ソウルで出会った、その筋の方たち

【ロッテホテルで超大物に】

プロレスは興行である。力道山、馬場、猪木……日本の黄金時代は、やはりプロの方たちの手腕で細部まで仕切られていた。この方がトラブルの起きる可能性が少ない。韓国はお国柄、また、八百長事件などがあったことも影響して、興行はなかなか難しいものがあった。しかし、1975年3月の「猪木ー大木戦」は別格だった。力道山の四天王のうちの二人。力道山の死後、紆余曲折、それぞれの道を辿った末の、”因縁の対決”かなりの盛り上がりをみせていた。プロレスファンの当時の朴大統領の肝いりで、大阪の”専門家”が動いた、との話も。不満が渦巻く社会のガス抜き、駐留軍の慰問……色々な解説がなされていた。昼間、猪木の顔を見ておこうと思い、宿舎のロッテホテルに行った。ロビーに入って、キョロキョロしていると、「白石さ~ん、こっちおいでよ!」。声の主は新日本プロレスの新間寿営業本部長。「お茶を飲みましょうよ」。見れば10人ぐらいが一つのテーブルを囲んで、談笑していた。猪木もいた。「お邪魔します」「白石さん、こちらを紹介しておきますよ」と。一人の紳士が立ち上がった。貫禄が凄い。お互いに「よろしく」と名刺を交換した。えッ!? 頂いた名刺には時々週刊誌で目にする、有名な団体の戦闘隊長として知られた人の名があった。韓国名であった。こちらも有名だ。「Yさん、こちらトウスポの敏腕記者の白石さん、ほら児玉さんとこの」「あ~そうでしたね。よろしく言っといてください」。そう言われてもねえ。改めて見渡すと、Yさんの周りは凄い雰囲気の人たちが詰めていた。この人が朴大統領から直々に、日韓スポーツ交流の協力を要請されていたようだった。半島の血が流れる日本の右と韓国の権力層は色々な面でつながりがあったようだ。「何かあったら、いつでも連絡してください」とYさんに言われた。しばらく名刺を持っていたが、ついぞその機会はなかった。

【お務めを控えて】

☆戒厳令の夜☆ 戒厳令の真っ只中の頃だった。取材を終え、一杯飲んで宿舎の清心洞のソウル観光ホテルに戻った。10時過ぎ。そこは日本でいえば、浅草のような下町。周囲は結構にぎやか。しかし、それも12時までがリミットであった。もう時間だから今日は部屋で寝よう……フロントでルームキーを受け取ろうとしたとき、一人の男が近づいて来た。「お兄さん時間ありますか? もしよかったら、今から一杯飲めるところ案内してくれませんか?」。日本の観光客か、良かった。ソウルでは何度も尾行されたり、盗聴されたり、を経験していたので、最初は”またか”と思って身構えたのだ。「怪しいもんじゃなかとよ、明日帰らにゃならんので、どうしても今遊びたい思って」。九州弁だった。しかし、観光客であれば客引きの案内で、とっくにレールに乗っているはず……と思ったが、「分かりました。この近くに以前大木さんに連れて行ってもらった割烹があります。そこで良いですか? 歩いてすぐです」「おう、よかね」。その男は実に嬉しそうについて来た。

☆男の正体☆ 清心洞、夜11時。大木金太郎御用達の割烹の広間に座った。「勘定はこっちだから心配せんで。おっと、何者か、言っときます」と言って、男は名刺を差し出してきた。それには”K会 何某”と記されていた。素人じゃなかった。こちらも名刺を出した。「ほー、記者さんとね。よか仕事ね。競馬とプロレスで、九州スポーツちゅうのをよく見てますよ」「それはうちの支社です」「ほー、それは、何かの縁ですたい」。男は嬉しそうだった。「酒、料理、ジャンジャン持ってきて。女の子もな」。男は何か頼むたびに札びらを切った。物凄い束を持っていた。円vsウオンだから、ちょっとした金額で束になるのだが、それにしても。「不思議ですか? 明日、日本に帰ったら、お務めに行くんですよ。だから、今夜は思い切り遊びましょう。さあ、遠慮せんと」。北九州でK会、関西のY組と並んでブランド団体。お務め? 日本で何かがあって、ソウルで気分転換、そして帰国して出頭……ということなのだろう。戒厳令直前までどんちゃん騒ぎの宴を張り、ホテルに帰って二次会。ルームサービスでステーキ、ボトルごとのウイスキーを頼んで、夜明け近くまで。男は酔うほどに「何かあったら連絡してくれ。今夜のことは感謝しとる」。不思議な夜だった。しばらく名刺は持っていたが、電話を掛けることはなかった。また、飲みたかったような気がしないでもなかったが……。

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