鬼の篠竹が呼んでいる?!

つなぎは謎の女性

☆新橋五丁目の出会い☆ 築地の本社で仕事を終えた後は、あっちこっちで飲んでは、新橋五丁目のバーになだれ込むことが多かった。当時、はラジオ関東(ラジオ日本)、NET(テレビ朝日)のデスククラス、また某製薬会社の管理職、さらには防衛庁のお偉いさんなどが集まる、独特な雰囲気の店だった。普通のサラリーマンはまずいなかった。会員制じゃないが、一見さんには敷居が高かった。店の名はR……。1988年、ある夜、ソウル五輪が終わっていたから、10月の中旬頃だったか。Rのカウンターで、梅干しを入れた濃いめの水割りを飲んでいると、顔見知りの女性が隣に座って、「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」と。「ダメだよ、誘惑は」「そんなんじゃないって。でもうれしい」。この人、Pさんとしておく。仲間には金井克子さんがいたり、政財界に評判の占い師がいたり……正体不明の人だった。「で、話ってのは?」「あのねえ、アメラグっていうの? あれで有名な怖い人がいるでしょ?」「えっ⁉ まさか日大の篠竹さん?」「そう、そのまさかなんだけど、貴方に会いたいって言ってるんだけど、紹介するから、一緒にどお?」「そうかあ、なんで会いたいのか、分からないけど、行きましょうか」。それから2、3日後、Pさんの車で下高井戸の日本大学アメリカンフットボール部のグラウンドへ行った。夕刻、グラウンドはライティングされてはいるものの、薄暗く、少々異様な雰囲気だった。グラウンドの横にコーチングルーム、監督小屋があった。篠竹幹夫氏はどっかと座っていた。小屋には選手の親や、タニマチからのものと思われる差し入れが並べられていた。「監督、連れてきたわよ、お望みの白石さん」「おーよく来たな!」「初めまして。何かご用命、とか?」「おー、しばらく練習見てろや」「はい、分かりましょた」。監督の横に座ったり、時々、サイドラインに立ったりしながら練習を見た。すさまじいものだった。ワンプレーが終わる。選手たちはちょっとだけ指示を待つ時間を作った。何もなければ次のプレーに移った。とちった選手は自発的にその場を離れてグラウンドを走った。プレー自体の展開が悪いと、監督の招集がかかった。「お前ら、次の相手をイメージしているのか? もう一回やれ!」こんな感じの練習風景だった。殺気が漂っていた。「まあいいやじゃ怪我するからな」。全体練習はいつも午後九時過ぎまで続き、20分くらいのアフターで終わった。練習の最後には鬼の言葉があった。「負けるわけにはいかんぞ。この練習は勝つためにやっているんだ! 分かってるな!」「ハイ!」。

☆鬼の篠竹からの極秘依頼は?☆ 「さあ一緒に行こう」篠竹監督は、愛車のシーマに私を誘った。マネジャーがかばんを持って付いてきた。監督が運転。私が助手席。かばんを持ったマネジャーが後部座席。「これから合宿所へ行って話そう」。カセットテープから”百万本のバラ”が流れ出した。「いいだろ、この歌」監督はロシア語で口ずさみ始めた。上手いという物差しではなく、凄みと味があった。鶴田浩二のような歌唱である。中野区南台の合宿所に行く道中で、深夜スーパーに寄った。パン、お菓子……大量の買い物をした。「学生に差し入れするんだよ」と。監督とは初対面だったが、鬼の素顔がちょっと見えた気がした。根は優しい……。合宿所に着くと、これまた見慣れぬ光景、幹部選手が玄関への誘導路を作るように整列していた。「お疲れ様です」「おー」。こんな感じで玄関に入り、監督室へ通された。監督室には噂に聞いたことのある虎に革の敷物が敷いてあった。「いろいろ噂を聞いているだろう。日本刀抜いて脅してるとか」。日本刀も本当にあった。それも結構な数の物が監督室の傍らに立てかけられていた。「警察から頼まれて預かっている物もある。そんなに良いものはないよ」。「監督、私に用事というのは?」「まあ、軽く飯を食おう」。マネジャーが来た。「監督、用意ができました」。食堂に降りると、テーブルには刺身、煮物、お吸い物、ご飯……きれいに夜食が配膳されていた。

☆「何か良い手はないかい?」☆ 食事をしながら、監督はポツリ、ポツリと語りだした。それはまだバブルっぽい経済状況にあった当時、一流企業は人材確保の手段として、運動部を持っていた。バスケット、バレー……しかし、すでに実業団で定着しているジャンルには、新たな企業の参入は難しい。そこで見た目にも華やかで、頭脳も必要だよ、というイメージのアメリカンフットボールに注目が集まり出していた。実業団リーグの露出も増えてきていた。もともと、メンズファッションのVANなどもチームを持っていたこともある。ファッションとも結び付きやすい。すでにレナウンにはチームがあった。負けじとオンワードも作った。ヘッドコーチを関西の草分け的人物をスカウトした。これに、反発の声が上がった。関東の有力大学であった、明治、立教……関西に対するライバル心もあって当然、もう一つは、ずっと手弁当でやってきたのに、お金が動くとなったら、関西の人間がその恩恵を受けるのか? こんな図式だった、と思う。だが、今、いろいろと思い返してみると、防具販売もこの問題の根っこにはあったのかもしれない。関西よりのコーチは関東の大学でプレーした経験を持っていたが、その後は関西でフットボール用具専門店を主催、全国展開していた。関東にはやはりYという専門店があり、この辺で摩擦が起きようとしていた、とも考えられる。「オンワードには選手は送らん」関東の大学の指導者はこんな感じで結束したかのようだった。せっかく、人材確保と企業宣伝の狙いがあってチームを作ったのに、これでは逆効果。オンワードは人を介して、篠竹監督へ”陳情”をかけていたのであった。篠竹監督が影響力を発揮してくれれば、窮地を脱することができるかもしれない。オンワードはそこにかけた。篠竹監督のフットボール界での存在感は大きい。「どうだ白石、遣りてらしいじゃねえか。何か良い手はないか?」

☆名案、迷案、明暗☆ 「なるほど、そういう事でしたか?」と私は言って、ちょっと考えてみた。これもアマチュアでやっているから、お金が動きそうになると問題が起きる。そこで、「監督、日本のフットボールも、このまま企業のバックアップで活動し続けられるとは思いません。やはり、セミプロ、その後はプロでやっていけるように努力していくべきだと思います」「だから、オンワードへの風当たりをどうしたら解決できるんだい」「トウスポの紙面を1ページ買えますか? 買えるなら、日本のフットボールの草分けでもある監督の緊急提言として、今のような話を特集するんです。それはオンワードへの風当たりを和らげることになるでしょう。指導者は手弁等で良いはずはないし、学生の将来にもつながることでしょう。記事下の広告がオンワードじゃ見え見え。ここは他社の広告にしてもらって」「良いな! で、トウスポの1ページはいくらになりそうだ?」「定価で百万ですね」「よし、分かった」。人生で初めて、新聞の紙面を売ろうとしていた。

☆山が動いた☆ オンワードも担当幹部が下高井戸を訪れ、監督と打ち合わせの結果、正式にこの作戦に乗った。新聞の1ページは15段で構成されており、下5段が広告、上の10段が編集ページとなる。篠竹監督とのインタビュー形式の記事を中心に、実業団フットボールの現状分析……。レイアウトは、また奈良井澄さんという先輩にお世話になった。ページを作り上げて、試し刷りをして、篠竹監督、オンワードへ見せた。オンワードは副社長のGさんが登場。さっと見て、「goodです」と。篠竹監督も「やったなオイ。学校なら優だな」と笑みをもらした。この二日後、新聞は発行された。関東の学生フットボール界では、ちょっとした騒動になっていた。新聞のコピーがあちらこちらで、飛び交っていたという。築地本社に日大のマネジャーから電話がかかってきた「白石さん、お時間ありますか? 監督がお呼びです」。下高井戸の監督小屋に行った。「お疲れ様です。笑っちゃうぜ。俺のところにもこのコピーを持ってきたやつがいてさ、監督、こんな記事が出ましたよ。何者ですか。この白石ってのは。だとさ」。してやったり。この記事で随分と状況が変わった。オンワードからも手厚い礼を言われた。※ちなみに、私に電話をかけてきたマネジャーは、今を時めくツタヤ創業者の息子だったと思う。……これがトウスポでの仕掛け仕事の最後だった。この年の晩秋、トウスポは越中島のスポーツニッポン社のビルへ引っ越した。私は「人工芝じゃ野球をやるつもりはない」と言って、引っ越しを拒否。つまり、退社した。縁は不思議なもので、篠竹監督からみの仕掛け仕事のきっかけとなった、関西からのコーチは、その後、オンワードとの関係を円満に清算した。そしてベースボールマガジン社の副社長と大学の同窓生で親しかったこともあって、私を探して編集長に押し、アメリカンフットボールマガジンの創刊に奔走した。どこで誰がつながるのか、世の中、誰が脚本を書いているのやら。篠竹監督はかなり前に他界された。お世話になりました。合掌

☆監督小屋余聞☆ 篠竹監督の所ではいろいろな人にあった。正確には紹介してもらったわけである。選手の親の中には素人さんでない人も時々いた。マネジャーとなるとそのご子息が……結構な確率でそんな感じだったような気がする。また、監督小屋の入り口、ちょっと脇に直立不動の若者がいることもあった。聞くと。「親からさあ、行儀見習いで頼むと」いうから、引き受けているんだよ」と。監督がたばこを咥えればすぐライター、のどが渇いた、と言えばお茶……張り付き型のマネジャーであった。いずれも見た目に素人とは思えない人たちだった。私はこの中の一人に、何度かベンツにて、送り届けられたことがあった。ある日の夕刻、監督小屋に見慣れぬ初老の人物がいた。肩幅が広く、目が座っていた。素人ではないことは歴然としていた。軽く会釈をした。相手も、「こんばんは」と。すると監督「白石、この人知ってるか?」「いや、申し訳ありません」。「知るわけないだろ、篠さん」と初老の紳士が割り込んだ。「白石よう、この人は力道山を素手でぶっ飛ばした男だぞ!」「えっ⁉ じゃあ、戦後の新宿を牛耳っていた加納さん?」「そうだよ、この人が加納貢さんだよ」。加納貢、銀座の安藤昇とともに、ヤクザ以上の実力者と言われた愚連隊の頭だ。名刺を渡して、「よろしくお願い致します」「もう、何にもやってないけどね。新宿で何か困ったら電話してくれ」と名刺をもらった。ピンとこなかったが、戦後の裏社会の伝説の人物。……今、思い起こせば、あっちこっちで凄い出会いを経験させてもらった、思っている。当方、ゴマすりたちの暗躍でちょっとばかり干されたおかげだった、てことかな。

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