A.猪木 vs ガッツ石松 「セメント対談」

編集局には内緒だ!?

☆スーパー対談への㊙作戦☆ 猪木と石松……二人の対談は、あのマイク・タイソンの全盛期、1988年(昭和63年)の2月下旬、東京ドームの開城記念の一環として行われたボクシング世界ヘビー級選手権のスペシャル企画として仕掛けたものだった。試合の煽りもあってか、タイソンは3月21日の本番(WBA, WBC、IBF統一世界ヘビー級戦。挑戦者ト二―・タップス)に対して、一ヵ月以上も早い2月17日に来日した。要するに、勝敗は明らかなので、タイソンに動いてしゃべってもらって、動員に協力してもらおうという作戦だったのではないか。各社とも苦労していた。タイソンの人間離れしたような強さがテレビでさんざん流されていたから、普通の世界戦のように、真っ当に取材しても、スリリングな記事は難しかった。このころ私は経営の体制が替わって、編集の上も替わり、現場を知らないような人材が座ったため、大変居心地の悪い椅子に座らされていた。純粋な取材編集でなく、広告部と連動して紙面を作る、という仕事だ。新聞、週刊誌をめくってみると分かるが、明らかにヨイショと明らかでないヨイショがある。明らかでないものは純粋な取材記事に引けを取らない、時には凌駕する時もある。私はこれを狙っていた。やれ温泉だの、イモ・ゴルフ場のヨイショは簡単な仕事だが、”なんでこんな事を”とストレスさえ感じていた。そこへ、タイソンの来日である。「スポンサーがどっきりするような企画お願いできませんか?」とリクエストが来た。さてさて、このテーマなら、紙面的にも派手になる人を集めて対談が良いだろう。誰にする? アウトローのイメージの タイソン、となると、ボクシングと塀の向こう側の経験を併せ持つ、小説家の安部譲二、そして喧嘩の仲裁で警察沙汰も経験している、元Jライト級王者のガッツ石松。こりゃ、面白くなるはずだ。ガッツ石松の方は、先輩の永島勝司さんがフレンドの仲だったので、「何とかするよ」と言ってくれた。問題は安部譲二。知り合いに、「安部はさあ」なんて時々」言っていた人がいたので、探りを入れてもらった。しかし、仲介者もいたようで、「20万出せる?」なんてことのなって、断念した。金に糸目を付けないなら、誰だってできることだ。This is not of my business!! さて、ではトウスポでもあることだから、異種格闘技のマッチメークでも異彩を放つ猪木では? 石松は異種格闘技のリングでレフェリーの経験もある。こちらも猪木とフレンド付き合いみたいになっていた永島さんに助けてもらうことにした。「いくら出せるんだ? プロレスの煽りじゃないから、ギャラいるぞ」。当たり前である。石松だって同様だ。いろいろと算段した結果、一人五万円。「安いな。まいいか」で話を付けてもらった。ありがたいことだ。新宿の京王プラザホテルにご足労願って、中華レストランで対談。日時も決めて、あとは敢行するのみ。しかし、苦労はまだあった。正式に写真記者の同行を依頼すると、編集局に企画がもれることになる。これまでに何度か、ご注進を得意とする人間に邪魔されたことがあった。「……こんな事やってますよ」てな感じで、とても相手にしたくなかった。そこで、㊙作戦が……。

☆スーパーDHの起用☆ 猪木―石松の対談は、原稿はある程度融通が効くとしても、写真を撮りっぱぐれるわけにはいかない。写真部以外で誰かいるか? 一人いた。編集局の人間だが、少しばかり自由に動ける若者がいた。変人視されている面もあったが、私とは少々馬が合った。Y君としておこう。ここの上司も事情を呑み込んで、協力してくれた。変な話だが、これがある時代のトウスポの内情であった。 Y君 はオートマの付いたcannonを持っていて、そこそこ写真も撮って紙面で使っていた。 Y君 も二つ返事で「面白そうですね」と。1988年2月下旬某日夕刻、私とY君は二人だけで、新宿の京王プラザホテルに行った。中華レストランの個室を午後七時過ぎからとってあった。早めに着いて二人の到着を待った。なかなか現れない。冷や冷やしながら待った。石松もそこそこ売れていたし、猪木は巡業帰りだったか。先着は7時半頃に石松だったか。「遅れてすいません、猪木さんは?」「少々遅れるという連絡で」「いいよ待ちましょうよ」。石松のマネジャーは渋い顔だった。何しろギャラが安い。それにこちらの先輩の永島さんが石松とフレンド付き合いで、予定にない行動を苦々しく思っていた気配もあった。「すいませんが、今のうちにタイソンに関するお話を先に聞かせてください」「そうだね。タイソンの動物的な闘争心、動きは普通の人は恐怖心を憶えるだろうね。少しでもその素振りを見せたら、勝負は終わりだね」……こんな感じで石松は自分の体験談も交えて語ってくれた。石松のボクシングもある意味で、喧嘩ファイトの要素も入っていた。ビッグマッチ前のトレーニングキャンプ。記者たちも招待されてキャンプを取材をした。これも客引きのプロモーションだから、あご足だ。夕食も、その後の一杯も主催者持ち。減量を背負っている石松も飲み会に参加すうことが多かった、という。石松は飲んでは吐き、飲んでは吐き……で宴会の席に付き合い続けた、との話だ。サービス精神旺盛。これもプロだ。「早く倒せば大丈夫」こんな話もしていた。トレーナーのエディ・タウンゼントさんは「15キロも落とすのよ。腕一本だからね」と。楽な減量ではなかったはずだが、石松はおくびにも出さなかった。今まで表に出なかった話もあって、あっという間に一時間ほど経った。やっと猪木が到着した。DHカメラマンh早速二人の対談ツーショット写真を撮りまくった。これで仕事のかなりの部分はOKであった。対談を30分ほど真剣にやった。95パーセントは完了した。新聞1ページは楽勝であった。夜も10時半を回って、そろそろお開き。二人に謝礼を渡してお礼を言いかけた時、「何、これで終わるのか? Y! お前は写真撮りに付き合えよ、この野郎!」。Y君は猪木にビンタを 食らってしまった。これはこれで猪木の親しみを込めた挨拶みたいなものなので、「お付き合いさせて頂きます」とトウスポ側は参加表明。「ガッツは行かんかい」と猪木。「じゃ行きましょうよ」と。マネジャーはとんでもなく渋い顔。「明日は朝からテレビですよ。顔が腫れると……」と。気分が乗っている石松は一括「うるせえ、てめえは帰れ!」。乱暴な話だが、こんな感じで全員、タクシーに乗って、六本木の酒呑童子という深夜クラブへ行った。「トウスポさん、心配すんな。ここはおれの場所だから」と猪木。ドンペリを何本かお代わり。一本2万円位かな、と思いながら、勧められるままに飲んだ。Y君は時々、猪木から思い出したかのようにビンタを浴ていた。「Y! ちゃんと撮ってんのか、シャッターが聞こえなかったぞ!」。石松も調子を合わせて、「しっかりやれよ!」と。マネジャーは一段と渋い顔で「明日の朝テレビが」。石松は「うるせえ、てめえ帰れ! 俺はずっと飲んでっから」と。仕方がない。怒られるのを承知で、中締めに出た。「申し訳ありません。充分に面白いお話を聞かせて頂きました。また、別の機会を設けますので、今日のところは一応お開きということで」と切り出した。猪木は怒ると思っていたが意外に、「おうそうか。石はどうだい?」。石松も「そうですね。猪木さん、またお願いします」となったので、なんとか切り上がった。時計の針は午前2時を指していた。

☆他紙を圧倒した「猪木vs石松」☆ 対談終了後、自宅のある練馬へ戻って駅前の居酒屋でY君とささやかな打ち上げ。「やったね。良かったね」「面白かったですね。ビンタ食らいましたが」。酒は実に美味かった。ドンペリより、居酒屋の熱燗の方が数倍美味く感じられた。ほっとした時、すでに空はうっすらと白みかけていた。翌日、築地本社に出勤して、新聞1ページを埋める原稿を書いた。Y君の写真もグッドだった。写真部ではちょっとした騒動になったようだった。「誰が撮ったんだ?」と。私の範疇でDHのY君が撮ったことを知ると、デスクは顔を潰されたようなことを口走っていたとか。「またあいつが」。このレイアウトはやはり、スポニチからスカウトの声がかかるほどの腕を持ちながら、経営者の批判をしたとチクられ、純粋な編集局から締め出された? 奈良井澄さん(すでに他界。合掌)が担当してくれた。素晴らしい紙面だった。他紙を完全に圧倒していた。編集局の何人かは苦虫を噛みしめているという話だった。私の後、何年も経ってから、入社から一緒にゴルフの仕事をしていたことのある小川朗さんが、社歴の後半、同じような仕事をしていた。やはり、スポンサーにおもねるだけではなく、納得させて広告を出してもらうというコンセプトである。物乞いじゃないからな。私は在籍中、そうした変なプライドみたいなものがあった。小川さんは”マムシ”とあだ名され、事件物にもかなりの力を発揮していた。定年前の早期離職。現在、ゴルフジャーナリスト協会の会長、自ら清流舎という編集プロダクションをベースに新聞、雑誌に多岐の活躍をされている。完全卒業前の転身組は、やはり優秀。自信も無ければ、なかなか途中下車はできない。トウスポは何人も優秀な人材を失ってきたものだ。ちょっと横道に逸れたかな?

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