谷津嘉章は強かった‼

谷津 vs ウイリエム・ルスカ

☆異種格闘技戦に赤鬼登場

1975年暮れ、”オランダの赤鬼”ウイリエム・ルスカが異種格闘技戦で猪木に挑む、のニュースが流れた。ルスカは1972年のミュンヘン五輪で、柔道無差別級、重量級の二階級金メダルという偉業を達成しており、日本の柔道界においては宿敵のような存在であった。では、異種格闘技戦において、猪木が勝てば溜飲が下がるのかと言えば、そうでもない。柔道よりプロレスが強かった、となるのも見たくはなかったはずだ。ルスカの行動は日本の柔道界にある種、複雑な話題を投げたのかもしれない。問題の異種格闘技戦は、1976年2月6日、日本武道館となった。一月下旬、ルスカは来日した。記者会見にはかなりの数のマスコミが集まった。一体どういう試合になるのだろう? ルスカの隣にプロレス界では見慣れない人物がいた。現日本プロレス協会会長の福田富明氏である。実はこの人が影のプロデューサー。人脈を通じて、ルスカと新日本プロレスをつないだのである。福田氏はシグ片山氏(かの東京裁判で通訳を務めた)主催のユナイテッド・スチールの要職にあった。面白い会社で、ビジネスになる物は何でも扱った。ある時、「エジプトへかき氷のマシーンをまとめて輸出した」なんて話も聞いたことがあった。マシーンといったって、縁日で見かけた、足でペダルをばたばたこぐタイプのものだ。聞けばその筋から集めた、とのこと。ルスカのプロデュースもビジネスの一つだったのだろう。

☆公開スパーに谷津登場!☆

ルスカの公開スパーリングが行われたのは2月の上旬。練馬区江古田の日本大学レスリング道場。福田氏はOBであった。日本の柔道界にとっては宿敵のルスカに場所を貸す道場はなかった。警視庁という話も出かかったが、興行となると難しかったのだろう。当日、集まったマスコミは三社程度だったように記憶する。突き詰めれば新日本プロレスの興行。これを正面から取り上げるのか? となったのかもしれない。我がトウスポはそんなことはもはやどうでも良かった。個人的にも、ルスカの闘う能力に興味があった。柔軟、ストレッチ、バーベルなどの前段が終わって、ルスカがレスリングタイツになった。全身凄い筋肉で覆われていた。すげえ! 思わずつぶやいてしまった。「谷津、相手を頼むよ」と福田氏。大学三年生の谷津が現れた。ヘッドギアを付け、体重は95キロ程度。対するルスカは110キロ前後。やっぱりルスカが赤鬼……しかし、現実は違った。組み合ってグラウンドにもつれ込む。次の瞬間、あっという間に谷津がバックを取って締め上げた。立ち上がってもう一度、都合三回ほど組み合ったが、明らかに谷津が優勢であった。それではと、柔道着でスパーリングを行ったが、柔道着になると、ルスカはやはり赤鬼だった。セコンド役に後々格闘技界で存在感を表すクリス・ドールマンいた。こちらはサンボのスペシャリストだったが、レスリングでは谷津の敵ではなかった。 1980年、 谷津は 1980年の モスクワ五輪に備えて、自費でソ連のナショナルチーム合宿に参加した。ここで、メダル圏内の確証をつかんでいた。五輪不参加決定の後、新日本プロレスに入団した。道場で猪木とスパークリングを行った際、あっという間にバックを取った。「猪木さんに怒られちゃいました」と裏話を明かしてくれたことがあった。もし、モスクワ五輪に行っていたら……。

☆1976年2月6日、日本武道館☆

試合中盤、猪木が額を割られて流血。異様な雰囲気にもなった。しかし猪木はぐいぐいとルスカを挑発。これに乗ったルスカが、柔道着」を脱ぎ捨て、「さあ来い、やるならやってみろ!」といった感じで両手を挙げて猪木に向かった。まさに赤鬼。猪木は顔面を朱に染めながら、バックドロップ三連発を繰り出した。ルスカはかろうじて立ち上がりかけたが、セコンドのドールマンがタオルを投げた。猪木のTKO勝ちだった。柔道家のルスカが柔道着を脱ぎ捨てた瞬間、ルスカは柔道家からプロレス転向を宣言したとも受け取れた。柔道家がプロレスの軍門に下ったのではなく、最後はプロレスラーとして散った……と。

※追記。ウイリエム・ルスカ氏は2015年2月14日、74歳で旅立っている。何度かプロレスの巡業で一緒に飲んだこともあった。合掌

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