谷津嘉章さんと再会す

令和元年9月最後の土曜日。気になっていた谷津嘉章さんの見舞いに行った。後輩のW氏に情報を流してもらった。電話番号と入院先。地元群馬県のT市にあるHリハビリ病院。午前中は、PokapokaポンコツBlues Clubの演奏会。練馬区がらみの地域イベントの一環。客は少なかったが、即席バンドとしては、まずまずの出来だった……かな。群馬のT市へは午後から出かけた。大宮から新幹線。T市からタクシー。20分。★病院の受付で、「谷津さんにお会いしに」というと、にこやかに部屋番を告げてくれた。まだまだ有名人じゃないか。エレベーターで目的階で降りる。そこは食堂兼くつろぎスペースになっていた。部屋へ向かおうとして、一歩踏み出すと、テレビのラグビー中継にかぶりついている、ガタイの良い男が目に飛び込んで来た。いた、1986年のソウル・アジア大会くらいまで、密に付き合っていた、取材対象である。我が家にも何度も来て、飲んだり、食べたり、その後、しばらく会うことがなかった。★4、5年前だったか、谷津氏が高田の馬場で焼き肉屋を始めた、というので早速行って旧交を温めた。開店祝いを贈ったり、三回くらい飲みに行った。今度は家族を連れて、と台風の近づく中、行ったのだが、閉まっていた。やはり台風でと思ったが、よく見ると張り紙が。え~閉店なのか。もう!? だった。★「頭の中で煩悩が受付ろうろしていて、集中しきれんのですよ」。谷津節健在なり。右足は膝下から切除されていた。義足を付けたリハビリもかなり順調そうであった。★「四ヵ月ここにいますよ。お陰で暑い夏を経験しませんでした。慣れました。気持ちもだいぶ前向きになってきました。最初は何が何だか、来たら、切ります、だからね。やらなければ、どんどん短くなるだけ。考えている時間もありませんでした」。時折、笑みも出た。こちらもちょっと気楽になった。テレビでは「日本vsアイルランド」戦。試合の分析をしたり、昔話をしたり、昔の距離に戻った感じだった。★また、手術の話になった。「痛くてさあ。術後、麻酔は5時間とか聞かされていたけど、ずっと痛かった」と谷津氏。全身麻酔が覚めてらってこと。「NO、NO! 全身じゃなくて部分だったんですよ」。エッ⁉ 今時、それなないでしょ。じゃ、何してるか、ずっと分かってたってこと? 「そう。脊髄に一発。谷津さんは体が大きいから、薬の量が難しいって。そりゃないよな」。麻酔薬の量と言えば、力道山の死のきっかけとなった場面で、「力道山は体が大きかったので、通常の2倍の薬を使った」との医者の裁判証言を思い出した。時代が違うだろう! ★ともかく、昔の盲腸の手術のごときで、下半身だけ覚醒させる部分麻酔によって、敢行された。「何しているか、全部分かりました。まずレーザーで皮膚から切っていくんですが、皮膚が焦げて、凄い臭いがしました。お次は骨の切断が大変そうで、のこぎりの音、槌で叩く音……えらい経験でしたよ」。★糖尿病は遺伝だそうだ。「プロの格闘家ですからね。食事制限は無理。食べてトレーニング。これしかなかったから、しょうがないですよね」。退院したら、復帰に向けて活動するという。応援するよ。また、江古田あたりで復帰祝をやりましょう。「練馬に行きますから、お願いします」。「日本vsアイルランド」戦の後半戦の開始とともに、席を立った。エレベーターまで見送ってくれた。足取りは軽そうだった。★明けて日曜日。谷津氏よりショートメールが来た。「昨日は遠路遥々お越しください頂き有難う御座いました。切断と謂う事で一時は戸惑いと困惑で意気消沈してましたが、皆様方の励ましのお言葉で、今はポジティブになれました! 新しい姿に生まれ変わった今、更なる気持ちで邁進していく覚悟です。ご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。

没後20年 馬場さんの思い出

☆運動神経も超人☆ 馬場さんが亡くなって早や二十年。1999年の1月31日だったから、二十年とチョイが過ぎたところ。もうそんなに経ってしまったのである。私の場合はバリバリのプロレス担当ではなかったので、それほど付き合いが深かったわけではない。しかし、いくつか忘れられなものがある。まず最初は馬場さんの運動神経である。プロレスを外野から観ている人たちはよく、「馬場のよっこらっしょのチョップ、十六文キックなんてほんとに当たるのかね?」と馬場さんの動きがいかにもスローモーであるかのように、小ばかにした表現をすることがある。運動神経が劣っているように。しかし、馬場さんは日本プロレス入りの前は読売巨人軍の投手だったのである。新潟の三条高校時代は卓球でも国体に出場した経験を持つ。プロレスの地方巡業では、温泉地に泊まることも少なくなかった。試合を終えて食事も終わってくつろいでいる時に、卓球で遊ぶこともあった。経歴などを知らない者が、「卓球なら勝てるだろう」となめてかかることもあったが、手も足も出ないほどの実力だった。私はバスケットボールで、馬場さんと同じチームで戦った経験がある。 ジャンボ 鶴田が入団して、国内デビューした後、1974年頃だったか。プロレスの評論家で森岡理右 (現筑波大名誉教授)さんという方がいた。馬場さんと親しかった。この森岡さんは、もう一つの顔を持っていた。筑波大学のスポーツ科学研究所の講師である。森岡さんは、「レスラーのパワーを計測したい」と馬場さんの全日本プロレスにアプローチし、馬場さんも体力向上いプラスになると判断。筑波大学での”合宿”が決まった。私とジャンボ鶴田は、よく分からないうちに、女子寮に招待されて、そこにあったギターを弾いたところ、大歓迎を受けて、ビールをしこたま飲んだ。翌日、体育館で筑波大学の女子チームと親善試合。私とジャンボ鶴田は張り切った。鶴田は山梨の氷川高校からバスケットで中央大学に入ったのである。私はこの頃、地域のチームを中心に週に三回は活動していた。馬場さんもスタメンで出た。私と鶴田がパスを回し。ゴール下に入った馬場さんにループパス。馬場さんがナイスキャッチして、アンダーでボールを回転させてシュート。面白いように決まった。あっという間に前半はダブルスコアでリード。筑波大の女子の顔色が変わった。監督は怒りだした。後半に入って、さすがにスタミナ負けしたが、こちらもミドルシュートを何本か決めて楽しませてもらった。馬場さんも楽しそうだった。馬場さんはバスケットもこなせる……恐ろしい人だと思った。

☆ジャンボ鶴田余話☆ 鶴田とは”全日本入社”早々から、親しく付き合っていた。目黒に道場があり、目白に宿泊所があった。稽古を取材して、大仁田、渕らの若手と共に、食材を買い込んで、鍋を囲んだこともあった。カラーの「ザ・プロレス」の特集取材であった。こんなこともあって、1973年の早春、鶴田がアメリカ遠征に行くとき、「できたら、向こうでコンバースのバッシュ(バスケットボール・シューズ)を買ってきてくれない」と頼んだ。彼はそれをやってくれた。「アメリカ遠征中、白石さんのバッシュぶら下げてたんですよ」なんて文句も言われたが。トウスポでバスケットボール・チームを作った時、彼の「44」のユニホームも作った。一緒に中央区の大会にでたこともあった。ジャンボ鶴田……残念ながら、腎臓のトラブルを解決するために、フィリピンに渡って、移植にまでチャレンジしたが、上手くいかずに旅立った。早や過ぎたねえ。

☆馬場さんの愛のムチ☆ 鶴田がアメリカ遠征から帰国して、日本の巡業に加わった。NWAの大御所、テキサスのドリー・フャンク・ジュニアが認めた、鶴田の類まれな才能は日本でもすぐに開花、ファンは急増していった。冬の巡業で名古屋地区から、中央線で長野方面へ向かい、駒ヶ根で試合があった。雪が深々と降っていた。こじんまりとした旅館に泊まった。試合が終わって、帳場の電話を借りて原稿を送り、さて軽く一杯……と思った時、馬場さんの声が響いた。「ジャンボ、ちょっと来い」。何事かと、玄関へ行ってみると、鶴田が雪の降る中に連れ出されていた。こちらも雪の中で様子を見ることにした。馬場さんはお構いなしに、指導を始めた。ひょっとすると、よく見といてくれ……だったのかもしれない。「ジャンボなあ、今日の試合のロープ際の体の裁きはダメだ」というと、何度も自らの体を使って、教え込んでいた。「いいか、分かったか!」。何度も、何度も。鶴田はその度に、「ハイ」「ハイ」と。夜10時は軽く回っていた。二人の頭は雪がつもっていた。おっと、こちらも同様。……こらがプロだ。やれプロレスはショーだなんだ、と世間の声が聞こえてはいたが、巡業を取材したことで、プロの凄みを身近で見ることもできた。翌日、旅館のロビーで馬場さんと会った。朝食が済んで、くつろいでいた。巡業の空き日だった。「白石さん、帰るだけなら、ゴルフに行こうよ」。こちらは会社に帰って、原稿書きが待っていたため、丁重にお断りしたのだが、今となっては大変残念な事となった。

☆馬場さんとショートホープ☆ プロレスの取材はまずは試合前の控室から。といってもタイミングはなかなか難しい。試合が迫ってきたら、オフリミット。客の入り具合とか、デリケートな打ち合わせがあることが多い。だから、それよりも前。バーベルなどで一汗かいた後ぐらいがベストだった。当然、全日本なら、馬場さんに「よろしく」と挨拶した。馬場さんは寛いでいる時は、葉巻を燻らせていることが多かった。太くて長いのが、サイズ的にもなにかしっくりしているように感じた。こちらも失礼して一服。すると馬場さんは、「白石君、一本吸わせてよ」ところ、声を掛けてくる。私がショートホープを吸っているときである。「何か、このショートホープってのは、味が濃くていいんだよね」と馬場さんは実に嬉しそうだった。しかし、その絵は少々おかしかった。馬場さんのサイズだと、葉巻がしっくりサイズ。ショートホープでは何だか楊枝をつまんでいるように見えたのだ。おかしかったが、馬場さんの機嫌の良い時に取材をする。ショートホープがその見極め役ではあった。”しっくりサイズ”の話のついでに、アンドレ。ザ。ジャイアントも紹介する。アンドレはビールが大好きだった。朝から飲んでいたことも珍しくなかった。コップは使わず、ビンをわしづかみ。その絵は小瓶を飲んでいると錯覚したことが何度もあった。馬場さんよりワンサイズデカかったのだから……。

だから、☆馬場さん、助かりました☆ 1970年代の終わりの頃、チャンピオン・カーニバルという全日本プロレスの春のビッグ・シリーズがあった。この成り行きを追って、九州を密着取材した。準決勝的イベントが福岡市総合体育館、そして決勝は東京の蔵前国技館というスケジュールだったと思う。準決勝に向けて福岡市近郊の小さめの体育館での興行の時、プロモーターが絡んできた。「トウスポさんよう~、しっかり書いてくれねえから、入りがしょっぱいじゃねえか⁉ こっちは生活がかかってんだからよう」。ン!? そう言われてもなあ。しかし、よく考えてみれば、この頃、新日本プロレスは格闘技路線を展開しており、新間寿営業本部長の巧みな話題づくりで紙面をにぎわせることが多かった。対する全日本は王道といえば王道なのだが、紙面の争奪戦では押され気味といってよかった。地方のプロモーターは興行の前売りに当たって、トウスポの紙面を信頼性の高いパンフとして利用していたのである。だから、自分がセールスしているイベントが新日本より地味となると……。次の日も絡まれた。「最後は入れへんど‼ 取材拒否や‼」「まあ、そんなに言わなくとも」と軽く流したつもりだったが、総合体育館の当日、それは現実になった。カメラマンのSさんとともに、関係者入り口から、入ろうとすると、「取材拒否言うとるやないけ、帰れ‼」。「まあ落ち着いて話をしましょうよ」とSカメラマンが言うと、鉄砲玉のいような若者が、やおらSカメラマンの胸倉をつかんで、「取材拒否や‼ こっち~来いや」。喧嘩腰。一触即発。試合認定宣言役で東京からやって来た、T編集局長などは、「何だ総引き揚げか」などと強がってみせたが、事態は好転せず。「馬場はどこじゃ⁉」とプロモーターが怒号を発した。そのまま控室へ。馬場さんに直談判だったが、馬場さんは冷静だった。売り興行なはずだったから、恐らく値引きで丸く収めたに違いなかった。この後、プロモーターの態度は一変した。「にいちゃんたち、悪かった納のう。ちと言い過ぎたようじゃった」。言い過ぎたどころの話じゃないぜ。全く。馬場さんの英断がなければどうなっていたことやら……。プロレスは客が入ってなんぼの水商売の一面もある。その筋の人の腕の見せどころ。一つ間違えば怖いシーンが展開される。馬場さん、ありがとう。

八田一朗会長、お世話になりました

☆八田さんは明快な怪人☆ 記者生活の駆け出し始めは、アマチュアスポーツ担当。というより、野球とギャンブル以外のスポーツを担当する第二運動部では、まずはプロレス、次は相撲とボクシング、そして当時のアマチュアスポーツといえば、なんといってもバレーボールであった。時々、柔道。私は先輩方が扱わないジャンル、ビッグイベントの際のお手伝い。「取り合えず、アマレス行って来いや」と桜井デスクの号令で、アマレスに突入した。「八田会長、よろしくお願いします」と仁義を切りに行った。八田さんはご機嫌だった。大の酒好き。朝から飲んでる。昼間はずっとほろ酔い。機嫌が良い。こんなところは当時の井上博社長とそっくりで、初対面から、何か親近感のようなものがあった。「おー来たね。こっちもよろしくだ。アマレスは四年に一度、オリンピックの年にしか注目されない。メダルに関係するからな。それじゃ、良い人材を集めにくい。頼むよ!」と気合を入れられた。私は少々腰を引きながら、八田会長に物を申した。「会長、実のところ、アマレスのルールがよく分かっていないのですが……」「君何を言っとるんだ。格闘技じゃないか。強い者が上、弱い者が下なんだよ。男女でもそうじゃろ?」「ン⁉ ハイ、よくわかりました」。この人は面白い、と感じた。以後、事あるごとに八田さんのそばで話を聴くことになった。

☆怪人余話☆ 八田会長。 1946年4月~83年4月 の間、日本のレスリングを牽引し続けた。その奇抜な指導法は数々の逸話を残している。私は、八田イズムを浴びまくった、花原勉さんに色々とうかがったことがある。花原さんは言わずと知れた東京五輪のグレコ52キロ級金メダリストで、元日体大教授だ。以下は花原さんから聴いた話だ。※東京オリンピックの前の強化合宿でブルガリアへ行った。横浜から船で出発。ソ連領から飛行機を乗り継いで、ブルガリアに入った。ホテルに着いて秤に乗ると、1キロオーバー。ありゃ~気を付けていたのに。翌日から強化試合。+500グラムまでオーケー。500は落とさなければ。しかし、もう夜、地理も分からない。仕方ない。会長に謝りに行くしかない。「すみません、体重が落ちません。明日の試合は無理です」「馬鹿者‼ 今からロードやって来い‼」「でも道が分かりません」「 馬鹿者‼  真っ直ぐ行って、真っ直ぐ戻って来い‼ 地理もクソもあるか‼」。言われた通り、ホテルの外に出て真っ直ぐ行って、真っ直ぐ帰って来た。部屋に入ると暖かさで汗が出て来た。しめた‼ 風呂を締め切って暑い湯を出し、サウナのようにして、浸かった。汗が出た。長いこと風呂にいた。気が付けば外は白みかけていた。秤に乗った。体重が落ちていた。試合へのめどがついた。少しの時間まどろんだ。試合の方が楽だ。八田さんの言葉で何か一皮むけたような気がした。

☆八田語録の続き☆ アマチュアレスリングの取材はすぐに楽しくなった。八田さんが言ったように、他社はオリンピックが近づかないと選手に近づくことがほとんどなかったから、いつ誰を、どう取材しようと、自由だった。監督、コーチといった人たちは一様に大事にしてくれた。練習後はそのまま飲みに行くことも少なくなかった。酒の席でも、八田語録はポロポロ出ていた。※明日からパン食⇒「会長、海外遠征は米が食えないので力が出ません」と言った選手がいた。八田さんは「馬鹿もん‼ 明日からパン食にせい」と一喝。合宿の朝食時、テーブルにはパンが並んだ。左で食べろ⇒「左でも技が出せるようにしておけ」と八田さんの号令。「右利きなので、なかなかうまくいきません」と某選手。「馬鹿もん‼ 明日から左手で食べるようにせい」と一喝。即、次の食事から、左手で橋を使うことになった。女を横にしろ‼⇒東京オリンピック後、八田さんは花原さんをはじめ、活躍した選手たちをねぎらいつつ、新たな指令を? 出した。「これから日本のレスリングは中菱級、重量級でもメダルを取れるようにしていかなければならない。そのためには君たちが大きい女性と結婚して、体格が大きく運動神経の良い子どもを作ることだ。例えば女子バレーの選手などどうだ?」「先生、サイズが違い過ぎます」「何⁉ 横にすれば同じことだ!「ン⁉」

☆八田イズムに触れた‼☆ 1978年、夏も終わ頃、どこかの合宿で八田さんと雑談した。「今年の世界選手権はメキシコシティーですね。高地ですが、何か特に?」「そうだねえ、みんな同条件だから、強い者が勝つ」「マラソンとか水泳とか、高地トレーニングとかやりますよねえ」「そうか、じゃうちは無酸素合宿やるか」「えッ⁉ ほんとですか?」「おお、やろうじゃないか」と八田さん。数日後、府中の航空自衛隊で、無酸素合宿は敢行された。パイロット用の減圧訓練室で、低酸素状態を体験したのだった。もちろん写真入りで紙面を割いた。タイトルは「メキシコ用無酸素合宿」だ。本番ではフリー52キロの高田裕司(当時日体大。現専務理事)が四連覇。57キロ級の富山英明(当時日大。現日大教授)が初優勝を飾った。この後、体協だったか、たまたまトイレで八田さんと隣同士になった。「白石君、来年の全日本、何か客を呼べるような仕掛けはないかね?」「会長、それだったら女子プロ呼びませんか。マットですが、エキジビションということで」「おッ出たね、それいこうか?」「じゃ書いていいですか?」「おお良いよ」「アマレス全日本に女子プロ出場‼」。結構大きく紙面を割いてぶちかました。反響もあった。確か、昔の東京都体育館で、女子プロは赤城まり子さんが来たのではなかったか。観客も結構増えた。「やったね、白石君」八田さんは嬉しそうだった。また、昼から飲んでたようだった。

猪熊功さんと仕込んだ”世界の山下”への引き出物

,猪熊さんとの出会い☆ (故)猪熊さんは、言わずと知れた、1964年の東京オリンピック重量級の金メダリストだ。取材で知り合ったのは、1977年か78年頃だったと思う。私が所属していた第二運動部、先輩の小泉志津男さんに段取りして頂いた。小泉さんはバレーマスコミの大御所的存在で、アマチュアスポーツのデスク役だった。「猪熊さんが面白い話をしそうだから、行って来いよ」ということで、新宿駅東口駅前にあった、東海建設ビルを訪ねた。ここは2001年9月28日、猪熊さんが自刃して果てるという最後の場所ともなる所である。バブル崩壊で負債を抱え込んだ末の、サムライ的企業トップとしてのけじめのつけ方……。果たしてそれだけか? 東海大学の建学者、(故)松前重義氏の懐刀として、大きな存在感があった。松前さんの国際柔連会長選で表に出ない仕事を」していた、との説も。だとすれば東海建設のピンチにも……東海大学はどこかで手を引いてしまった……のか。余談だが、自刃の立ち合い人の中に、アマレス関係者もいた、という情報もあった。

☆東海建設専務室にて☆ 私が猪熊さんを初めて取材したときは、専務の肩書だった。「何とか、トウスポさんに柔道界の現状を書いてほしいんですよ」猪熊さんは開口一番。続けて「日本の柔道を守るためにも、世界をリードしなきゃならんのですよ。パーマー(国際柔連会長)なんて柔道を商売にすることしか、考えてないんですよ」と。ここで国際柔連の流れを整理しておく。※1951年 アルド・トルチ(初代会長=イタリア)1952~65年、 嘉納履正(第二代)、1965年 – 1979年 チャールズ・パーマー(第三代 イギリス)。要するに、東京オリンピックで正式種目となった”日本の柔道”。会長は開催国の日本であるのが自然。しかし、オリンピックが終わると、会長職は日本から離れてしまったのだ。会長職は選挙によって公平に? 選ばれるわけだが、選挙だから事前運動が物を言うのは当たり前 。世界を相手にした事前運動となると、少々荷が重かったのではないだろうか? パーマーは国際連盟独自の昇段システムを打ち出し、その都度、免許料を徴収。各国下部組織を通じて国際連盟への流れを作っていた。「柔道の発信元は日本なのに、勝手なことをされては困るんですよ」と猪熊さんはまくし立てた。こりゃ面白い。「このまま書いちゃっていいんですか?」「ああ、バンバンやってくださいよ」と猪熊さん。内輪もめに油を注ぐのは、トウスポの得意技。パーマーの独裁者風の風刺画的イラストを使い、ほぼ一ページを割いて、暴露っぽい特集記事を展開した。反響大。「よくもこんな一方的な記事を書いてくれたな‼」といった抗議があれば、「よくぞ書いてくれた。日本の柔道が外国人に骨抜きにされているんだ」という賛同もあった。もちろん、猪熊さんからのお礼の電話もあった。

☆柔道を日本に取り戻せ‼☆ 1979年、東海大学総長の松前重義氏が第四代の国際柔連会長の座に着いた。日本柔道界全体としての悲願でもあった。だが、批判的な声も無いわけではなかった。社会党全盛期の国会議員でもあった松前氏は、当然外交では左系の国々にパイプを持っていた。その大本は旧ソ連である。このソ連はアフリカの多くの国々に影響力を持っていた。国際柔連の選挙となると、アフリカ票がポイントになると言われていた。そこでソ連を抑えることができれば、アフリカもおのずと……。猪熊さんは事前運動のため、頻繁に旧ソ連を訪れていた、という。それも結構な額のキャッシュをかばんに詰めて。これは表に出ないものだったらしい。一説によれば、この作戦には東海建設をうまく機能させたという話がある。今さら、法律的にどうこう言っても始まらないのだが、ギリギリ、すれすれのところで、猪熊さんは奮戦していた、と推測される。

☆内憂外患☆ 東京オリンピックをきっかけに、世界の柔道という新たな舞台に立つことになった日本柔道。その内側には、様々な問題を抱えていた。一般的には日本柔道=講道館、となりそうだが、現実には違う。日本の柔道は戦前・戦中には、スポーツよりは格闘要素の強い流儀を以て 日本の柔道 の中心的存在だったのが、 大日本武徳会・高専柔道 だったと言われる。終戦時、その格闘要素が強いところから、GHQによって解散させられる。この人材の多くは天理大学、東海大学といったところへ流れ、イズムは継承され、学生柔道連盟の理念を形成していくことになる。それは事あるごとに講道館柔道を批判するという形になって表れていく。「講道館柔道は寝技を軽視している。技をかけないでいると、反則を取られる。これは本来の日本の柔道の本来の姿ではない」と。

☆孤立する? 講道館☆ 「嘉納家が講道館長と全柔連会長を独占するのはおかしい」と東海大総長・松前重義氏は異議を唱えたことで、日本の柔道界の内憂が表面化したのだ。東海大を中心とする、いわゆる反主流派は全日本学生柔道連盟を立ち上げた。こちらのリーダーは東海大学柔道部監督の佐藤 宣践 氏。東京教育大(⇒筑波大)出身。寝技の鬼とも言われた。高専柔道継承者の一人と言っていい。国際柔連会長に東海大総長の松前氏、この直属の下部組織のようになった、全日本学生柔道連盟、リーダーに佐藤氏。本来なら、国際柔連の日本における組織は全柔連でなければならない。それが対立組織、講道館についてしまっているのだから、話は複雑だった。1983年、武道館において正力杯 国際学生大会 が行われたが、運営方針はもめにもめ、出場した日本選手団には、全柔連サイドから警告文が出されるに至って、両者の争いは裁判にまで発展していった。もめ事の取材を得意とするトウスポであるから、両者を嗅ぎまわって記事を書いた。その過程で、何度か「会って話を訊いてくれ」というアプローチを受け、ネタの提供を受けた。行きがかり上、東京地方裁判所にも何度か足を運んで傍聴した。席でメモを取っていると、双方の弁護士の目に止まり、”職質”を受けたこともあった。

☆遂に松前重義氏をキャッチ‼☆ 1986年1月15日、1984年ロサンゼルスオリンピックで悲願の金メダリストとなった、山下泰裕さんが結婚式を挙げた。私は年明けから、これを”枕”に何か仕掛けられないか? と考えていた。表はテレビ、朝刊紙がこぞって、 銀座和光に勤務していたとされる小野みどりさん との馴れ初めやらを報じていた。読売テレビの関係者からは、「巨人選手の追っかけだったらしいよ」なんて話もあったが、ここをほじくり返すのは、あまり気が乗らなかった。今や世界の山下。実直を絵に描いたようなスポーツマン。やはり、仕掛けも正統で行くべきではないか。ここは一つ、国際柔連会長の松前重義氏の手記をぶつけるのはどうか? 松前氏は東海大学の総長でもある。山下さんへの祝辞は当然。さらにできることなら、日本柔道界内紛の一方の主役でもある、松前氏が”世界の山下の結婚への引き出物として、和解へ向けての緊急提案”……と持って行きたい。早速、猪熊さんに連絡した。アポが取れて、霞が関の東海大会館を訪ねた。「よ~、久しぶりですね」と猪熊さん。山下の結婚について当たり障りないところから切り出し、徐々に核心に近づけていった。「山下の結婚に当たって、松前総長の手記という形でやりたいんですが……インタビューさせていただいて、こちらでまとめる」「親父は忙しいから、それは難しいなあ」「そうですか、何とかなりませんかねえ。例えば、猪熊さんとある程度の中身を決めておいて、総長の写真を撮って終了、とか」「で中身はどうするんだ?」「ここでただおめでとう、では仕方がありません。今、日本の柔道界が抱えている問題に光明が当たるような提案とか」「……て言うと?」「松前総長が山下の結婚を機に、和解への提案をする……」「えっ⁉ 君、今裁判中なんだぜ」「ですから、祝のスピーチの範疇と考えて。総長の提案ですから、意義深いものになると思います」「……話は分かったが、でも無理だな」「そうですか。でも一言だけでも訊いていただけませんか?」「……しつこいね、ちょっと待っててくれ」と言って猪熊さんは席を外した。2分くらいで戻って来た。「親父が話を聴くと言ってる」「じゃ、どちらへ?」「隣の部屋にいるんだよ」と猪熊さん。総長の部屋に案内された。松前総長は終始笑顔で、「君も結構しぶといそうだね。話は分かった。まかせたよ。うまくやってくれ」と。やったぜ、独占手記が成立した。このやり取りが1月の8~9日ぐらいだったか。一面の特ダネ扱いとして、15日の発行、山下さんお挙式にぶつけることになった。新聞が出るまでに何度か猪熊さんから電話の急襲を受けた。「あの企画、やっぱりまずいかな。替えられないかな」と。恐らく、講道館批判の先鋒が和解提案はまずくないか? との声が出たのではないだろうか? その都度、「日本の柔道界の将来のためにも意義のあることですよ」と踏ん張った。最後は猪熊さんも承諾した。山下さんの結婚式には、各紙担当記者も招待されて、にこやかにスケッチ取材を展開していた。しかし、各紙編集局では、トウスポの紙面、{松前重義国際柔連会長、独占手記 日本柔道界への緊急提言」で、ちょっとした騒ぎになっていた、という。してやったり。しかし……猪熊さんの自刃はショックだった。遅ればせながら、合掌

M資金への甘い? 誘い

☆財界とのコネクション☆ この項はトウスポ退社直後の話である。越中島のスポニチビルへの移転を前に退社していた。その後はベースボールマガジン社の誘いで、アメリカンフットボール・マガジンを立ち上げて、編集長となった。フットボールの経験もなく、お宅でもなかったので、さほどの知識もなかった。たた、日本にもプロ組織が生まれても良さそうだ、と思い、企業フットボールに注目していた。というより、仕掛けを考えていた、といった方が正確かもしれない。この点に当時のベースボールマガジン社の副社長は興味を持ったようだった。雑誌にとって広告は重要な要素である。私のアドバンテージは、ちょっと前に知り合って、近い関係になっていた、日大の篠竹幹夫監督とのつながりだった。独自の企画として、篠竹監督と、チームを持つ企業の経営者との対談を展開した。オンワード、レナウン、ニッサンプリンス、ニチイ、アサヒビール、NECシステムズ、鹿島建設……対談企画が進む中で、オーナー会なるものも誕生させた。近い未来に日本のプロリーグを立ち上げるための基盤になってくれそうな顔ぶれだった。

☆四谷の小料理屋にて☆ 私の行動をどこかで誰かが注視していたようだった。ある日、知り合いを通じてアプローチが来た。時々、体を楽にしてもらっていた、コンディショナーのYさんが、「私の所のお客さんが白石さんに会って、話を聞きたいと言っているんですが、時間取れませんか?」。詳しくは分からないが、大きな融資の話らしい。恐らく、私の財界とのコネクションを何かの参考にしたい、ということなのか? 「会うだけなら、会ってみましょうか?」。数日後、四谷の小料理屋で会う約束となった。某月某日夕刻、約束の場所へ赴いた。小料理屋の玄関に入ると、仲居さんが出て来て、「いらっしゃいませ、Tさんがお部屋でお待ちです」。案内されて部屋に入ると、待っていたのは妙齢な女性であった。挨拶をして席に着いた。ビールを注がれて一口、二口、改めて女性に目をやると、えらく上品な佇まいを感じさせた。どこかのお嬢様、時代劇なら、”やんごとなき”となるのか。「さて、」とこちらが切り出す前に、Tさんは微笑みを浮かべながら、「実は白石さんの取材ぶり、パイプを拝見させていただいておりました。是非、当方の企画案件と結び付けさせていただけないか、と考えました」「というと?」「あまり大っぴらにはできないのですが、大蔵省の絡んだ産業振興基金がございまして、こちらが選ばせていただいた企業様に特別融資という形でご融資したいというお話です」「私などの役割が何かあるのですか?」「そこは白石さんの取材ルートで、大きい企業の経営者様直々にアプローチしたいと考えております」「大きい企業は、それぞれ大きい銀行が付いていますよね?」「そこですね、銀行を通せば、お金を動かすのに縛りがかかります。こちらの資金を運用すれば、事業を自在に展開することができるというものです」「融資ったって、利子は付きものでしょう?」「表向きはそうですね。しかし……」

schoolウルトラ000億円の融資、謎の美女☆ 謎の美女、Tさんとの話は佳境に入った。「こちらの選ばせていただいた企業の経営者様の個人口座に5000億円を振り込む。このうちの2500億円をどこかの銀行の定期預金にする。5年、10年、今の景気状況なら、定期の利子はかなりのものになるでしょう。元金の5000億円は労せずに……となるでしょう」「で、Tさんたちはどこでビジネスにするのですか?」「私たちは我が国の産業振興のための縁の下役。アメリカのさる筋、日本のさる筋からの出先機関と考えてください」「そうですか。私にはとてつもない金額ですね。どうしたものやら」「白石さんは企業の経営者様に、それとなくお話をしていただき、ご興味がおありとなれば、私たちが出向きます」。美女の話に相づちを打ちながら、上手くお酒も勧められて、何だかほんわりとなっていた。美女が少し近づいて、声を落として言った。「お話が成立しましたら、白石さんには最低500万円の謝礼を差し上げるつもりです」。この後、どうするんだ? やっぱり、もう一軒行くのか? もう一度、何気なくTさんの顔を見た。その時、Tさんは何気なく前髪をかき上げるような仕草をした。左手の手首の内側がこちらを向いた。えッ⁉ 声には出さなかった。何と、Tさんの手首には何本もの、傷跡が走っていた。……そうなのか、これは訳ありどころではない。酒がちょっと醒めた。「分かりました。何とか連絡して見ましょうか。ご期待に沿えるかどうか分かりませんが」「ありがとうございます。お電話お待ちしております」。Tさんは腕時計を見た。また、手首の傷跡が見えた。「まだ時間はお早いようですが、この後、何かご予定がありますの? 近くに知っているお店がありますのよ」「ありがとうございます。せっかくですが、まだ頼まれ原稿が残っておりまして」「では、今日のところはこれにて。お話を聴いていただき感謝申し上げます」。……5000億円の謎の融資、アサヒビールとNECシステムズにはこっそり話した。両社とも専務レベルで、「面白そうだから、会ってみようか」となった。Tさんに連絡した。大変に感謝された。そうか、500万入ったらどうしようか? なんて勝手な、狸の想像もしかけたが、その後なぜかTさんからの連絡は途絶えた。後日、政治の裏側でフィクサ―役も、とも言われていた、徳間書店の徳間康快社長に会った時に、この話をした。すると、「白石さん、5000億なんて話になったら、邪魔になった人間は簡単に消されるよ。川に浮くことになるぞ。この話だけは近寄らない方が身のためだな」と。後日、知り合いのコンディショナー、Yさんが声を潜めて言った。「あのTさん、どうしました? 連絡ありますか?」「いや、2~3回電話でやり取りした後……それっきりだ。500万惜しかったな」「いや、何か、行方不明だとかっていう話なんですよ」。深入りしなくて良かった。背中にちょっとだけ寒気を感じたような気がした。

ボブ・ホープ直撃 at Palm Springs

☆ボブ・ホープの甥に会った☆ LPGAのメジャー初戦、ナビスコダイナショアの時だった。早めにパームスプリングスへ入ったので、面白そうなゴルフ場を見て回っていた。その中に、O’DonnellGolf Clubというのがあった。色々と訊いてみると、オーナーが日本の歴史好きで、「織田の……」を頭に描いて作った、という話だった。市内にあってフラット。花あり、水アリ……日本庭園のような作りだった。PGA tourの記者証を提示してプレーさせてまらった。なかなかきれいでいいね。マネジャーも同行しているので、ラウンド中、色々な人たちを紹介してもらった。9ホールを上がりかけた時、一人の中年男性がニコニコしながら近づいてきた。日焼けして、ちょいラテンが入っているような感じだった。こちらが東京から取材で来た事を知ると、「へえ~何か良い仕事はできたのかい?」「ここは有名人が別荘を持っている街ですね。そういう人たちの写真とか撮れたらラッキーですね」。すると、マネジャーが「この人はボブ・ホープの甥なんだよ」「エッ⁉ あのエンターテイナーの大御所⁉ インタビューとかできませんかね⁉」と言ってしまった。相変わらずのトウスポ流である。相手はきょとんとしていたが、すぐににこにこして、「忙しい人だからね。別荘を見るだけなら、案内してあげるよ」。この時のカメラマンはA.Tだったか。我々はボブ・ホープの甥の車に先導されて、小高い丘への道を上った。途中に警備ゲートがあった。私有地なので、許可無き者は侵入不可であった。私たちは甥の同行で、敬礼されて進んだ。丘の中腹にミニ教会付きの瀟洒としか表現しようのない豪華な別荘。スゲェ‼ 中庭には95ヤードのショートホールがあった。「仲間が集まって、一杯飲みながら遊んでるんだ」と甥。Tカメラマンはズームだ、ワイドだ、レンズをトッカエひっかえ、撮りまくった。特撮だ。Tカメラマンはマスターズの時にも。飛行場に張り込んで、ニクラウスが自家用機から、レイモンド・フロイドと降り立つところを撮った事もあった。……ボブ・ホープの別荘。大威張りで日本に帰ったが、なぜか陽の目を見なかった。またしても、策略家の登場である。Iとしておく。この頃のトウスポは車内にこの手の人間がうろうろしていた。下手に本音、実話を話すと、あらぬところへご注進に及ぶ。Iは私たちが手に入れた特ダネを、「裏のルートから承諾もなく撮ったらしい。現地に電話したら、使わないでくれと言っている」てな事をやられて、お蔵入り。冗談じゃねえぞ‼ こいつはたちが悪かった。取材部のデスクもどきをやっているとき、こんな事を日常的にやって、部下から顰蹙を買っていた。こいつのおかげで、何人の優秀な記者がトウスポを去ったことか。あまり思い出したくなかったな。

PGA TOUR と元マフィア

☆スポンサーは元マフィア☆ PGAツアーに参加している選手の中にはいろいろな背景を持った選手がいる。ツアー取材の中で知り合ったN.Pはその中でも特異かもしれない。PGAツアーは年度末の段階で、賞金ランキング125位までが翌年のシード選手。後はメジャー(準メジャー)を取って5年シードを持ち……。賞金だけでプロの生活を維持するのは大変なこと。トーナメントに勝って賞金を稼げばぐんと楽になる。こうした選手にはスポンサーが付くから、さらに生活が楽になるわけである。私がPGAツアーに張り付いている頃、戦うための年間最低経費は5万ドル、と。予選を通ることが少ない、もちろんスポンサーも付いていない選手は、試合に出るための経費をどこかで調達してこなければならない。銀行で借りる? 簡単じゃない。銀行は博打には貸さない。足の速いのは借りられるだろうが、日本のサラ金ほど甘くない。まさにloan shark。返せなければ破産どころでは済まない。まあまあ安全な調達法は、株主システムだったようだ。一人で、あるいは何人かで、ともかく5万ドルを集めて選手に投資する。選手は試合に出て必死に戦う。5万ドル以上稼いだ分は投資側と折半。例えば10万ドル稼げば、このうちから5万ドルを返し、残りの5万ドルを折半。選手の懐には2万5千ドルが残るというわけだ。しかし、金主の人柄は当然様々である。「金を出しているのだから」と。この項の主であるN.Pも株主システムで、経費を調達していた。金主は元マフィアだった。

☆マフィアの集まる街☆ 米国西海岸で気候が年を通して温暖な街。ここにN.Pの個人スポンサーがいた。P.Mとしておこう。単なる投資ではなく、才能と真面目な人間性に惚れてスポンサーになっていた。日本で言えばタニマチだろう。P.Mはこの街の株を持った、マフィアOBで、イタリアンレストランを経営していた。私はN.Pを通じて、結構親しくなっていった。この街を訪れた時には必ず、P.Mのお店にお邪魔した。行かないと、後で機嫌が悪かった。ある時、一緒に飲んでいると、「うちでは年に1~2回、大きな会合が開かれるんだ。人数は10人程度だが、その筋のボスたちだ。この会議でアメリカが動いているようなものさ」。名前は超一流ばかりだった。警察もFBIもすぐ反応するメンツであった。これを聴いて、心が揺れた。黙っていられなくなった。「写真を撮らせてもらえないですかねぇ?」。P.Mは口をアングリ、「あんたさあ、ボスたちが秘密の会合を開くんだぜ。そこを写真に撮ったら、どうなるんだ? ちょっと走れば砂漠だらけだし。これだけはなあ」。そりゃそうだろう。聞いた方が馬鹿だったような気がする。良い人だったが、風貌はどことなく……。神に触らなくて良かった、ってことかな。

on the PGA TOUR,hey yellow JAP!!

☆テキサスからの宣戦布告?☆ PGAの異端児オグレデイ。こっちもトウスポの異端児だから、馬が合ったのかもしれない。知り合って二年目の、1984年のヒューストン・オープン。オグレデイは練習ラウンドから、何時にも増してショットが切れているように見えた。トム・ワトソンもセベ・バレステロスも舌を巻いていた。ワトソンはこの年、体の回転スピードが落ちたのか、コントロールの外に出るフックに悩んでいた。夕方、誰もいなくなったドライビングレンジで、師匠のバイロン・ネルソンが付きっ切りでアドバイスしているシーンを何度も見た。オグレデイは初日から好位置をキープ。予選ラウンドを上位でゆうゆう通貨した。この夜も一緒に食事をした。「あのさあ、俺がPGAの公式インタビューに呼ばれたら拒否するから。白石だけには話す。それをメモしてアメリカ人の記者に渡してくれないか?」。この大会はトム・ワイスコフ設計のコースで行われていたが、この事もオグレデイは公然とこき下ろしていた。「こんな、いもコース作りやがって、ワイスコフも銭ゲバだな」。内緒話ではない。公然と。普通、出場選手は総じて、「こんな素晴らしいコースでプレーできて幸せだ」とヨイショする。オグレデイはこれにも反発していた。コースに入った時から、私とオグレデイは、何か分からないが、アメリカを敵に回しているのではないか、そんな空気を感じていた。

が☆遂に激突‼☆ 1984年のヒューストン・オープン三日目、オグレデイはおれよあれよという間にバーディーを重ね、63のコースレコードで首位に立ってしまった。18番をオールアウトして、クラブハウスへ向かう。PGA広報部長のトム・プレイスが待ち構えて、「マック、インタビューに来てくれ」と。「ノーノ―、話す事はないよ」オグレデイは足早にロッカールームへのドアを開けた。NBCのテレビも追った。レポーターが何かまくし立てている。「何ということでしょう。首位に立った選手がPGAの公式会見を拒否しました」。呆然と立ち尽くすPGA関係者。……と、オグレデイが消えたドアが開かれた。何と、オグレデイ自身が手招きしている。「俺か?」と、確認した。「そうだ」とうなづいている。私は足早にそのドアからロッカールームへ滑り込んだ。このシーンをNBCテレビ、AP通信、地元の新聞社のカメラが抑えていたのは明白だった。「面白い、やってやろうじゃないか」これもネタになる。トウスポ流のニュースは作るってやつなのだ。

☆yellow Jap!!☆ ロッカールームに入った。クレイグ・スタドラ―が「やったな。思い通りにやれよ。陰ながら応援しているよ」と言いながら、アイスボックスのバドワイザーを集めてビニール袋に入れ、引き揚げていった。意外にしっかりしているんだ、と思った。さて本題。オグレデイと差しで向かい合って、聴き取りを始めた。米国人記者に話したくない理由は、これまで事実でもないプライベートの部分を面白おかしく書かれた事。許せない部分が多々あるという。18ホールのプレー内容に本人の言い分を書いた。それをプレスルームに持って行って、PGA広報部長のトム・プレイスに渡した。「良かったら、これを使ってくれとオグレデイが言っているんだけど……」と言った瞬間、トム・プレイスのこめかみに青筋が立ったのが分かった。「日本のプレスにこんな事される覚えはないんだよ。ここはテキサスだぜ。君はどういうつもりで」と。相当頭に来ている。顔を潰された、ということだろう。トム・プレイスの背中の方で、”fucking yellow jap”の声が聞こえた。さすがにこちらも、「何だこの野郎、人が親切に言ってるに」と出かかったが、そこはこらえて、「いや、私はオグレデイの代弁をしただけだ。彼はロッカールームで待っているから、行って、直接話を訊いてください」と言った。トム・プレイスはロッカールームへ走った。20分ほどして戻って来た。私のデスクに来た。「申し訳ない。言い過ぎてしまったかもしれない。許してくれ」と。そしてマイクを取ると、「皆さん、色々誤解があったかもしれないが、東京スポーツから来た白石のメモを準公式としてコピーを置くので、使いたい人はどうぞ」。「だから、最初から言ってんじゃねえか」と叫びたくなった。地元の新聞社の何人かのカメラマンが私を撮りに来た。トム・プレイスがまたやって来た。「来週はさあ、コロニアルだろう? 一回ゴルフしないか? うまくいけば、ベン・ホーガンのインタビューもヘルプできるかも……」。何か、PGAとトウスポがタメになったような気分だった。


on the PGA Tour with maverick Mac O’grady

☆異端児マック・オグレディ☆ 1984年のヒューストン・オープンで事件は起こった。取材記者の立場でいた私がその中心にいた。この頃、PGAは一人のアメリカ人選手に手を焼いてもいた。その名をマック・オグレディ。この前年、こちらが一人でPGAツアーを取材しているときに、知り合った。奥さんが日本人、本人も日本の文化にのめり込んでいたこともあって、すぐ仲良くなった。オグレデイは右打ちの選手だが、左でも同じようにプレーできる特異な才能を持った選手だった。しかも、当時はパーシモンにスティ―ルシャフトの時代。オグレディはドライバーのヘッドを逆さにして、左で28oヤード飛ばした。当時ではトップレベル。この技を時々見せてもらった。一度はマスターズ翌週のヘリテイジ・クラシック。ヒルトンヘッドアイランドの18番。セベ・バレステロスとの練習ラウンドで解説しながら、技を見せてくれた。あの、テクニシャンと言われたバレステロスが、口をアングリさせて、無言だった。ちょっとして小さな笑いを浮かべながら、「何なのそれ?」とつぶやいた。 「俺さあ、全米オープンに右と左の両方でエントリーしようかと思ってんだけど、どうかね?」と、時々、こんな事を言っていた。この人ならやりかねない。何かトウスポと共通点がありそうだな。お付き合いが楽しくなっていった。時々ゴルフも教えてもらった。他の選手がいないと、こっちも練習ラウンドでプレーさせてもらった。内緒でね……。

☆予選落ちは続く☆ オグレディと知り合って、日本選手のいない時はほとんど一緒に行動していた。並外れた才能があるのに、瞬間湯沸かし器のような性格が災いしてか、たった1ストロークなんて感じで予選落ちも少なくなかった。予選に落ちれば賞金はゼロ。経費は持ち出し。翌週に参加するためにもアルバイトが常だった。非公式のお座敷。仕切りのうまい選手が、例えばサム・スニードの甥のJCスニードなんて選手が、予選落ちした選手に声を掛けていた。次の試合地の近くで、大抵月曜日に行われていた。小金持ち相手のお座敷ゴルフ。行けば750ドル。次の一週間の経費が稼げたのだ。私はオグレデイを含めて”プロアマ”に出る選手の奥方を自分の車で空港へ連れて行き、同じ飛行機に乗って次の試合地に飛び、その空港からレンタカーを借り、奥方を2~3人同乗させ、宿舎へ運んだ。時には飛行場のカウンターで、あるいはモーテルのフロントで、明らかにあらぬ想像をしているのがありありと感じられることもあった。……秋口の試合、二日目の18番、久々に予選を通るかと思っていた。2打ほど余裕があった。ところが……池越えのショットが会心の当たりでピンに向かって行った。池を越え……ヨシッと思った瞬間、ボールは池に張り出た木の小枝に触れて、池に落ちてしまった。おーノー、無情だ、トリだ……。またしても、絵に描いたような”一打足りず”であった。

☆呪われたオグレディ⁉☆ オグレディは何かに呪われているのか? そうとしか思えないような不運に見舞われる。日本なら、すぐにお祓いに行くところだ。この時は、すぐには声を掛けることができなかった。遠目で見ていた。奥さんのF子さんと言葉を交わしていたが、時折オグレデイが頭を垂れ、F子さんは目を抑えていた。泣いている。放っておけなくなって、近寄った。「残念だった。また頑張ろうや」と言うと、F子さんは「この人ったら、どうしようもないのよ!」「予選落ちは残念だったけど、また頑張れば……」「いえいえ、ゴルフはしょうがないとして、キャディーにお金を盗られちゃったのよ!」「エッ⁉ いくら⁉」「500ドルよ!」「本当ののか、マック(オグレディ )」「面目ないけど、本当なんだ。キャディーバッグに入れておいたんだ」。PGAでもLPGAでもキャディーとのトラブルは時々ある。

☆あわや夫婦心中⁉☆ さてさて、ヒューストンにも陽が落ちた。いつものように夕飯のお誘いコールを入れようか? まだ落ちこんでいてそれどころではないか? 迷ってみたものの、ともかくオグレディの部屋に電話を入れた。話し中。10分ほど待ってかけた。また話し中? いやまだなのか? 先ほどのトラブルに関係して、長電話になっているのだろうか? 夫婦で何か? こちらが入らない方がいいのかもしれない。フロントにメッセージを置いて前夜も行った。中華レストランに行った。中華なら米が食べられる。オグレデイも米愛好家だった。ビールを飲んでゆっくり食べた。オグレデイ夫婦は現れなかった。モーテルに帰った。気になる。オグレデイの部屋に電話を入れる。また話し中? いやまだなのか? 何か変じゃないか? 部屋へ行ってみるしかない。ノックした。ドアが開いた。まずはほっとした。F子さんは明らかに泣きはらした顔だった。オグレデイはパームスプリングスの友人と話していると言った。ひょっとすると、スポンサーに無心でもしていたのだろうか? 「あんたたち、夕飯は?」。F子さんは力なく首を横に振った。「だめだよ、食べないで悩んでいたって、身体によくないぞ! 今晩は私が厄払いをしてやるよ。私の招待を受けてくれ。夕飯に行きましょう!」。二人を急き立てるようにして車に乗せ、近くのステーキハウスに行った。こういう時はきっかけが必要なのだ。「厄払いだから、私はあんたの代わりに飲むよ。二人は食べてください」。二人はステーキを食べだした。一口ごとに生気が戻って来ているようだった。「マック、気分転換をうまくやれれば、絶対チャンスが来るよ」「そうなんだ。ロスの大学にいる心理学者の友達にも、その事をアドバイスされているんだ」「この人ったら、考えが真っ直ぐ過ぎて、瞬間湯沸かし器みたいになっちゃうんだから」。オグレデイはPGAの組織をも批判して、コミッショナーのディーン・ビーンマンもこき下ろし、ペナルティーを食らったりしていた。私はいらぬ神経を遣わぬが花……と飲みながら、お説教していたのだ。「そうかもしれない」オグレディは苦笑いしていた。F子さんの涙は消えた。ヒューストンの夜は様々な物を飲み込んで更けていった。 

プロレス追っかけ女子隊余話

☆制服のJK☆ 「日本人レスラー対外国のスターレスラー」――華やかなりしころ、外人選手の宿舎には、追っかけ女子がロビーにたむろしていることがあった。「お目当ては誰?」なんてことから、お付き合いに発展したケースを時々耳にした。ある晩、築地の編集局に戻って来たところ、ロビーに制服のJKが受付のソファーに座っていた。場違いもいいところ。誰か芸能人でも追っかけて来たのか? 「早く帰らないと、家で怒られぞ」と思わず、小言の一つも言いたくなるような場面である。「受付に制服のJKがいたんだけど、なんだろね?」と近くの人間に訊いた。すると、「あれは、T.Yさんのフアンで、お友達なんだって」と。「えっ⁉ お友達っていったって、本物のJKだぜ。ちょいとまずくないか」。冗談めかして、T.Yさんに訊いてみると、「Mちゃんはほんとに可愛くてさあ。これからご飯食べに連れて行くんだよ」と。そりゃ、ほんとにまずいぞ。T.Yさんはいい年もいいところ、もちろん家庭も、子どももいる。相手は本物のJK。お手てつないで仲良く。この”お友達関係”はしばらく続いていたようだった。レスラーの間でもかなりの話題になっていた。恋は盲目……の言葉はあるが、今の今なら、完璧な淫行トラブル。T.Yさんはかなり前に他界されている。天国でも本物のJKとデートしているのだろうか? トウスポのプロレス記者はもてまっせ。書いちゃってごめん。時効だね。合掌

☆追っかけ妻の持ち逃げ☆ プロレス界のカリスマ的記者がいた。物の見方も独特で鋭く、プロレスが格闘技に接近しだした頃、マスコミを席捲していた。M.Yさんとしておく。部下を動かす地位に着いていた。フアンも多かった。このM.Yさんもやはり、外人宿舎となったホテルのロビーで、追っかけ女子隊の一人ときっかけができた。プロレス感やら何やらの共通項がいくつかあったらしく、この二人は結婚まで進んだ。まあ、めでたし、めでたし。女性にとってはプロレス・マスコミの大物が亭主、プロレス会場に行っても、知り合いに対して、胸を張れるってわけでもあった。しかし、人生は山があれば谷がある。M.Yさんのいけいけドンドンの言動は、プロレス読者にとっては痛快極まりないものではあったが、身体を張って仕事をしている選手、団体からすれば、時にはうっとうしい限り。小競り合いが積もって、ついに全面対決となった。団体は取材拒否を突き付けたのである。M.Yさんも会社も取材拒否を逆手にとって、書きまくっていたが、写真も掲載できなくなるに及んで、和平交渉を求めた。今度は団体側が強気。「M.Yは取材の第一線から外れてもらいたい。その条件で取材拒否を解除する」と。背に腹は何とかで、会社はこれを飲んだ。M.Yさんはプロレスの取材から外れ、無任所になった。それまで徹夜もいとわず、で働いていた生活が一変。プロレスの試合の無い日は、夕方に帰宅するようになった。「何かかみさんも対応に困っているみたいなんだ」と生活リズムの急激な変化に、笑い話にしていた。それから数日後、妙な話が聞こえて来た。奥さんが家でしたらしい……。「いやあ、家に帰ったら、もぬけの殻。銀行関係すべて持って行かれた。猫だけ残ってた」と本人の生コメント。結局奥さんになった女性は、カリスマ的プロレス記者、部下を何人も動かせる座にいるM.Yと結婚したのであって、フリー状態のM.Yには用は無くなった、ということだった、としか考えられなかった。追っかけ女子隊、怖いねえ。