トウスポ築地本社--白石孝次の私的グルメ回顧談

築地で美食家になった狼たち? 

1970年代の初め、トウスポは田町の海っぺりの廣済堂系の産報印刷社のビルから、築地の日刊スポーツ印刷社のビルに移転した。日本経済が右肩上がりを続けている時だった。新聞の売れ行きも好調で、給料もぐんぐんと上がり、労使交渉でも日刊スポーツ、スポニチと比較して……になっていた。ハイエナのように、面白いネタを嗅ぎまわっていた猛者たちの食環境もかなりの変化が表れ、知らずにグルメの世界に溶け込んでいたようだった。それを追い求めたのではなく、築地という場所がグルメワールドだったのである。平成30年10月初め、市場が豊洲へ移転した。築地本社時代の思い出がまるで昨日のことのように、蘇ってきた。

☆築地グルメワールドその①ザ・ギョクリン☆ テレビでは築地の引っ越しの様子が頻繁に流れていた。ああ、そうだった。いろいろな食のスポットがあったなあ、と思いながら、ネット上の”築地”をあれこれ見ていた時、あるブログに「えっ!?」と声が出そうになった。築地にお務め、まさか同業だったわけではないだろうが、これを味わって、懐かしがっている人がいた。こちらも思い出を語りたくなった。それはまず中華の玉林。ギョクリンと読む。同じ屋号でタマリンと読む店は新橋にあるが、つながりはなさそうだ。スポーツ印刷社を出て右、新大橋通りを渡って、右奥の築地グルメ横丁に入った所にあった。編集局ではいよく出前を頼んだ。チャーハンにルースのあんかけが半分かかったルースチャーハン、もう半分にマーボ豆腐がかかった半かけチャーハン、シュウマイも美味しかった。この出前は電話して10分もかからずにやってきた。猛者たちは貪り食った。「終わるから、待ってろや」なんてこともあった。トウスポの牽引車、桜井康雄さんの食べっぷりも凄かった。美味い、美味い、シュウマイを頬張り、半カケをかき込み、電話を取り、凄かった。

☆築地グルメワールドその②井上博社長☆ 痩せぎす、小柄、ヒラヒラ付きのブラウス、パンタロン……変な人がうろうろしだしたな、と思ったら、社長だった。新聞が伸び悩んでいた時、一階の社長室を出て、編集局をうろうろするようになった。ちょっと位のある人、これからゴマをすってでも偉くなりたいと思ってた人たちにとっては煙たかったかもしれない。昼間から、日本酒をチビチビやっていた。時々思いついたように関係者」を呼んでは意見を交換していた。しかし、己の身の安全を考えていては、リスキーな策を披露できるはずもなかった。社長は若手記者とのコミニケーションに積極的だった。「社長、そりゃ」まずいでしょ。……した方が良いと思いますよ」。社長は嬉しそうだった。おかっぱをかきあげては、「ウム、ウム」とうなずき、「時間があるなら付き合え」と若手記者をよく連れ出した。まずは築地本社から歩いて2~3分の所にあったウナギの宮川。店横の路地では大きな樽をおいて、一日中ウナギをさばいているシーンがあった。社長は日本酒の冷やをちびちびやりながら、ドンドン注文した。特上のうな重、わさび醤油で日本酒にぴったりの白焼き。これは当時で2千円くらいしたか。真っ平記者の安月給のメニューリストにはなかった。ある日は、やはりご近所さんにあった、鶏の水炊きの老舗、新三浦にも連れられて行った。ここの経営者はラグビー界の重鎮でもあった。鶏の水炊き……こんなに美味いものが地球上にあったのか? とうなったものだ。吉野家は築地の一号店、新橋の駅前店(二号店? 現在はカメラのキムラヤ?)にも連れて行ってもらった。必ず、牛肉のお土産を付けてもらった。またある日は東銀座のインドレストラン、ナイルにも行った。創業者は京都帝国大学卒のA.Mナイルさんで、社長とは友達関係のような感じだった。ここでは十八番のムルギランチだった。お土産にはナイルギーというレベルの高い植物油とインデラカレーというカレースパイスを頂いた。どちらも食通には逸品物。最近も、食事に行って、社長の昔話を二代目と弾ませた。ナイルは、新聞休刊日の泊りがけ突貫編集の夜、夜食を届けてくれたこともあった。これも社長の気配りの一つだった。社長は私が大きな仕事を手掛けようとした時、必ず「ちこう寄れ!」と言って、次は「頼むぞ!」と握手を求めてきた。「分かりました」と握り返す。手の平には小さく折り畳まれた一万円札があった。「えっ!?」と見返すと、「頼んだよ」と小さい声で言った。こんな事をされたら、誰でも身を投げ打ってでも勝負しようという気になるではないか。人には言えなかった。間違いなく妬まれる……。社長が亡くなって政権が替わり、しばらくして「彼は社長派だったからね」などというささやきが上層部から漂いだした。何か、上を向いて仕事をする空気になった。井上社長の下で、汗をかいていた幹部はことごとく窓際へ引っ越しとなった。暴れん坊には住みにくい環境になっていったのだ。井上社長には改めて合掌。★二代目のG.Mナイルさんは健在。こちらは東京農大卒。先日、お邪魔した際、ちょっとがかり、故井上社長の思い出話をさせてもらった。

☆築地グルメワールドその③名店案内の壱☆ 時々の日曜日、築地には”散歩”と称して出かけている。編集局のあった聖路加病院向かいの日刊スポーツ印刷社を拠点にして、歩を運ぶ。隣のビルの一階には喫茶店があった。軽食もありで、朝から結構繁盛していた。アイスホッケー狂いの菅谷さんというマスターがいた。こちらは競技に素人同然だったから、よくヒントをもらった。店の立ち退きと同時に、五反田の方でアイスホッケーベースのスナックを開いた、との情報もあった。どうしているのやら。またビルを背中に通りを渡ると、Any old Timeというカントリー音楽ベースのスナックがあった。電通をドロップアウトした地元の人がオーナー。アメリカ音楽なら何でも、評論家の顔も持った鈴木カツさんが経営者だった。店の対面に音楽スタジオがあった関係もあったのだろう、カントリー、フオーク、ロック……若いミュージシャンがたむろしていた。なぎら健壱さんも常連の一人だった。ここでは当山さんという上司(野球部デスク)と、ギターとバンジョーのセッションもどきで遊んだ。夜中までやっていたので、いつも誰かが飲んだくれていた。もうお店はない。鈴木さんはリタイアして、茅ケ崎にお住まいだったそうだが、闘病生活の後、最近、亡くなられたそうだ。合掌。

☆築地グルメワールドその③名店案内の弐☆  Any old Time同様、 我々が食べたり、飲んだり、暴れたりした名店はほとんど姿を消している。中華の藤野、玉林の並びにあった、日本の洋食大宮、日本そばの長寿庵、本願寺の並びの更正庵は閉店こそしていないようだが、「長期休業」の張り紙。樽酒の美味しかった更科は現在改装中。こちらはまだOK。玉林のそばにあった、日本のフランス料理柳はまだ健在のようだった。そうそう、国際プロレスのテレビ解説もやっていた、門馬忠雄さんに、よくゴチになったのが多喜本なる割烹だった。ここは河岸で仲卸をやっていた関係で、魚が恐ろしく新鮮だった。寿司もやっていたが、恐らく築地NO1だった、という話だ。ここも立て直しになって、店はない。ちょっと奥まった所には、金魚おいうおでん屋さんがあった。ここは芸者の置屋も兼ねていて、店にはいつも粋なお姉さんがいた。ここの娘さんも芸者だった。ぐだぐだ飲んでいると、芸者さんたちが3~4人で帰ってくる。「今日はこれで終わり」「それじゃ、飲みに行っちゃおうか?」と水を向けると、みんな即OK。”制服”のまま、タクシーに分乗して、新橋方面に繰り出したことは枚挙に暇なし。しかし、誰も”高砂や”には至らなかったのだから、誠にきれいなお遊びだった。この金魚もすっかり住宅然として、面影はない。玉林のすぐそばにふるさとという居酒屋があった。沢山飲んで、議論もしたい派のたまり場だった。つけで店を困らせた人ももちろんいた。ここも看板だけが残っていた。まさに兵どもの……である。※寿司言えば、築地本社から歩いて3分くらいのところにキャピタルホテル新館があり、その二階の”入船”という寿司屋さんにはよく行った。熊谷出身のマスターとはすぐ仲良くなり、五千円以上払ったことがなかった。今はない。お世話になりました。


☆築地グルメワールドその③名店案内の三☆ ザ・テント村。我々がそう呼んでいたグルメスポットがあった。場内の入り口付近。夜中……開店は夜の十時くらいだったか。小型トラックでやって来て、テントを広げた居酒屋。椅子もテーブルもある。ちょっと酔えば全く、ノープロブレムだった。整理部記者の奈良井さん(すでに他界)という先輩が得意だった。客は朝日新聞の飲んだくれ記者、日刊スポーツの同様、夜食を求めるタクシーさん、仕事前の河岸のアンちゃん。 何でも美味しかった。煮物、おでん、生もの、特にルイベ状の馬刺しは絶品だった。安い、美味い、早い、朝まで……行けばながっちりで飲んだ。仕事に悩んでいる奴は、ドンドン深みにはまって行った。ある夜、後輩の林君(トウスポ→報知へ移籍。その後、心臓系の持病で若くして他界)が深みに嵌った。焼酎の水割りグラスをじっと見つめていた、と思ったら、頭突きを食らわせた。グラスは粉々、額も割れた。流血。「すいません、コップがどのくらい堅いか、気になってしまって」。マスターはすかさず手ぬぐいをくれた。林君は額に巻いて、また飲み続けた。林君は報知に行って、出川さんという記者と結婚した。子どもはもうかなり大きくなったはず。毎年年賀状を頂いて、「中学です」「高校です」とお知らせが。……全く、早過ぎる旅立ちはいかんばい。

☆築地グルメワールドその③名店案内の四☆ さてさて、呑兵衛たちの世界はまだまだある。勝鬨橋のたもとの天竹。肌寒くなってから、フグとひれ酒。お値段はサラリーマン向け。気取ってないのが良かった。橋を渡って一つ目の信号の右手あたりに、立ち飲みの〈かねます〉。当時は午後4時くらいから開いていた。日本酒、ビール、ハイボール。おつまみが凄かった。今や、立ち飲みのフランスバージョンと紹介されている。牡蠣、フグ、ウニ、イクラ……逸品物がズラリ。仕事帰りの河岸のアンちゃんたちもグラスを傾けていた。立ち飲みなので、そうそう長居はできなかった。……でもなかったかな。ここにはサンケイ、日刊の記者連中もよく来ていた。勝鬨を渡って、かねますをやり過ごして進むと、左手に月島もんじゃストリートが出てくる。ここを入って、もんじゃ街の始まり地点にあるのが岸田屋。午後5時の開店。この字型のカウンターはアッという間に埋まってしまう。煮込み、刺身、ホッピー……とにかく安い。たっぷり飲んで、たっぷり議論もしたい派にはお勧め。トウスポ部隊は月島への出陣が決まると、整理部記者の石井仁志さんという人が、先乗りを買って出ることが多かった。無類のお酒愛好家、現在は茨城県日立市で市会議員を務めておられる。人の役に立つのがお好きだった……ということにしておこう。この他、競馬記者たちは新橋の烏森ある田吾作に、各社記者、評論家がたまること多かったか。トウスポ、日刊、サンケイの野球記者たちは新橋の戦国という串焼き、馬刺しの居酒屋を根城にしていた。中心にいたのは江尻良文さんだったか。トウスポから夕刊フジに移籍。プロ野球一筋で活躍された。トウスポ出身はみな他社で中心選手として仕事をしてきた。自慢したい、ね。

☆築地グルメワールドその③名店案内の五☆ 築地における食の思い出を書き尽くした、とホッとして、一杯飲んでいたら、”三匹の子豚”が頭に浮かんできた。ン⁉ どこかで見た覚えがある。本社横の喫茶店はまだ思い出せずにいるが、こちらの三匹はピンときた。勝鬨橋近くのかつ平であった。ここも忘れてはいけない。当時は店にも行ったが、出前をよく頼んだ。ボリュームがあって、安い、早い、で結構な人気だった。もともと築地は江戸の終わり頃より、外国人居留地であったことから、洋食が入り込んで、日本の洋食の原点のような場所だ。魚だけの街と捉えるのは間違いだろう。魚だって、元々は日本橋が市場だったわけだから。かつ平は1963年の創業だそうだ。当時はそんなことも、池波正太郎さんがご贔屓だったことも、知らなかった。ひたすら、美味い、美味い、とかきこんで腹を膨らませて、原稿を書いていたのである。当時と今のお店は場所がちょっとだけ違う。築地七丁目から六丁目、歩いてチョイの移動だ。そして、今のかつ平の並び奥にあるのがウナギの丸静だ。うなぎが死ぬほど食べたい……この丸静がお勧めだ。いつでもお神輿を担ぐ、いつでも喧嘩に参加する、って感じの、見た目もしゃべりも江戸っ子そのものの兄弟がやっているお店だ。メニューが変わっている。直(あたい―1900円)、連(むらじ―2300円)、臣(おみ―2700円)、尊(みこと―3300円)、王(おおきみ―3800円)。※値段は現在の物。我々が通っていた頃は、5~6百円安かったような気がする。臣あたりから、ウナギがお重に入りきらずに折り畳まれていた記憶がある。メニューの云われは大化の改新までの大和朝廷の氏姓制度から……と。経営者もそこそこのお歳だから、元気なうちにもう一度、目いっぱいウナギを味わっておこうかと思っている。

☆築地グルメワールドまとめ☆ いろいろとお店を紹介してきた。タイトルも、グルメ……しかし、当時はそんな気取ったものではなかった。お店の人に会いたい、腹が減った、原稿が終わったので早いとこ飲みたい、本能のままにうろうろして酔っぱらっていた。そうしたスポットがいずれも気合の入った、年季の入った名店だったのである。今でもそんな空気に触れたくて築地へ散歩に行く。今はわが家から大江戸線で一本。便利になった。昔の面影はいつまで残っていることやら。