”皇帝”ベッケンバウワーを、アポ無し独占直撃

☆皇帝ベッケンバウアー☆ 1975年1月3日、西ドイツ・ブンデスリーガ名門のバイエルン・ミュンヘンが初来日した。前年の西ドイツW杯で優勝した直後。”リベロ”として華麗に舞い、チームを率いたフランツ・ベッケンバウアー、がむしゃらにゴールに突進するプレーから、”爆撃機”と異名をとった、ゲルハルト・ミュウラ―、”鉄のカーテン”GKのヨゼフ・(ゼップ)マイヤー、ストッパーのカール・ハインツ・ルンメニゲ……監督はいぶし銀のウド・ラテクといった陣容だった。1968年のメキシコ五輪銅メダル以来、低迷を続ける全日本。人気の面でも一つの起爆剤としたい協会の思惑もあった。

☆宿舎の張り込み☆ バイエルンの取材……さてどうしたものか? この頃、トウスポの取材として十八番的になっていたのが、〈直撃インタビュー〉取材対象を近影でとらえ、取材の証拠として、記者自身も映り込むというもの。トウスポはギリギリのポイントまで突っ込んで、読者の好奇心をくすぐって、新聞を売っていた。カストリ、イエロー……いろいろ言われても、めげることなく書きまくった。それだけ取材をし、裏も取っていたので、堂々としたものだった。しかし、陰口はあちこちで飛んでいた。「遠目で様子を見て、対岸から石を投げてるんじゃ楽。正面切って取材してんのかね?」。「よし、それなら、直撃インタビューでいったらどうだ。記者も映り込んで、厳しいことも含めて一問一答形式でいこう」。言いだしっぺは(故)井上博社長だった。「君、ベッケンバウアー,何とかならんかね?」。風向き伺いの番頭さんが気軽に石を投げてきた。デスクの(故)桜井康雄さんは、ベッケンバウワーは大物で、どの社も狙っていることは知っている。「ダメ元で、張り込んでみっか。うまくいったら表彰もんだぜ」。ニンジンはぶら下げられた。カメラマンと宿舎の東京プリンスホテルへ赴いた。しかし、とっかかりのヒントは何もなかった。

☆助っ人招集☆ 芝の東京プリンスホテル。ロビーは取材陣で結構にぎわっていた。スポーツ紙、専門紙……何人か知っている顔があった。「ここで待っているしかないか?」「そうですね」。編集局の 風向き伺い たちが絵に描いた”直撃”など、どこから手をつけたものやら……。ここは一つ、ドイツ語がしゃべれた方が少しは有利になるかもしれない。友人のMiyamotoに電話した。ドイツ遊学経験者で戻って来て、元の石油会社で働いていた。年明け早々なので、少しは自由になるだろう、と勝手に判断した。「ベッケンバウワーに会いたくないか? 会社抜け出して助っ人してくれないか?」。Miyamotoは東京駅の会社から30分ほどでやってきた。「どうすりゃ会えるかね?」「本人がつかまりゃベストだが、監督でもメンバーでも出てくればね」。釣り人の前に魚はそう簡単には表れるものではない。この日は夕方まで張り込んだが、収穫ゼロ。「白石さんは何を狙ってんですか? えッ!? ベッケンバウワーのインタビュー!? そりゃ無茶でしょう。アポも無理でしょう」知り合いのカメラマンとこんなやりとりがあった。

☆無理は承知だ☆ 周りから、無謀だの、なんだのと言われているうちに、「何とかやってやろう」という気になってきた。まずはMiyamotoを口説いた。「明日、会社休んでくれない。早朝から、ホテルを張り込みたい。可能かどうか分からないが、レストランでアタックしてみようと思うんだけど」。さすがにMiyamotoも会社を休むとなって二の足を踏んでいたが、狙いは超の付く大物、ベッケンバウワーである。それに昔から無謀な遊びを繰り返してきた経験もあってか、面白そう、とスイッチが入ると突き進む性格。果たしてスイッチが入った。「やってみようか」。

☆1975年1月5日、早朝☆ Miyamotoと共に東京プリンスホテルのロビーに着いた。待ち合わせのカメラマンはすでに来ていた。先輩のOさんだったか。「どうなの見通しは?」「いや、これから様子を見て何とか」。カメラマンはほとんだ期待していないようだった。そりゃそうだったろう。昨日も張り込んでいた知り合いのカメラマンに、「選手だ誰か見かけた?」と水を向けると、「いや、誰も……」。よし‼ おそらく二階のレストランで朝食をとっているはず。「ダメ元でレストランに行って、誰かつかまえよう!」。ロビーにいる同業者の目を意識しながら、エレベーターに乗った。二階で降りた。レストランは目の前。警備は無し。緩い時代だった。今ならエレベーターにも乗れないだろう。ジャージ姿のバイエルンの選手たちが出入りしている。Miyamotoのドイツ語の出番だ。しかし。ドイツに2年近く遊学していたが、ドイツ語のレベルは知らなかった。こちらも多少の英語は話したので、いざとなったら、という頭もあった。Miyamoto一人の選手をつかまえて、「ベッケンバウワーに会いたいのですが、中にいますか?」「ちょっと待ってて」とその選手は言うと、2~3分してウド・ラテク監督を連れてきた。やったぞ‼ 名刺を渡して丁寧に仁義を切った。「5分でも良いので合わせていただけませんか?」「5分か? 良いだろう。一緒に行こう。ミューラーもいるけどいいのかい?」「とりあえず、ベッケンバウワーさんを紹介して下さい」。ということで、レストラン中ほどの6人かけくらいのソファに座って、インタビューを始めた。Miyamotoは身振り手振りも加えたドイツ語を繰り出した。コミュニケーションはOK。5分の約束はあっという間に。40分ほども経過して、こちらから質問を切り上げた。皇帝には「日本にはプロがなく、企業チームが主体の組織。なかなか世界の舞台に出ていけないのだが、何か方法は?」と訊き、「日本の状況に詳しいわけではないが、やはりトップにはプロがあり、底辺の拡大が必要なのだろう」とベッケンバウワー。この夜、バイエルン・ミュンヘンは釜本中心の全日本を1-0で軽くあしらって見せた。”リベロ”ベッケンバウワーのプレーは実に華麗だった。翌日、「皇帝ベッケンバウアーに独占直撃‼ 皇帝、日本にプロ化の緊急提言!」の文字が紙面を飾った。5万円の社長賞をもらった。その夜、Miyamotoと新橋へ繰り出して痛飲した。この話は未だに語り草。友人Mは現在、原宿豊島園で、紅茶専門店Kを経営している。あれから何年……未だに飲むと、この話題が浮上する。大物釣りは、それほど痛快だったのである。

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