。水辺をウロチョロしながら、パスタ探し。どこでも良かったのだが、連載のネタも欲しいので歩き廻った。太陽も燦燦と降り注ぎ、ゆったり、のんびり……200パーセント平和だなと緩んでしまう。しかしベニスもイタリアだから、注意は必要なのだが。一軒のレストランで”アリオーリョ・ペオエロンチーノ”。美味い。これも一つ憶え。ハウスワインをグラスで。美味い。腹ごしらえを兼ねた取材もOK。ってことで駅へ戻って列車の確認。イスタンブール行きの一等コンパートメントを確認。「後は食堂車でちびちびやっていれば、ゴールのイスタンブール。「楽勝だね、M君」「そうですね。でも念のため、非常用ということもあるから、軽食を買っておきませんか?」。カメラマンの提案で、パン、サラダ、ソーセージ、ボトルワインを調達した。これが命をつなぐことになるとは……。

☆共産圏で約人の急襲⁉☆ ベニスからは国際列車に乗り換えて、イスタンブールを目指す。映画ではロンドンからイスタンブールなのだが、このコースは特別の時しか運航されない。一応、国際列車の予約をしてきたのだが、何だか一等はガラガラで肩透かしを食らった格好であった。「まあ、空いてるのもいいか」「でも何だか雰囲気がもう一つですね」。カメラマンのMの表情から、明るさが消えかけているような感じがした。「確かにオリエントはキラキラだったからね。その落差があるね」。汽車は夕刻のベニスを滑り出た。ザグレブ、ベオグラード、ソフィアなどを経由していく。当時の共産圏を通過していくのだから、気分的にもゆったり、のんびりといくはずもなかった。列車内をゆくゆく調べてみると、食堂車なんてなかった。また、コンパートメントの外に出て、様子を伺ってみると、二等と思われる車両は結構な満員状態であった。「空いているのはこの一等のコンパートメント車両だけのようだね。それに食堂車なんてないから、どこかの駅で調達する必要があるね」「荷物も注意が必要でしょう。基本的に私が走ることにしましょう」。ベニスで買い込んだ軽食はスタートして間もなくちびちびやっていたので、残りは心もとないものになっていた。小さい駅に止まる。英語はまずダメ。駅名も定かではない。ゼスチュアを駆使し結果、水は”アグア”で通じることが判明。金は? 仕方ないので手持ちのドルを切ることにした。しかし英語の車内アナウンスなどないので、必死に走っては聞き、ゼスチュアも繰り出し、一ドル札を見せた。これで水の調達はかろうじて。ちょっとほっとした。気がちょっと緩んだ。 列車がクロアチアのザグレブに入る時に、コンパートメントのドアが勝手に開けられた。”excuse me!”なんてなし。制服の税関吏がどやどやっと。「パスポルト、コントロール‼」。おうそうか、国際列車だから、国を通過するたびに出入国のチェックがあるのか。こんなことも来て初めて分かった。そもそも一般的な観光で、こんな国際列車に乗る人はまずいないのではなかろうか。税関吏はお世辞にも”welcome”の雰囲気ではない。取り調べそのものであった。手荷物に関しては、「オープン コントロール‼」。これが終わると、「トエンテイダラー プリーズ‼」「Its US?」と聞き返すと、「イェス! イーチ!」。なんと入国税が20USドルときたもんだ。……だいぶイラつきもしたが、儀式が終わって役人は帰った。ほっとした。カメラマンMの顔にも安堵が漂った。「白石さん、こうなったら寝ちゃいましょう。寝て起きればだいぶ進んでいるでしょう」。確かに共産圏の夜は暗い。駅はどこも灯りが少なく不気味な感じさえした。寝よう。コンパートメントはソファー倒したりすると寝台車に早変わりした。しかし、どうも雰囲気が良くない。カメラマン一台30万は楽にするNikkonやCanon、計3台。これに引き伸ばし機やら何やらを抱えている。その昔、学生の頃、ナホトカからシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ行くというのが、一つの箔をつける手段と言われたことがあった。そして、経験者談が人ずてに伝わっていて、「シベリア鉄道に乗って、お土産用に持って行ったセイコーの時計が大人気。一個で食堂車貸し切りのどんちゃん騒ぎができた」。また、「赤の広場でパンストをヒラヒラさせたら、女性が集まって来た。その中の一人のアパートへ行った」とか。真相は定かではないが、共産圏では日本製のカメラ、特に世界的ブランドのNikkon Cannonなど、一財産ものに違いない。役人の根めるようなまなざしが頭から消えなかった。

☆遂に事件は勃発☆ 税関吏の三白眼の無神経な訪問 ⁉  に神経を消耗したようで、知らぬうちに二人ともうとうと状態に入った。また突然ドアが開いた。「パスポルト・コントロール!」「さっき見せたはずだが……」「今度出国。パスポルト、プリーズ!」やれやれ。何て国だ! 税関吏は無表情にパスポートを開いてスタンプを押して、出て行った。これが次のユーゴスラビア入りでも当然」あった。いきなり訪問と「パスポルト・コントロール」などは一緒だった。ちょっと慣れてきていた。ハイ、ハイどうぞ、といった感じで事務的に受け答えして、済むと眠りに落ちた。ン⁉ 何か変かな? 暗闇の中で、頭の上を探った。パスポート、イスタンブールからの飛行機チケット、クレジットカード、トラベラーズチェック、現金5米ドル、日本円2千円……などが入れてあった。まあ言ってみれば命綱。何かあっては困るので、頭の上の棚に置いていた。暗闇の中でまさぐった。ン⁉ 無い、ってことはないよな。電気を点けた。ベッドソファアの下ものぞいた。無い! 仕方がない。カメラマンのMを起こした。「アタッシュケースが見あたらないんだ」「エッ⁉ 白石さんが頭の上に置いてたやつですよね。こりゃヤバイ」。やられた! 裸足でコンパートメントを飛び出した。ドアの近くに、これまた三白眼の車掌が立っていた。何かニヤついている。笑っている場合じゃねぇ。「call police!! アタッシュケースを盗られた!」。ちょいと混乱していた。車掌に詰め寄って。ポリッツエ、 ポリッツエ !と叫んでいた。車掌は薄笑いを浮かべるのみで、「言葉が分からない」といった感じで、首をすくめるばかりだった。埒が明かない。二等車両も当てののないまま、のぞきまくった。しかし、そこまで。仕方ない。一度コンパートメントに戻ろう。ドアを開けた。カメラマンのMはカメラバッグを抱きしめて、俯いていた。「白石さん、ヤバイです。泥棒列車ですね」「こうなったら仕方ない。ベオグラードに着いたら、会社に連絡したり、日本大使館に言って相談しよう。取材旅行は中断やむなしかな」。カメラマンのMの顔は青ざめていた。

☆ポワロを目指せ!☆ カメラマンMのパスポートもそっくり入っていたアタッシュケースを盗られた。大ピンチである。恥を忍んで、恥じゃないのだが、編集局内の反応は「だから言ったんだ。大体企画が乱暴すぎるんだよ」になるはずだ。声の主の顔も浮かんできた。ここは一つ、うまく乗り切れれば、逆に連載には絶好のネタになるに違いない。ヨシッ‼ この列車は現在、どっぷり共産圏の中を走っている。外との出入りは不可能。車内には恐らく警察系のスタッフもいるだろう。一般人であれば、その目は怖い。奪ったアタッシュケースをご開帳できる場所は限られている。……となると、ヨシッ‼ カメラマンMに説明した。目はうつろだった。早く何とかしないと危ない。「僕はカメラを守ってます」 とカメラマンM はぽつりと言って、カメラバッグを抱きしめた。ヨシッ‼ 意を決してコンパートメントの外に出た。捜索の場所をトイレに絞った。他の部屋もさりげなくのぞいたが、あまり念を入れると、こちらが盗賊の疑いを掛けられる恐れもある。一つ目のトイレは無し。さらばと二つ目、これも無し。2ストライク❕ あほかこんな時に。そして三つ目、ドアをパット開けると、我がアタッシュケースが便座の上にちょこんと。あった‼‼ 中を調べないで、ともかく外に出た。ン⁉ あの三白眼の車掌がのそっと立っていた。「It’s mine!! おまわりを呼べといったバッグだ」。三白眼は薄ら笑いを浮かべるだけだった。恐らく、こいつだ。税関吏もグルなのか。長居は無用。アタッシュケースを抱えてコンパートメントに戻った。「あったよ、見つけてきたよ」「え~良かった‼」「まだ分からんぜ。中身のチェックだ」。アタッシュケースを開けた。5米ドル、千円札が消えていただけで、あとはセーフだった。「OK,、セーフ‼ 旅を続けられるぜ」「良かった~この後、どうなっちゃうんだろうと心配でした」カメラマンMも安堵の色を見せた。いや~危なかった。

☆ベオグラード駅の涙☆ イスタンブールへはベオグラードにて乗り換えが必要だった。に戻った。荷物を持ってホームを歩いた。そこここで家族単位でベンチに座り込んで涙を流し、途方に暮れているように見えた。この人たちは、我々と同じ列車に、多分イタリアあたりから乗り込み、寝込みを狙われて、手持ちの金を奪われたらしかった。出稼ぎ……金を稼ぐはずがなけなしのお宝を奪われた。国際列車は泥棒も呉越同舟だったようだ。いや、スタッフは怪しさ満点ではあったが。ベオグラードでドル札をちらつかせて食料を調達。同じような国際列車でイスタンブールへ。今度は油断しないぞ。「僕は寝ません。どうぞ楽にしてください」カメラマンのMの目は座っているように見えた。

☆自由圏バンザイ☆ 汽車はブルガリアのソフィアを抜けて、トルコへ入る。雰囲気が何となく明るくなるから不思議だ。駅には軽食の売り子が。こちらもまたまた米ドルをちらつかせて補給食を調達。ようやく気分がほぐれかかる。カメラマンのMも歩っとしたのか、うとうとしかけるが、寝ない。「寝るとまずいでしょ」とカメラバッグを肌身離さず。車内アナウンスも分からないから、ひたすら乗っているのだが、最後は午後3時を回った頃、海沿いを走り始め、彼方にイスタンブールの街並みがうかがえるようになって、さらに安心が増した。ようやくゴールできる。自由圏はほんとにええわい。午後4時過ぎだったか、列車はイスタンブール駅に滑り込んだ。荷物を抱えてホームに出た。泥棒トラブルは無かったのだろう。ベンチで泣き崩れるシーンは見かけることはなかった。駅の両替所で一万円程度をトルコリラに替えてタクシーに乗った。英語が通じるのは久しぶり。「ヒルトンへ」。予約はしていなかったが、ヒルトンなら何とかなると思った。フロントで部屋が取れるか訊いた。「生憎ですが」とフロントの女性。こちらの風体は国際列車に缶詰状態で、決してきれいとは言えなかったので、警戒の気持ちもあったか。すかさず、AMEXのゴールドカードを出した。「これで何とか、ロンドンからようやく着いたので」。「少々お待ちを。あ、ちょうどキャンセルがありましたので」。嘘つけ、最初から、あっただろうに。ま、それはおくびにも出さず、「イスタンブールは初めてだが、こんなにきれいな街だとは」こんなおべんちゃらを言って、部屋を取った。部屋に入るとセミスイートのようにデラックス。いいよ、会社持ちだから。冷蔵庫を開けて、冷えたビールの小瓶を3~4本出して栓を抜き、カメラマンのMと一気にあおった。自由も一緒に胃袋に流れ込むようだった。自由圏はええね。カメラマンのMも相好を崩していた。国際列車の中では、恐らく極度の緊張から、軽度のノイローゼに罹ったのではなかろうか。カメラマンのMは酔うほどに饒舌になっていった。

☆後日談☆ 連載は各方面で反響を呼んだ。してやったり。調子に乗って、書きまくった。しかし、こうしたことを快く思わない連中が必ず出てくるものだ。しゃあんめえ、最初から妬まれているわけだから。驚いたことに、編集局の上層部の人間からも、「君、これ本当なの⁉」と言われた。現場を知らないから、信じられないのである。こういう人たちが偉くなりだすと、組織はあかん……。

(to be continued)

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