没後20年 馬場さんの思い出

☆運動神経も超人☆ 馬場さんが亡くなって早や二十年。1999年の1月31日だったから、二十年とチョイが過ぎたところ。もうそんなに経ってしまったのである。私の場合はバリバリのプロレス担当ではなかったので、それほど付き合いが深かったわけではない。しかし、いくつか忘れられなものがある。まず最初は馬場さんの運動神経である。プロレスを外野から観ている人たちはよく、「馬場のよっこらっしょのチョップ、十六文キックなんてほんとに当たるのかね?」と馬場さんの動きがいかにもスローモーであるかのように、小ばかにした表現をすることがある。運動神経が劣っているように。しかし、馬場さんは日本プロレス入りの前は読売巨人軍の投手だったのである。新潟の三条高校時代は卓球でも国体に出場した経験を持つ。プロレスの地方巡業では、温泉地に泊まることも少なくなかった。試合を終えて食事も終わってくつろいでいる時に、卓球で遊ぶこともあった。経歴などを知らない者が、「卓球なら勝てるだろう」となめてかかることもあったが、手も足も出ないほどの実力だった。私はバスケットボールで、馬場さんと同じチームで戦った経験がある。 ジャンボ 鶴田が入団して、国内デビューした後、1974年頃だったか。プロレスの評論家で森岡理右 (現筑波大名誉教授)さんという方がいた。馬場さんと親しかった。この森岡さんは、もう一つの顔を持っていた。筑波大学のスポーツ科学研究所の講師である。森岡さんは、「レスラーのパワーを計測したい」と馬場さんの全日本プロレスにアプローチし、馬場さんも体力向上いプラスになると判断。筑波大学での”合宿”が決まった。私とジャンボ鶴田は、よく分からないうちに、女子寮に招待されて、そこにあったギターを弾いたところ、大歓迎を受けて、ビールをしこたま飲んだ。翌日、体育館で筑波大学の女子チームと親善試合。私とジャンボ鶴田は張り切った。鶴田は山梨の氷川高校からバスケットで中央大学に入ったのである。私はこの頃、地域のチームを中心に週に三回は活動していた。馬場さんもスタメンで出た。私と鶴田がパスを回し。ゴール下に入った馬場さんにループパス。馬場さんがナイスキャッチして、アンダーでボールを回転させてシュート。面白いように決まった。あっという間に前半はダブルスコアでリード。筑波大の女子の顔色が変わった。監督は怒りだした。後半に入って、さすがにスタミナ負けしたが、こちらもミドルシュートを何本か決めて楽しませてもらった。馬場さんも楽しそうだった。馬場さんはバスケットもこなせる……恐ろしい人だと思った。

☆ジャンボ鶴田余話☆ 鶴田とは”全日本入社”早々から、親しく付き合っていた。目黒に道場があり、目白に宿泊所があった。稽古を取材して、大仁田、渕らの若手と共に、食材を買い込んで、鍋を囲んだこともあった。カラーの「ザ・プロレス」の特集取材であった。こんなこともあって、1973年の早春、鶴田がアメリカ遠征に行くとき、「できたら、向こうでコンバースのバッシュ(バスケットボール・シューズ)を買ってきてくれない」と頼んだ。彼はそれをやってくれた。「アメリカ遠征中、白石さんのバッシュぶら下げてたんですよ」なんて文句も言われたが。トウスポでバスケットボール・チームを作った時、彼の「44」のユニホームも作った。一緒に中央区の大会にでたこともあった。ジャンボ鶴田……残念ながら、腎臓のトラブルを解決するために、フィリピンに渡って、移植にまでチャレンジしたが、上手くいかずに旅立った。早や過ぎたねえ。

☆馬場さんの愛のムチ☆ 鶴田がアメリカ遠征から帰国して、日本の巡業に加わった。NWAの大御所、テキサスのドリー・フャンク・ジュニアが認めた、鶴田の類まれな才能は日本でもすぐに開花、ファンは急増していった。冬の巡業で名古屋地区から、中央線で長野方面へ向かい、駒ヶ根で試合があった。雪が深々と降っていた。こじんまりとした旅館に泊まった。試合が終わって、帳場の電話を借りて原稿を送り、さて軽く一杯……と思った時、馬場さんの声が響いた。「ジャンボ、ちょっと来い」。何事かと、玄関へ行ってみると、鶴田が雪の降る中に連れ出されていた。こちらも雪の中で様子を見ることにした。馬場さんはお構いなしに、指導を始めた。ひょっとすると、よく見といてくれ……だったのかもしれない。「ジャンボなあ、今日の試合のロープ際の体の裁きはダメだ」というと、何度も自らの体を使って、教え込んでいた。「いいか、分かったか!」。何度も、何度も。鶴田はその度に、「ハイ」「ハイ」と。夜10時は軽く回っていた。二人の頭は雪がつもっていた。おっと、こちらも同様。……こらがプロだ。やれプロレスはショーだなんだ、と世間の声が聞こえてはいたが、巡業を取材したことで、プロの凄みを身近で見ることもできた。翌日、旅館のロビーで馬場さんと会った。朝食が済んで、くつろいでいた。巡業の空き日だった。「白石さん、帰るだけなら、ゴルフに行こうよ」。こちらは会社に帰って、原稿書きが待っていたため、丁重にお断りしたのだが、今となっては大変残念な事となった。

☆馬場さんとショートホープ☆ プロレスの取材はまずは試合前の控室から。といってもタイミングはなかなか難しい。試合が迫ってきたら、オフリミット。客の入り具合とか、デリケートな打ち合わせがあることが多い。だから、それよりも前。バーベルなどで一汗かいた後ぐらいがベストだった。当然、全日本なら、馬場さんに「よろしく」と挨拶した。馬場さんは寛いでいる時は、葉巻を燻らせていることが多かった。太くて長いのが、サイズ的にもなにかしっくりしているように感じた。こちらも失礼して一服。すると馬場さんは、「白石君、一本吸わせてよ」ところ、声を掛けてくる。私がショートホープを吸っているときである。「何か、このショートホープってのは、味が濃くていいんだよね」と馬場さんは実に嬉しそうだった。しかし、その絵は少々おかしかった。馬場さんのサイズだと、葉巻がしっくりサイズ。ショートホープでは何だか楊枝をつまんでいるように見えたのだ。おかしかったが、馬場さんの機嫌の良い時に取材をする。ショートホープがその見極め役ではあった。”しっくりサイズ”の話のついでに、アンドレ。ザ。ジャイアントも紹介する。アンドレはビールが大好きだった。朝から飲んでいたことも珍しくなかった。コップは使わず、ビンをわしづかみ。その絵は小瓶を飲んでいると錯覚したことが何度もあった。馬場さんよりワンサイズデカかったのだから……。

だから、☆馬場さん、助かりました☆ 1970年代の終わりの頃、チャンピオン・カーニバルという全日本プロレスの春のビッグ・シリーズがあった。この成り行きを追って、九州を密着取材した。準決勝的イベントが福岡市総合体育館、そして決勝は東京の蔵前国技館というスケジュールだったと思う。準決勝に向けて福岡市近郊の小さめの体育館での興行の時、プロモーターが絡んできた。「トウスポさんよう~、しっかり書いてくれねえから、入りがしょっぱいじゃねえか⁉ こっちは生活がかかってんだからよう」。ン!? そう言われてもなあ。しかし、よく考えてみれば、この頃、新日本プロレスは格闘技路線を展開しており、新間寿営業本部長の巧みな話題づくりで紙面をにぎわせることが多かった。対する全日本は王道といえば王道なのだが、紙面の争奪戦では押され気味といってよかった。地方のプロモーターは興行の前売りに当たって、トウスポの紙面を信頼性の高いパンフとして利用していたのである。だから、自分がセールスしているイベントが新日本より地味となると……。次の日も絡まれた。「最後は入れへんど‼ 取材拒否や‼」「まあ、そんなに言わなくとも」と軽く流したつもりだったが、総合体育館の当日、それは現実になった。カメラマンのSさんとともに、関係者入り口から、入ろうとすると、「取材拒否言うとるやないけ、帰れ‼」。「まあ落ち着いて話をしましょうよ」とSカメラマンが言うと、鉄砲玉のいような若者が、やおらSカメラマンの胸倉をつかんで、「取材拒否や‼ こっち~来いや」。喧嘩腰。一触即発。試合認定宣言役で東京からやって来た、T編集局長などは、「何だ総引き揚げか」などと強がってみせたが、事態は好転せず。「馬場はどこじゃ⁉」とプロモーターが怒号を発した。そのまま控室へ。馬場さんに直談判だったが、馬場さんは冷静だった。売り興行なはずだったから、恐らく値引きで丸く収めたに違いなかった。この後、プロモーターの態度は一変した。「にいちゃんたち、悪かった納のう。ちと言い過ぎたようじゃった」。言い過ぎたどころの話じゃないぜ。全く。馬場さんの英断がなければどうなっていたことやら……。プロレスは客が入ってなんぼの水商売の一面もある。その筋の人の腕の見せどころ。一つ間違えば怖いシーンが展開される。馬場さん、ありがとう。

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