谷津嘉章は強かった‼

谷津 vs ウイリエム・ルスカ

☆異種格闘技戦に赤鬼登場 1975年暮れ、”オランダの赤鬼”ウイリエム・ルスカが異種格闘技戦で猪木に挑む、のニュースが流れた。ルスカは1972年のミュンヘン五輪で、柔道無差別級、重量級の二階級金メダルという偉業を達成しており、日本の柔道界においては宿敵のような存在であった。では、異種格闘技戦において、猪木が勝てば溜飲が下がるのかと言えば、そうでもない。柔道よりプロレスが強かった、となるのも見たくはなかったはずだ。ルスカの行動は日本の柔道界にある種、複雑な話題を投げたのかもしれない。問題の異種格闘技戦は、1976年2月6日、日本武道館となった。一月下旬、ルスカは来日した。記者会見にはかなりの数のマスコミが集まった。一体どういう試合になるのだろう? ルスカの隣にプロレス界では見慣れない人物がいた。現日本プロレス協会会長の福田富明氏である。実はこの人が影のプロデューサー。人脈を通じて、ルスカと新日本プロレスをつないだのである。福田氏はシグ片山氏(かの東京裁判で通訳を務めた)主催のユナイテッド・スチールの要職にあった。面白い会社で、ビジネスになる物は何でも扱った。ある時、「エジプトへかき氷のマシーンをまとめて輸出した」なんて話も聞いたことがあった。マシーンといったって、縁日で見かけた、足でペダルをばたばたこぐタイプのものだ。聞けばその筋から集めた、とのこと。ルスカのプロデュースもビジネスの一つだったのだろう。

☆公開スパーに谷津登場!☆ ルスカの公開スパーリングが行われたのは2月の上旬。練馬区江古田の日本大学レスリング道場。福田氏はOBであった。日本の柔道界にとっては宿敵のルスカに場所を貸す道場はなかった。警視庁という話も出かかったが、興行となると難しかったのだろう。当日、集まったマスコミは三社程度だったように記憶する。突き詰めれば新日本プロレスの興行。これを正面から取り上げるのか? となったのかもしれない。我がトウスポはそんなことはもはやどうでも良かった。個人的にも、ルスカの闘う能力に興味があった。柔軟、ストレッチ、バーベルなどの前段が終わって、ルスカがレスリングタイツになった。全身凄い筋肉で覆われていた。すげえ! 思わずつぶやいてしまった。「谷津、相手を頼むよ」と福田氏。大学三年生の谷津が現れた。ヘッドギアを付け、体重は95キロ程度。対するルスカは110キロ前後。やっぱりルスカが赤鬼……しかし、現実は違った。組み合ってグラウンドにもつれ込む。次の瞬間、あっという間に谷津がバックを取って締め上げた。立ち上がってもう一度、都合三回ほど組み合ったが、明らかに谷津が優勢であった。それではと、柔道着でスパーリングを行ったが、柔道着になると、ルスカはやはり赤鬼だった。セコンド役に後々格闘技界で存在感を表すクリス・ドールマンいた。こちらはサンボのスペシャリストだったが、レスリングでは谷津の敵ではなかった。 1980年、 谷津は 1980年の モスクワ五輪に備えて、自費でソ連のナショナルチーム合宿に参加した。ここで、メダル圏内の確証をつかんでいた。五輪不参加決定の後、新日本プロレスに入団した。道場で猪木とスパークリングを行った際、あっという間にバックを取った。「猪木さんに怒られちゃいました」と裏話を明かしてくれたことがあった。もし、モスクワ五輪に行っていたら……。

☆1976年2月6日、日本武道館☆ 試合中盤、猪木が額を割られて流血。異様な雰囲気にもなった。しかし猪木はぐいぐいとルスカを挑発。これに乗ったルスカが、柔道着」を脱ぎ捨て、「さあ来い、やるならやってみろ!」といった感じで両手を挙げて猪木に向かった。まさに赤鬼。猪木は顔面を朱に染めながら、バックドロップ三連発を繰り出した。ルスカはかろうじて立ち上がりかけたが、セコンドのドールマンがタオルを投げた。猪木のTKO勝ちだった。柔道家のルスカが柔道着を脱ぎ捨てた瞬間、ルスカは柔道家からプロレス転向を宣言したとも受け取れた。柔道家がプロレスの軍門に下ったのではなく、最後はプロレスラーとして散った……と。

※追記。ウイリエム・ルスカ氏は2015年2月14日、74歳で旅立っている。何度かプロレスの巡業で一緒に飲んだこともあった。合掌

ザ・モンスターマン密着取材記

今度はヘビー級プロ空手

☆全米プロ空手ヘビー級王者☆ アリ戦を敢行したが、周囲の期待が大きすぎたこともあって、様々な批判も浴びることになった猪木。5億、6億、7億……多額の借金も背負った。しかし、そんなことを感じさせないくらい、エネルギッシュに走り続けていた。いや、走らなければ団体の存続も危ぶまれる状態でもあった。所属している日本人レスラー、また、海外から「日本で一稼ぎ」をもくろむ外人レスラーにとっても、新日本の経済状態は重要。猪木はフアンの注目を集め続けなければならなかった。アリ戦の次のビッグマッチ、また少しでも抱えている負からの脱 却 の手がかりも兼ねて、異種格闘技世界一決定戦として、全米プロ空手ヘビー級王者、ザ・モンスターマンとの対戦が打ち上げられた。策士、新間寿営業本部長のが牽引車で、我が上司の桜井康雄さんもマスコミとTV解説者の立場で、NET側には栗山プロデューサー……こんな人たちがアドバイザーとして、知恵を絞ったのだ。1977年8月2日、日本武道館。モンスターマンは対戦の10日くらい目に来日したと記憶している。新宿の京王プラザホテルで記者会見。ここから、私の密着取材が始まる。こうした取材は何か定番になっていた。「白石、また頼むな」。オーダー主はほとんど上司の桜井康雄さんだった。そもそも、入社一年半は整理部の記者勤務。そこからプロレスを主に扱う第二運動部へ移ったのだが、当時、内外タイムスから移ってきて、ギャンブル部の部長になっていた針ヶ谷さんの口利きがあった。仕事後に飲みに釣れて行かれ、取材記者への転向を打診されていた。この人も井上博社長に買われていたのだった。第二運動部へ移って早々、山田隆部長(日本テレビ解説者。すでに他界。合掌)に喫茶店に呼び出されて、「あんた、英語が少しやれるんだって? 明日、サンマルチノのインタビューやってきて」と告げられた。言われるままに、東銀座の銀座東急ホテルのレストランでインタビューに及んだ。当たり前だが、”人間発電所”ブルーノ・サンマルチノとは初対面。どえらい緊張をしたが、サンマルチノは紳士でこちらがデビュー戦であるのを知っていて、大変協力的。また、立ち合いの百田義善さん(力道山長男。すでに他界。合掌)の時々助っ人もあって。無事終了。編集局に戻って、原稿をかいていると、山田部長が来て、「結構やれるらしね。よっちゃん(善浩氏)がほめていたよ」と。これで、何となく外人係になってしまったようだった。

☆モンスターマンに密着☆ モンスターマン。来日翌日から、取材に張り付くことになった。主な練習場所は代々木駅近く、沖縄空手の剛柔流だった。これは猪木-アリ戦のレフェリーを務めた京都の日本正武館館長の鈴木正文氏(すでに他界。合掌)の手配だった。余談になるが、鈴木氏は空手界の重鎮であると共に、故笹川良一氏の秘書、京都新聞社の経営陣と言った側面も持っていたようだ。異種格闘技で猪木と戦う相手、つい色眼鏡で見てしまいそうだが、真面目で物静かな男だった。京王プラザで目覚めると、目の前の西口公園で軽いジョギング、体操、朝食後、初代タイガーマスク、佐山聡の案内で道場へおもむいた。佐山はこの後の11月14日、やはり日本武道館で行われた”格闘技大戦争”に出場して、アメリカのマーク・コステロKO寸前の敗北で渡米、メキシコでルチャ・リブレと出会って、タイガーマスクでブレイクという経緯を辿る。この時は時々、キックの黒﨑道場で修行して、その異能ぶりが注目されてもいたのだった。モンスターマン、本名エベレット・エディ、ぺンシルバニア出身の空手家。キックボクサー。「最初はボクサーをやっていた。杯の病気をして、その道を断念したんだ」とモンスターマンは静かに語った。背中には肩甲骨に沿って、結構長いメスの跡があった。ある日、代々木の道場で黙々と、モンスターマンが汗を流していると、長身の白人が稽古にやって来た。聞けば、イギリス人で剛柔流の四段。これは格好のネタができた。形だけのスパーリングでも絵になる。そこでモンスターマンにに水を向けた。「写真の対象えだけでもいいので、軽くスパーリングしてもらえないか?」「OK」モンスターマンはイギリス人に近かずくと、「空手のルールでいいかい?」。二人のスパーリングが始まった。しゅつ、しゅつ、ビシッ! 道義が空を切る音が室内に響いた。肉体がこすれ合って火花が飛ぶようにも見えた。イギリス人の四段も凄いが、モンスターマンも強い。全米プロ空手ヘビー級王者。どんな規模の大会なのか、確かめようもなかったが、強いのは間違いなかった。相手は初対面の空手で、兼ねてからスパーリングパートナーを依頼していたわけだはなかった。佐山もびっくりしていた。「白石さん、やばいね。本当に強いよ」。新聞には事細かに、ありのまま書いてしてやったり、と思っていた。しかし、他社の反応はイマイチだった。ハプニングの現場に都合よくカメラマンもいて、克明なレポート……どうしても最初から仕込んだ……と受け取られてしまったのかもしれない。モンスターマンの招聘は興行的に成功だった。異種格闘技戦、猪木のセメント路線は軌道に乗っていくことになる。


A・猪木vs B・ロビンソン取材㊙メモ

ルー・テーズのマネジャーをやれ!

☆welcome Mr.Lou Thez……Aloysius Martin Thezs☆ 1975年12月初旬、”鉄人”ルー・テーズを迎えに羽田空港に行った。11日、蔵前国技館において、「A・猪木 vs B・ロビンソン戦」が決まっていて、そのウィットネスとして、ルー・テーズ、カール・ゴッチを立てていた。主催の新日本プロレス、そして放映局のテレビ朝日のプランであり、我がトウスポもいっちょ噛みしていたのだ。もちろん上司の(故)桜井康雄さんもアイデアの中心にいたはずだ。私は桜井さんに呼ばれたれて、言われた。「今回はテーズのマネジャーで動いてくれ。新日本のツアーを追って、テーズのコメントを送ってくれ」。テーズは大一番の ウィットネス であると共に、トウスポは特別評論家も依頼していた。後日、ギャラの百万円は私の手で。当時、カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦も行われていたので、こちらの評論もお願いすることになっていた。羽田でテーズにあった。「トウスポの記者ですが、今回はあなたのマネジャー役も兼ねています。よろしく」「OK、こちらこそよろしく」

☆やっぱり鉄人だ☆ 来日の翌日は「トレーニングしたい」で、新日本の上野毛の道場へ。さっと上半身裸になると、マイナス角度の腹筋を始めた。引退して結構な時間が経っていたのだが、鉄人ぶりは相変わらずだった。そして翌日、早朝、名古屋へ向かうため、宿舎の京王プラザホテルへ迎えに行った。ロビーで待っていると、ワイシャツ一枚の軽装でテーズはやってきた。外へ出て、「ン⁉ この格好じゃいかんな。言ってくれなくちゃ」とかまされた。「sorry little bit cool toay」。そうだった。マネジャー役でもあったのだ。

☆最強座談会☆ 12月9日、名古屋でどえりゃ~座談会を敢行した。この日、カール・ゴッチが名古屋の国際ホテルに到着していた。11日のためのあおり企画で、ルー・テーズ、カール・ゴッチ、それにB・ロビンソンを揃えて座談会をやった。テーズとゴッチを立会人にしたのは、猪木もロビンソンも一つ間違えると、セメントに走る危険性を持っていたので、二人の目が必要だったのかもしれない。こんなことは確証の取りようもないのだが。会場は名古屋国際ホテル近くのすき焼き屋。その日の試合後だから、午後の10時くらいだったか。司会は桜井康雄さん、こっちは雑用係&通訳。ゴッチとテーズが対等な感じで話し、それに正座をしたロビンソンがビールのお酌をしながら、相づち、といった感じだった。「この前、シカゴで空手のオープン戦に出たんだけど、大したことなかったな」とゴッチが言えば、テーズは自らのセメント・マッチを語りだす。頼むから猪木の話に絞ってくれ。ゴッチは話が盛り上がると、豪快に笑った。歯がきれいだった。……思い出した。ゴッチは日本プロレス時代に来日していて、その頃、奥歯が虫歯になって痛みが出たので歯医者へ行った。「虫歯だから抜いてくれ」と。歯医者は「Ok」と言って、素早く問題の歯を抜いて、「finish!」と。しかしゴッチは「No、No!!」と。「歯が生きているから虫歯になる。この際、全部抜いて、入れ歯にしたい」「じゃ、また日を改めて」と歯医者。ゴッチは「No、No!! 今やってくれ」。歯医者はびびりながらも、何とか全摘に及んだ。ゴッチは目的を敢行したが、しばらく顔が二倍くらいに腫れていたという。……ゴッチ、テーズの話は弾んだ。「猪木の寝技、返し技、巧妙にかけてくる関節技は要注意だ」とポイントが絞られた。ロビンソンは神妙に聞き入っていた。凄い夜だった。

”皇帝”ベッケンバウワーを、アポ無し独占直撃‼

☆皇帝ベッケンバウアー☆ 1975年1月3日、西ドイツ・ブンデスリーガ名門のバイエルン・ミュンヘンが初来日した。前年の西ドイツW杯で優勝した直後。”リベロ”として華麗に舞い、チームを率いたフランツ・ベッケンバウアー、がむしゃらにゴールに突進するプレーから、”爆撃機”と異名をとった、ゲルハルト・ミュウラ―、”鉄のカーテン”GKのヨゼフ・(ゼップ)マイヤー、ストッパーのカール・ハインツ・ルンメニゲ……監督はいぶし銀のウド・ラテクといった陣容だった。1968年のメキシコ五輪銅メダル以来、低迷を続ける全日本。人気の面でも一つの起爆剤としたい協会の思惑もあった。

☆宿舎の張り込み☆ バイエルンの取材……さてどうしたものか? この頃、トウスポの取材として十八番的になっていたのが、〈直撃インタビュー〉取材対象を近影でとらえ、取材の証拠として、記者自身も映り込むというもの。トウスポはギリギリのポイントまで突っ込んで、読者の好奇心をくすぐって、新聞を売っていた。カストリ、イエロー……いろいろ言われても、めげることなく書きまくった。それだけ取材をし、裏も取っていたので、堂々としたものだった。しかし、陰口はあちこちで飛んでいた。「遠目で様子を見て、対岸から石を投げてるんじゃ楽。正面切って取材してんのかね?」。「よし、それなら、直撃インタビューでいったらどうだ。記者も映り込んで、厳しいことも含めて一問一答形式でいこう」。言いだしっぺは(故)井上博社長だった。「君、ベッケンバウアー,何とかならんかね?」。風向き伺いの番頭さんが気軽に石を投げてきた。デスクの(故)桜井康雄さんは、ベッケンバウワーは大物で、どの社も狙っていることは知っている。「ダメ元で、張り込んでみっか。うまくいったら表彰もんだぜ」。ニンジンはぶら下げられた。カメラマンと宿舎の東京プリンスホテルへ赴いた。しかし、とっかかりのヒントは何もなかった。

☆助っ人招集☆ 芝の東京プリンスホテル。ロビーは取材陣で結構にぎわっていた。スポーツ紙、専門紙……何人か知っている顔があった。「ここで待っているしかないか?」「そうですね」。編集局の 風向き伺い たちが絵に描いた”直撃”など、どこから手をつけたものやら……。ここは一つ、ドイツ語がしゃべれた方が少しは有利になるかもしれない。友人のMiyamotoに電話した。ドイツ遊学経験者で戻って来て、元の石油会社で働いていた。年明け早々なので、少しは自由になるだろう、と勝手に判断した。「ベッケンバウワーに会いたくないか? 会社抜け出して助っ人してくれないか?」。Miyamotoは東京駅の会社から30分ほどでやってきた。「どうすりゃ会えるかね?」「本人がつかまりゃベストだが、監督でもメンバーでも出てくればね」。釣り人の前に魚はそう簡単には表れるものではない。この日は夕方まで張り込んだが、収穫ゼロ。「白石さんは何を狙ってんですか? えッ!? ベッケンバウワーのインタビュー!? そりゃ無茶でしょう。アポも無理でしょう」知り合いのカメラマンとこんなやりとりがあった。

☆無理は承知だ☆ 周りから、無謀だの、なんだのと言われているうちに、「何とかやってやろう」という気になってきた。まずはMiyamotoを口説いた。「明日、会社休んでくれない。早朝から、ホテルを張り込みたい。可能かどうか分からないが、レストランでアタックしてみようと思うんだけど」。さすがにMiyamotoも会社を休むとなって二の足を踏んでいたが、狙いは超の付く大物、ベッケンバウワーである。それに昔から無謀な遊びを繰り返してきた経験もあってか、面白そう、とスイッチが入ると突き進む性格。果たしてスイッチが入った。「やってみようか」。

☆1975年1月5日、早朝☆ Miyamotoと共に東京プリンスホテルのロビーに着いた。待ち合わせのカメラマンはすでに来ていた。先輩のOさんだったか。「どうなの見通しは?」「いや、これから様子を見て何とか」。カメラマンはほとんだ期待していないようだった。そりゃそうだったろう。昨日も張り込んでいた知り合いのカメラマンに、「選手だ誰か見かけた?」と水を向けると、「いや、誰も……」。よし‼ おそらく二階のレストランで朝食をとっているはず。「ダメ元でレストランに行って、誰かつかまえよう!」。ロビーにいる同業者の目を意識しながら、エレベーターに乗った。二階で降りた。レストランは目の前。警備は無し。緩い時代だった。今ならエレベーターにも乗れないだろう。ジャージ姿のバイエルンの選手たちが出入りしている。Miyamotoのドイツ語の出番だ。しかし。ドイツに2年近く遊学していたが、ドイツ語のレベルは知らなかった。こちらも多少の英語は話したので、いざとなったら、という頭もあった。Miyamoto一人の選手をつかまえて、「ベッケンバウワーに会いたいのですが、中にいますか?」「ちょっと待ってて」とその選手は言うと、2~3分してウド・ラテク監督を連れてきた。やったぞ‼ 名刺を渡して丁寧に仁義を切った。「5分でも良いので合わせていただけませんか?」「5分か? 良いだろう。一緒に行こう。ミューラーもいるけどいいのかい?」「とりあえず、ベッケンバウワーさんを紹介して下さい」。ということで、レストラン中ほどの6人かけくらいのソファに座って、インタビューを始めた。Miyamotoは身振り手振りも加えたドイツ語を繰り出した。コミュニケーションはOK。5分の約束はあっという間に。40分ほども経過して、こちらから質問を切り上げた。皇帝には「日本にはプロがなく、企業チームが主体の組織。なかなか世界の舞台に出ていけないのだが、何か方法は?」と訊き、「日本の状況に詳しいわけではないが、やはりトップにはプロがあり、底辺の拡大が必要なのだろう」とベッケンバウワー。この夜、バイエルン・ミュンヘンは釜本中心の全日本を1-0で軽くあしらって見せた。”リベロ”ベッケンバウワーのプレーは実に華麗だった。翌日、「皇帝ベッケンバウアーに独占直撃‼ 皇帝、日本にプロ化の緊急提言!」の文字が紙面を飾った。5万円の社長賞をもらった。その夜、Miyamotoと新橋へ繰り出して痛飲した。この話は未だに語り草。友人Mは現在、原宿豊島園で、紅茶専門店Kを経営している。あれから何年……未だに飲むと、この話題が浮上する。大物釣りは、それほど痛快だったのである。

ソウルで出会った、その筋の方たち

【ロッテホテルで超大物に】

Tousupo on my mind –我が心のトウスポ

プロレスは興行である。力道山、馬場、猪木……日本の黄金時代は、やはりプロの方たちの手腕で細部まで仕切られていた。この方がトラブルの起きる可能性が少ない。韓国はお国柄、また、八百長事件などがあったことも影響して、興行はなかなか難しいものがあった。しかし、1975年3月の「猪木ー大木戦」は別格だった。力道山の四天王のうちの二人。力道山の死後、紆余曲折、それぞれの道を辿った末の、”因縁の対決”かなりの盛り上がりをみせていた。プロレスファンの当時の朴大統領の肝いりで、大阪の”専門家”が動いた、との話も。不満が渦巻く社会のガス抜き、駐留軍の慰問……色々な解説がなされていた。昼間、猪木の顔を見ておこうと思い、宿舎のロッテホテルに行った。ロビーに入って、キョロキョロしていると、「白石さ~ん、こっちおいでよ!」。声の主は新日本プロレスの新間寿営業本部長。「お茶を飲みましょうよ」。見れば10人ぐらいが一つのテーブルを囲んで、談笑していた。猪木もいた。「お邪魔します」「白石さん、こちらを紹介しておきますよ」と。一人の紳士が立ち上がった。貫禄が凄い。お互いに「よろしく」と名刺を交換した。えッ!? 頂いた名刺には時々週刊誌で目にする、有名な団体の戦闘隊長として知られた人の名があった。韓国名であった。こちらも有名だ。「Yさん、こちらトウスポの敏腕記者の白石さん、ほら児玉さんとこの」「あ~そうでしたね。よろしく言っといてください」。そう言われてもねえ。改めて見渡すと、Yさんの周りは凄い雰囲気の人たちが詰めていた。この人が朴大統領から直々に、日韓スポーツ交流の協力を要請されていたようだった。半島の血が流れる日本の右と韓国の権力層は色々な面でつながりがあったようだ。「何かあったら、いつでも連絡してください」とYさんに言われた。しばらく名刺を持っていたが、ついぞその機会はなかった。

【お務めを控えて】

☆戒厳令の夜☆ 戒厳令の真っ只中の頃だった。取材を終え、一杯飲んで宿舎の清心洞のソウル観光ホテルに戻った。10時過ぎ。そこは日本でいえば、浅草のような下町。周囲は結構にぎやか。しかし、それも12時までがリミットであった。もう時間だから今日は部屋で寝よう……フロントでルームキーを受け取ろうとしたとき、一人の男が近づいて来た。「お兄さん時間ありますか? もしよかったら、今から一杯飲めるところ案内してくれませんか?」。日本の観光客か、良かった。ソウルでは何度も尾行されたり、盗聴されたり、を経験していたので、最初は”またか”と思って身構えたのだ。「怪しいもんじゃなかとよ、明日帰らにゃならんので、どうしても今遊びたい思って」。九州弁だった。しかし、観光客であれば客引きの案内で、とっくにレールに乗っているはず……と思ったが、「分かりました。この近くに以前大木さんに連れて行ってもらった割烹があります。そこで良いですか? 歩いてすぐです」「おう、よかね」。その男は実に嬉しそうについて来た。

☆男の正体☆ 清心洞、夜11時。大木金太郎御用達の割烹の広間に座った。「勘定はこっちだから心配せんで。おっと、何者か、言っときます」と言って、男は名刺を差し出してきた。それには”K会 何某”と記されていた。素人じゃなかった。こちらも名刺を出した。「ほー、記者さんとね。よか仕事ね。競馬とプロレスで、九州スポーツちゅうのをよく見てますよ」「それはうちの支社です」「ほー、それは、何かの縁ですたい」。男は嬉しそうだった。「酒、料理、ジャンジャン持ってきて。女の子もな」。男は何か頼むたびに札びらを切った。物凄い束を持っていた。円vsウオンだから、ちょっとした金額で束になるのだが、それにしても。「不思議ですか? 明日、日本に帰ったら、お務めに行くんですよ。だから、今夜は思い切り遊びましょう。さあ、遠慮せんと」。北九州でK会、関西のY組と並んでブランド団体。お務め? 日本で何かがあって、ソウルで気分転換、そして帰国して出頭……ということなのだろう。戒厳令直前までどんちゃん騒ぎの宴を張り、ホテルに帰って二次会。ルームサービスでステーキ、ボトルごとのウイスキーを頼んで、夜明け近くまで。男は酔うほどに「何かあったら連絡してくれ。今夜のことは感謝しとる」。不思議な夜だった。しばらく名刺は持っていたが、電話を掛けることはなかった。また、飲みたかったような気がしないでもなかったが……。


そりゃ反則!? 韓国取材裏の裏

【スパイもどき?】

1975年~1980年……おそらく、80年に近い年の事だったと思う。五月のゴールデンウィークに、新日本プロレスの韓国遠征があった。NET(現テレビ朝日)の放送も予定されていたので、第二運動部部長で我が上司の(故)桜井康雄さんが早々と訪韓の予定を立てていた。当然である。しかし、直前になって、「都合が悪くなった。白石、ピンチヒッター頼めないか?」と打診された。何か、ご家族の病気で大きな手術の予定が入ってしまったようだった。どうやら、心臓病を抱えていた娘さんのことらしかった。こっちは身が軽い。海外取材はいつでもウエルカム。二つ返事でOKした。だが、問題があった。ゴールデンウイークに韓国。バブル真っ只中、韓国は人気路線。男性専科ではあったが。飛行機の切符はどこへを探しても無い。どうしたものか? 桜井さんの切符はどこかのツアーに潜り込んだもので、人の変更は不可。トウスポ御用達の旅行代理店のN氏と相談を重ねた。「手が無いことも無いですね」「ほう!?」「白石さんは桜井さんのパスポートを持って行くんですよ。それで空港で旅行社の係員にパスポートを渡し、チェックインをしてもらう。チケットを持って、通関では白石さん本人のパスポート……当たり前ですが。白石さんが間違えると大変」。これで難なく韓国に入り、取材をして三日後に日本に戻って来た。しかし、何か問題が起きればえらいことだったろう。例えば飛行機事故に遭遇したら、乗っていない桜井さんが搭乗者名簿として発表されてしまう。韓国滞在中、白石孝次特派員で紙面を飾っていた。デリケート問題に触れることはなかったので、”いかさま入国”はほじくられることはなかったのだろう。

【空港で運び屋探し】

1970年代の韓国は情報の送りに大変苦労した。Faxさえ一般的でなかった時代、原稿を送るのは電話が主流。だが、デリケートな表現はリスクが伴った。盗聴は朝飯前。通話中に盗聴が入ると、トーンがダウンするのですぐ分かった。これがきたら、話をどうでも良いものに切り替えた。写真は通信社のラインで送ってもらう。しかし、これとて必ず南山のチェックが入った。南山はKCIAの本部である。しかし、原稿と写真を日本へ無傷で送る奥の手はあった。ブツをコンパクトにして、空港へ行って、運び屋を探したのだ。真面目そうな観光客に当たりを付け、事情をきちんと話して、軽いギャラを提示。こちらは日本の新聞社なので、100パーセントに近い確率で、成立した。後は運び屋さんが乗る便名と連絡先を日本に伝えれば良かった。しかし、これとて、南山を通過していない情報を日本に送っていたわけだから、こじれれば、無事では済まなかったかもしれない。

1986ソウル・アジア大会極秘メモ

【韓国大使館であわや監禁!?】

1986年のアジア大会は、88年のソウル・オリンピックの前段として、ソウルにて9月20日~10月5日のスケジュールで行われた。この二ヵ月前、これは事前取材を行って、トウスポ独自の切り口で本番の紙面展開への誘導路を作っておくべきだ、と思った。編集局では、「またあいつが目立とうとしている」と白い眼を向けられ、陰口も聞こえてきた。守りより攻め……お構いなしに、企画を進めた。ソウルのナショナル・トレーニング・センターに乗り込んで、目玉選手を根こそぎインタビュー。これができると面白い。アーチェリーの美人選手がいたし、陸上、ウエイトリフティング、柔道などにアジアでトップクラスの選手たちがいた。こうした情報をまず、編集局に知らしめることも重要だった。環境を整えておけば、次に進みやすいのだ。とりあえず、ソウル在住の個人的アドバイザー、申徳相さんに電話を入れた。申さんは名門、延世大学の出身で、長年京郷新聞のデスクなどで鳴らしたマスコミ人。各方面に幅広い人脈を持っていた。「ナショナル・トレセンに入れますかね? もう本番に向けてシャットアウトになって、いるとか……」「大丈夫、大丈夫、センター長よく知ってますから」。この人の人脈は底知れない。1979年10月26日に朴大統領が暗殺された時の大統領警護室長が同級生だったことから、しばらくKCIAにマークされていたこともあった。……企画を整理して、韓国大使館にビザ申請に行った。これまで韓国には何度も取材に行っていたが、お国柄、微妙な事情もあって、観光ビザで何となくすり抜けてきた。しかし、派手にアドバルーンを揚げようというのだから、仁義を切る必要がある。ビザを取っておけば、堂々と写真撮影もできる。アジア大会の盛り上げにもなるわけだから、ビザは簡単に下りるはず。同行予定の堀内良夫カメラマンと南麻布の韓国大使館へ行った。この人は、駒澤大学のバレー部出身。その筋からのコネ? で入社。校閲部、第二運動部……ここでは私と共にアマチュアスポーツを担当したことがあった。不器用だが、真面目一筋。写真部から最後は編集局長まで登った。体力もあるし、アマチュア・スポーツを知っているので心強い。「ビザ終わったら、一杯やろうか?」「いいですね、グチ聴いてくれますか?」「OK、OK」。大使館の窓口へ書類を提出した。「よろしきお願いします」。「ちょっとこちらへ」。ン!? どうした? 案内係の紳士はどう見ても素人ではない。肩幅広く、たっぱもある。いつでも戦闘ウエルカムの風体である。「こちらへ」と別室へ案内され、部厚いドアがバン! と音を立てて閉められた。ン!? 取調室じゃないかい。堀内カメラマンの表情も白く、緊張気味。「オタクたち、ソウルで何をするんですか?」。完全に取り調べモードだ。「いや、アジア大会に先立ち、韓国のスター選手を紹介するために取材です。できればナショナル・トレセンで」「あんた何言ってんの! センターは立ち入り禁止になってますよ!」「いや、知り合いがアレンジしてくれて……」「そんな事無理だと思うけど」。しばし沈黙せざるを得ない、と追っていると。「まあいい、今回はビザを出しましょう。堀内さん、たまにはおいしいお酒を飲みたいねぇ。こっちは時間あるんだから」と意味のよく分からな言葉が飛び出してきた。「どういう事でしょう?」「あんたがリーダー? もう帰っていいよ。堀内さんはちょっと残ってもらうから」「いや、これからセットで仕事の予定が……」「すぐ済むよ。何なら外で待ってたらどうですか?」。結局、飲み会への招待を約束させられて、放免されたのだが、真相は未だに藪の中。堀内カメラマンは実際に酒を驕らされた。訪韓して、申さんに話すと、「木っ端役人が、時々変な奴がいるんですよ。調べてとっちめてやりますか」。資材は思惑通り。センター長が案内とセッティングしてくれた。韓国は人脈が社会を動かしていることを実感した。

【金浦空港爆破テロ、開幕8日前】

大会8日前の9月13日。アジア大会の目玉企画は実行された。中身はマラソンコースを自分の身体で下見して、代表の中山竹通選手にアドバイスを送ろうというもの。だが、自分の足で走れるわけはない。といって、車で廻っても何も面白くない。そこで自転車で走る。42.195は自転車でもそんなに楽ではない。さらに趣向を凝らし、日の丸入りの中野浩一選手のユニフォームを借りた。ヘルメットも。私の仕事を面白がっていた競輪の須藤キャップがヘルプしてくれた。「君、本当にそんな事できるのか?」政治と駆け引きで成り上がった編集局上層部には理解できない。当然だ。早朝、中野浩一のユニフォームに身を包み、レンタルのスポーツ・サイクルにまたがって、ホテルを出発した。先導は申さん。マイカーのハザード付き。こっちは日の丸付きのユニフォームで決めているから、街角のお巡りさんも好意的だった。日本代表選手の公式練習と映ったようだ。緩い時代で良かった。途中、気の荒いタクシー運転手にすさまじい剣幕で怒鳴られるハプニングはあった。ソウルの交通事情は凄い。プレスルームでイタリアはローマからの特派員が言った。「ローマも凄いけどね、ここじゃ絶対運転できないと思う」と。……42,195キロ。自転車とて、そう楽なものではない。ポイント、ポイントで撮影もしているので、午後3時頃、汗みどろでゴールイン。やった! これでライバルの鼻を明かすことができるし、会社のお偉いさんにも、胸を張ることができる。頭を下げたり、言い訳はしたくなかった。他社のライバル一番手は報知新聞の吉江光弘記者だった。東京大学から報知に入った変わりダネ。似たような企画を打ち出すので要注意だった。普段は酒を飲むことが多かったのでなおさら。走り終わってシャワーを浴び、プレスルームに顔を出すと、少し遅れて吉江氏が入って来た。「少し、街中を回って来ました。そっちも取材でしたか?」。翌日、早朝から42,195の綿密な調査結果を原稿にして東京に送った。内容を見て驚いているようだった。やったな……。歩っとしていると、吉江氏が近づいてきてささやいた。「原稿終わりましたか? 出られますか?」「どこへ?」「まあ、行きましょう」。吉江氏は多くを語ろうとせずに、タクシーを掴まえた。「kimpo airport ツセヨ!」「金浦って!? 何が?」「何か起こっているらしいんだ」。金浦空港への道路は封鎖前だったが、やたらに警察官、軍人のがそこここに集まっていた。何と、爆破事件が起こった直後だった。空港の建物入り口付近はおびただしい血が流れていた。持っていたカメラでシャッターを押しまくった。だがすぐに警察官に止められた。五人が死んで、3~4人が負傷した直後の現場であった。

☆composision 4☆ プレスルームに戻った。しかし、テロとなると、トウスポの切り込む余地はあるのか? とりあえず、申さんに電話を入れてみる。「金浦でひどい現場を見てきました。何でしょうかねぇ?」。「馬鹿どもが起こした事件、あまり触れなくてもいいのではありませんか?」「まあ、そうなのですが、うちで書けるような材料が出てきたら、教えてください」。数分後、申さんから電話がきた。「爆弾はcomposision 4で時限のようですから、大会に合わせて計画的に起こしたということでしょう。我が国は戦争状態にありますから」。血みどろの現場写真と、ありったけの材料を集めて東京へ原稿を送った。何しろデリケートな問題である。使用された爆弾は韓国陸軍、米軍が常備している物。ここから、「自作自演」説も飛び出していたのだ。東京からはいつもの調子で「もう少し、刺激的になりますか」といった、リクエストは返ってこなかった。朴大統領健在の戒厳令下の時代から、韓国で取材をしてきた。これまで何どもホテルの電話の盗聴、尾行、直接アプローチを経験していたので、ペンを滑らせる勇気は無かった。

☆爆破テロ事件の夜☆ 開幕8日前の13日は血の匂いの漂よわせながら、暮れた。午後七時、デスクを整理して、報知新聞の吉江記者に声をかけた。「昼間はありがとう。爆発直後の現場を見ることができた。あまり良いものではないね」「当然でしょう。できれば、遭遇したくないよね」「行きましょうか? 気分を換えに」「良いですね。やっぱり一杯やりましょう」。こういう話はすぐまとまる。タクシーを拾って、清心洞(チョンジンドン)へ繰り出した。ここは安くておいしい食堂が多く、過去の取材で多少の土地勘もあった。麦酒(ビール)で乾杯の後、真露(焼酎)。本場物は砂糖が入っているので甘い。辛い料理に甘い酒というバランスだ。日本への輸出品は甘くない。本場の真露は口当たりが良いのでついつい。吉江氏も強い。空き瓶が転がる。昼間の借りもあるので、「さっきはありがとう。おかげで貴重な体験をさせてもらった。今日はこっちでもたせてね。後、別に隠していたわけではないんだけど、昨日、マラソン・コース下見してきたんだ。自転車で」。吉江氏はにやりと笑った。「やっぱり、何かやるとおもってたけど。実はこっちもやったんだ。体力に自信がある方でもないので、タクシーをチャーターしてさ」。何のことはない。ライバルも似たような企画を敢行していたのだ。「何か面白そうなことやらないと、会社じゃよく分かっていないので」。吉江氏も報知では、異端児だったようだ。この後、真露の空き瓶はさらに転がった。

【韓国日報と個人的密約】

アジア大会は、オリンピックと比べれが多少コンパクトだが、未だ戦争状態にある国の首都で開催されるわけだから、それなりに注目度も高く、世界各国の特派員が集まった。日本のマスコミもスポーツ紙でも大手は記者三人、カメラマン二人といったチーム。我がトウスポは、記者一、カメラマン一のお決まり陣容。「君、アジア大会なんかで新聞売れんのかね?!」上層部はこんな調子なのだ。ミスター・トウスポ、故井上博社長のように、売るためには何をやろうか、何を仕掛けようか……という思考とは違う。ま、しゃあんめえ。そこで、可能かどうか分からなかったが、現地の新聞社とうまく連携できないか? と考えて、申さんに相談した。申さんは韓国マスコミ界の大物OBである。「白石さん、いいね。それ、やりましょう」「そんなに簡単にいきますか?」「韓国日報がいいでしょう。私のいとこが局長ですから、電話しましょう」。こうして、韓国日報を訪問して、仁義を切った。「できれば磨り出し前のゲラ(校正紙)を見せていただけると……」「OK、じゃ時間になったら、取りに来られますか?」。これでニュースの入手が確保できた。翌朝から、申さんは韓国日報の最終ゲラを持って宿舎ホテルに来てくれて、コーヒーショップで面白そうな、まあ、トウスポ的な記事を」拾い読みしてくれた。それを私はメモに取り、プレスルームに出勤しては、チョイ脚色も入れ、もちろん許される範囲で、東京へ送りまくった。これを見た他社は、一様に不思議がっていたようだ。一人なのに、どうしてこんなに幅広く取材できるのだ?……種明かしは今が初めて、と言っていい。もう時効でしょう。

【谷津嘉章の「乱入・直訴」】

大会半ばのレスリング会場。私は谷津嘉章と待ち合わせていた。目的はFILA(国際レスリング連盟)のミラン・エルセガン 会長 とのツーショット。写真と両者のコメントだが狙い。谷津氏はこの春の全日本選手権にプロから復帰優勝を果たして、五輪出場の道を探っていた。FILAの会議では当時の笹原正三会長がオープン化推進の意見を出していたが、結論には至らなかった。それではと、”アジア大会でエルセガン会長に直談判” ……これでいこうと考えた。谷津氏に「旅費など持つので、行きませんか?」と誘ったところ、「乗りかかった舟だし、韓国は知り合いもいるので行きましょう」となった。笹原会長にはあらかじめ、「谷津が直訴といった感じの写真をこっそり撮ろうと思っています。エルセガン会長にそれとなく言っておいてもらえませんか?」。笹原会長に頼み込んで、この日を迎えた。谷津氏の記者証はどうにかならないか、と思案していると、谷津氏は「お~い○○、パス一枚何とかしてよ」と、旧知の韓国選手をつかまえて、頼素早くゲットしてしまった。緩い、良い時代である。これで会場内をある程度自由に動くことができる。問題は他社に悟られないことだった。通信社、スポーツ紙一社が微妙な動きを見せて、少し緊張させられたが……。エルセガン会長が貴賓席に着いたのを確認して近づき、隣の笹原日本協会会長に、「まもなく谷津を連れて来ますので、よりしくお願いします」。笹原 日本協会会長 は無言でうなずいた。こちらをマークしているかもしれない2~3社の目が外れたところで、谷津氏に合図を送った。谷津氏はそれとなく貴賓席に近づき、まず笹原日本協会会長と握手、笹原会長は隣のエルセガンFILA会長に、谷津氏を引き合わせる形をとった。谷津氏とエルセガンFILA会長が握手。言葉を交わした。「会長、プロにもゲートを開けて下さい」「おー君か、オールジャパンで復帰優勝したのは。君のことは聞いている。FILAは強い者をいつでも歓迎したい」。こんな会話が交わされた。やった‼ 「エルセガン会長、プロを容認!!」。ツーショット写真とともに、紙面を飾ることができた。また一つ仕掛けが陽の目を見たのであった。この時、テニスはすでにプロアマの垣根が取り払われていた。時代はその方向で流れてはいたのだが……。

※ミラン・エルセガン=

※ミラン・エルセガン(セルビア=当時はユーゴスラビア)。1972年~2002の間、FILA(国際レスリング連盟会長を務める。福田富明現日本協会会長と組んで、女子レスリングを登場させるなど、レスリングを見せる競技に変えた功労者の一人。95歳にて近年他界されている。合掌

oo7を追え!!

【オリエント急行に乗るか?】

1982年秋口。ロンドン郊外のウェントワース・クラブで行われるゴルフのサントリー世界マッチプレー選手権の取材準備を進めていた。この頃は海外取材に少しばかり慣れて、気持ちに余裕があり、どうせロンドンまで行くのだから、何か紙面を賑やかに飾れるような別のネタはないものか? と頭をひねっていた。そこへ、「イギリスか? オリエント急行に乗れたら面白そうだな。テレビはやったけど、紙媒体はまだだね」とささやきに来たのが、レジャー部のデスク、S氏。酒が好きで、乗るととことん遊ぶ方で、野球部出身だったが、居心地が悪くなったのか、レジャー部に籍を移して少し経ち、関係筋にも、顔が利くようになっていた。「やってみようか。企画書書くからフォローしてね」。早速、マッチプレーと合わせ技の企画書を書いた。可能かどうか分からないが、自分自身を被写体の中心に置くゆ、というもの。かのジェームズ・ボンドがタキシードなら、こちらは羽織袴で乗り込もうという算段なのだ。企画は編集部のトップレベルまで上がり、呼ばれた。「本当にばかなことを考える奴だな。でもできたら、面白いなあ。50回くらいの連載やれっか?」「50は軽いでしょう。100でも!! 是非!!」。あっけなく企画が通ってしまった。相手は桜井康雄さん。駆け出しの頃から、公私ともにお世話になり、仕事も酒も教わった「面白いと思ったら、どんどんやれ。それがトウスポだ」と常々。

※桜井康雄さんは残念ながら、平成29年に80歳で他界された。病院にお見舞いに行ったところ、集中治療室にいらした。こちらに気づくと、「お~来たか? あの時のおんなはどうした?」。凄い記憶力だった。お世話になりました。合掌。

【鉄壁のOriento Express]

企画は面白くても、オリエント急行に乗れなければ、話にならない。日本にも代理店ができていた。趣旨を説明して、ありがとうございました。あわよくば取材枠で……しかし、そうは問屋が卸さなかった。オリエント急行の客の多くはお金持ち。お遊びで、時にはお忍びで、というもの。具合なのだから取材記者をカメラマン付きで同乗させるなんてことは、進んで考えるはずもない。「本社に聞いてみます」。次は「趣旨を申請書形式ニュートンして、送って下さいさい」ときた。ok,ok。記者自らが取材対象となって、旅をする。他の乗客を取材したり、プライベートを邪魔するような行動は一切取らない、と熱い内容でまとめた申請書を提出した。そして、これが通った。また、社内でいろいろな声が聞こえてきた。「いい気になってないか? 海外取材、みんなもってちゃうのかよ」。無視するしかない。紙面で勝負しよう。させていただきます。さて、羽織袴……着たこともないのに、どうする? 出発まで、一ヵ月を切っている。ン? 待てよ、うちの奥さんの母親が着付け教室をやっていることを思い出した。steamお伺いありがとうございました。相談すると、二つ返事で引き受けてくれた。袴、足袋、雪駄などをかき集め、夜の特訓は始まった。この義理の母親(伊東清子さん)も随分前に他界している。正面切って感謝するときは、大抵いないものだ。

【右腕はMカメラマン】

トウスポが誇るMカメラマンとは、時々コンビを組んでいた。いつもお世話になっております。いろいろとエピソードがあった。もう時効とお断わりして、書かせて頂こう。写真部に入った頃、「オイ、いい加減にしろよ!  今度やったら首だぞ!」写真部デスクの雷が落ちたことがあった。何があったのかというと、プロレスの取材に行き、現像したところ、ネガが半カケで使い物にならなかったという。当時ASA100のフィルムを使って、フラッシュ焚き&シャッタースピード60が大基本、というか、鉄板だった。Mカメラマンは緊張のあまり? これが外した。雷は落ちた。そして鉄板を外さないよう、調整目盛りを60に合わせ、テープでガチガチに止めていたところだった。「007の足跡を辿るオリエント急行」取材の同行カメラマンは、予想もしなかったMカメラマンに決まった。決まった以上、うまくやるしかない。一抹の不安を抱えながら、現像関係の薬品類、引き伸ばし機、電送機などの機材を持って、まずは世界マッチプレーの取材のため、ロンドンへ向かった。飛行機は順調にヒースロー空港へ向かっていたが、着陸となってハプニング。霧のため着陸不可となった。近郊のガトウイックへと変更になった。Mカメラマンの表情が曇りだした。「会社に電話……」「今、無理!」。何も起こらないでくれ、と祈る思いだったが、事件は起こった。

【パスポートがありません!!!】

霧のロンドン。ヒースロー空港は時々了解しました。離着陸に影響を及ぼすことは耳にはしていたが、まさか自分が……。まあいいか、落ち着いて行こう。飛行機はガトウィック空港に着陸。やれやれ。〈タクシーでThe Runnymede on Thamesだな〉。入管の列に並んでちょいとボンヤリしていると、「パ、パスポートが無い⁉」と、Mカメラマンがうめいた。〈何ばかなことを言っとんのや⁉〉と張り倒したくなったが、「無いって⁉ 無けりゃこっちへ出て来られないから、そんなはずはないよ。手持ちのバッグの中をもう一度ちゃんと見て」。しかし、「ありません‼‼‼ 飛行機の中に置いてきたかも」「だって、飛行機の中では出してはいなかった、と思うよ」。ちょいと異様な光景。入管の役人も「ん⁉」という感じになってきた。仕方なく、「何かの勘違いだと思いますが、パスポートを探したいので、列を外れます」と役人に説明した。「OK」役人は苦笑いしていた。「飛行機に戻っていいですか?」「そりゃあかんで」。〈公海から英国領域に入りかけている。今度は別の問題が起きる可能性がある〉「落ち着いて、バッグの中を調べろや!!」。だんだん血圧が上がって来た。すると、「ありました!! バッグのこんなとこに入っていました」「自分で入れたんでしょ? 落ち着いていかないと、この先長いよ」。「すいません、ちょっと慌てて」。しかし、ハプニング」というか、何と言うかの事件はまたまた……。

【The Runnymede on Thames】

世界マッチプレーでの定宿ともなっていたThe Runnymede on Thames。霧のために変更となったガトウィックからは約40キロ。本来のヒースローからは7キロ。霧のロンドン。仕方なし。「すみませんでした。無くなったと思って、焦りました」「外国じゃ、特に落ち着いてやらないと、感覚が違うからね」。Mカメラマン、飛行場での”自爆”寸前の事件をまだ引きずっていた。〈ええ加減にせえよ!〉我が心、なかなか波静かとはならなかった。「馬鹿な質問だと気づいたら、しないように」……全英オープンの名物プレス担当、ジョージ・シムズ氏の顔を思い出してしまった。なんてこった。タクシーは1時間ほどでホテルに着いた。テームズ川のはとり、エガムの町だ。水と緑を背景に、こじんまりとした佇まい。大会コースのウェントワースまで5キロチョイ。最高のロケーション。運営上手なサントリー広報部のお手配による。

※Wentworth Club 当時は確か、Golfの文字がなかった。それは当初、貴族たちが暇つぶしで、キツネ狩りを行う森付きの広場だったとか。そもそも、catch & releaseなんて言葉も、放さなければ、おもちゃが少なくなる、という発想なのだ。貧乏人の感覚ではない。

The Runnymede on Thames。さてさて、世界マッチプレーの取材準備を始めよう。カメラマンは浴室に簡易現像所を作り、現像液を調合。さらに電送機のジャックを部屋の電話の裏蓋をめくって、しかるべきポイントにつなぐ。国際回線を確保して、白黒の光信号→音声信号→光信号、こんな感じで生写真を送るのだった。練習ラウンドの取材を終えて、さてテストを兼ねて、築地の編集部へ写真を送ろう……こちらは記事原稿を送り、写真電送の終了を待ったいた。おなかも空いたし、のども乾いた。確か、サントリーの広報の人も一緒だった、かな。早く終わらないかねぇ、と思った次の瞬間、ボン!! という遠慮気味の爆発音とともに廊下対面のカメラマン部屋のドアの隙間から白い煙が流れ出てきた。何だ~~!!!! かくして、Mカメラマン主役のハプニングは起こった。飛行場からすれば2回目であった。

【The Runnymede爆発事件の真相】

「おかしいんですよ!!」カメラマンの目は血走っていた。」「おかしいって!?」「回線が切れちゃうんですよ。だから、まだ送れないんですよ」「そんなはずないと思うよ」「フロントで訊いてもらえませんか?」。当時はフロント横に交換室があり、交換手が常駐して、ジャックをつないでいた。本当に切れるというなら、この人たちが切った……と。そんなはずはない。いつもお世話になっております。一応、確認させてもらったが、「まさか、何ゆえに?」と。「それでも」とカメラマンは、差し込んだジャックをテープで止めに行った。「OKでした。今度はいけます」。だが、またどこからか白い煙とともに、火花も飛んだ。「こりゃあかんよ。回線には」関係なく。こちらの機材がおかしい。コンセントには」まず変圧器がセットされている。英国は220―240なの日本の機材を使うにはこれが必。見れば、何やら焦げた痕跡がある。素人目にも、これが問題。「明日、電気屋を探して修理を頼んでみよう。今日はあきらめて一杯飲もう」。運良く、同じエガムの町に電気屋を発見。翌日、取材の合間に変換器を持ち込んでみた。主人は快く、といった感じで電送機をチェック。一瞥に近い時間で一笑に付された。変換器だから、変換のスイッチがある。これをやらなかったのでショートしてしまったのであった。「すぐ直るよ」と主人。10分後に解決。カメラマンは「Thank you very much!!」を連発した。主人は一言「you never miss again」と言って、笑った。

【サントリー広報部にはお世話になりました】

世界マッチプレーの取材では、サントリー広報部さんに大変お世話に」なった。こちらもお酒が嫌いな方ではないにで、打ち合わせと称してよく飲んだ。もちろん打ち合わせもした。日本でも何かと連絡をいただいてよく飲んだ。一軒目でご馳走になり、それではと、二軒目はこちら。そこで終わったためしはなく、三軒目、そしてダメ押しの四軒……向こうは営業を兼ねた顔出しの意味もある。皆さんめっぽう強い。ある時は女性のスタッフも同行。強い、強い。「朝、残りませんか?」「飲んで帰ったら、寝る前に目いっぱい水を飲みます。それこそ喉元まで。大抵、朝すっきりしてますよ」「なるほど」。試してみたが、そんなに、言うほど、すっきりしなかった。やはり、根本的に強いのである。もう一人の男性スタッフは、「ダメそうになったら、トイレで吐いて、また飲むんですよ」。そこまでやるか。大会の期間中には、当時副社長の鳥井信一郎さんにも、お世話になった。市内の日本割烹で記者懇親会を開いてくれた。こちらが世界マッチプレー終了後、オリエント急行の取材をすること、その合間を見てTGVにも乗ってマルセイユの探訪する予定であることを話すと、『ワイン街道(アルザス)にはうちのワイナリーもありますよ。連絡しておきましょうか?」と。「ワインは全くの素人でして。何から入ったら良いんでしょうか?」「そうねえ、手頃なのはムーラン・ナ・ヴァンでしょう。高くありません。ボージョレ地区のガメイ種100%で造られるもので奥が深い。これを頼むと店側はホー、となりますね」「よし、このネタでフランスでひと暴れしよう」。この夜も結構酔ったことを憶えている。

【君も成金なのか?】

Mカメラマンのハプニングもなく、世界マッチプレーも順調。スペインのせべ・バレステロスが勝ち進み、サンディ・ライルを下して優勝した。こちらの頭の中は、オリエント急行の事で一杯。プレスルームでもついつい、その話題になってしまっていた。日本人記者連中は、それにしても、何だかトウスポらしくて面白そうだな」と笑っていた。しかし、地元、英国の記者の反応は違った。「一体、そんな観光列車に乗って何をするんだ。金が高いだけだ。意味あるのかい? その半額以下でアテネへ行って、ぜいたくに遊べるぜ」と。「オリエント急行は007、アガサ・クリスティなどで、日本ではちょっと謎めいた存在対象にもなっている。そこで実際に乗って、その雰囲気を読み物にしようというコンセプトなんだ」「日本のマスコミは金持ちだなあ」。まあ、いいか……。

※オリエント急行。起こりは1883年、国際寝台車会社が運行を開始した、パリ→イスタンブール間の国際定期列車。当初から貴族、富豪たちが客筋だった。戦争などで中断。1977年にスイスの旅行会社によって、ノスタルジー・オリエント急行の名で復活した。これが007、オリエント急行殺人事件などの映画の舞台となって、日本でも注目されるようになったのだ。

【Chip Star on the Orient Express】

世界マッチプレー、セベ・バレステロスの圧勝の原稿、写真を無事送稿。その夜は、ゴルフ専門誌の記者、サントリー広報部のメンバーが集まってくれて、The Runnymede on Thamesにて、打ち上げ&壮行会。明けて翌月曜日、旅の衣装となる羽織・袴を含む様々な荷物を抱えてタクシーでLondon Victoria stationに向かった。日本なら東京駅と上野駅を合体したような役割を果たしている。オリエント急行は、東側プラットホームの2番線を、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスの専用としていた。ホームに人はまばら。限られた人しか乗らないので、それも当然。お揃いのバーバリーのコートに身を包んだフロアスタッフがきびきびと、しかも笑顔を絶やさず、接客していた。何か、有名になった気分。「タキシードならボンド、こっちは羽織・袴だから、世界のMifuneか」と、右腕のカメラマンに軽い冗談。「緊張しますよ。この雰囲気は。結婚式用のスーツ持ってきました」。ロンドンからはまずドーバーに向かう。フェリーでフランスのカレーへ渡り、ここから正規のコースに乗る。だから、ロンドン発時点では豪華な車両ではない。なるほど、と思っているところに、アジア系の女性に声を掛けられた。「東京の新聞社の方ですか?」。何だ日本人の女性だ。聞けば旅行会社の現地アテンド。「さくらフイルムの缶を作ってらっしゃる会社の社長ご夫妻が乗られるのですが、英語がだめなんです。ディナーまでヘルプお願いできませんか?」。帰国後の読者が増えるのは大歓迎。「OK、楽しくやりましょう」。老夫婦は嬉しそうに着席した。オリエント急行は静かにドーバーへ向けて滑り出した。

【我こそは和製007】

ロンドン発カレー行きの国際列車は、ドーバーからフエリーに乗った。サービスのアルコール、ジントニックをチビチビ、時々海と切り立った白い壁を眺めているうちに、カレーに着いた。ここから汽車が替わる。いわゆるオリエント急行である。日も暮れて、薄暗いホームに”貴族専用”といった佇まい。丁重にコンパートメントに案内されて、目を見張った。007、アガサ・クリスティの世界である。ついに来たか。さあ、トランクの中から、羽織・袴、雪駄を取り出して、お召し替え。渡英前に細君の実家、味一番(中華料理)の二階で特訓して身に着けた着付けであった。何とか様になったところで、扇子を袴の帯にねじ込んで、よし!! 右腕のカメラマンを従えて、デイナー車へ向かう。こちらは礼服に白いタイ。約束通り、さくらフイルムの缶を作っている会社の社長夫妻にも声を掛ける。こちらを見て、「えッ!!??」と絶句。よし!! デイナー車のドアを開ける。「オーツ!!」と歓声。「movie star‼??」。ついに007の向こうを張って、tousupoの一記者がオリエント急行の主役へと躍り出たのである。

【オリエント急行の宴】

オリエント急行がフランスのカレーの駅を出た。次の停車はパリだ。デイナー車の各テーブルでは豪華な宴が始まった。カクテル、高級そうなワインのボトル注文。こちらは日本の老夫婦のエスコートもしながら、カメラマンの注文に応える。主人公は忙しい。スチュワードが来た。「日本のムービースターですか? お飲み物は?」。そら来た。「ムーラン・ナ・バンはありますかな?」「フランスは何度目ですか? うれしくなった。懐から千円札を出してチップを渡した。どっきり顔のスチュワード。「I’m chip star‼」。デイナー車内、大爆笑。やった! カメラさん、しっかり撮ってよ! 気が付けば、白人の母娘と思しき二人がテーブルに来て、「ご一緒していいかしら?」「why not? 光栄ですな」。聞けばオーストラリアからバケーションでやってきた、という。機会がありましたら、是非遊びにいらしてください。歓迎いたします」。娘さんの方はワインのせいだか何だか、ウットリしているように見えた。だめだよ、こっちは仕事中だ。千円のチップのおかげか、ピアノ弾きもが、「何かリクエストはございますか?」「そうだなあ、ルート66なんてどうかな?」。オリエント急行でルート66なんてどうしたもんだか……。こんな調子で飲んで食って、しゃべって、千円のチップを撒いて、デイナー車の中心人物となった。着物を着ての宴会は結構疲れる。パリのオステルリッツ駅に着いた時は、結構よれていた。羽織・袴・雪駄、これにアタッシュケースを下げてホームを歩いた。パリでワンストップ。TGVに乗って、マルセイユを探訪する企画もあったからだ。「OH、ムービースター!!」「NO、NO、チップスター!!」。また受けた。この旅は面白くなりそうだ。いくらでも書ける……。

【TGVでマルセイユへ】

オリエント急行をパリで一時下車。一日のオフの後、パリ北駅からマルセイユに行った。時速250キロ以上。フランスの誇る弾丸列車。車内は飛行機を思わせるような空間。結構ワクワク感もあって、快適。「ちょっとのんびりできそうかな」。しかし、カメラマンMは緊張しているようだった。無理もないか。一日のオフを利用して、観光スポットを抑えるべく、パリの街をぶらついた。二人の若者がこちらの正面に来て立ち止まった。両手に紙を広げている。見れば、”Give me money”と。ン!? もう一度紙の文字を確認しようとした時、紙の下に異変を感じた。紙の死角……若者の手がこちらのジャンバーのポケット探っているではないか。私は紙を払うなり、「馬鹿野郎]と叫んだ。若者はナイフをちらつかた。私は二度目の「馬鹿野郎!!」とともに、蹴りを出した。二人の若者は道路を渡って慌てて逃げた。私は「待て泥棒!!」と叫びつつ、追った。途中でカメラマンMに止められた。つかまえていたらどうなったのか? 若者は明らかにジプシー風。深追いすれば、別の危険が待っていたか? 「パリは危ないですねえ。気を付けないと。こっちは高いカメラ持っているし」。カメラマンMはカメラバッグを抱いた。

【マルセイユにて禁断症状!?】

☆にわかフレンチ☆ 初めてのマルセイユ。改札を出たとたん、浅草か三ノ輪か……といった印象を受けた。港町。いいじゃないか。しかし、我々は無謀にもホテルの予約をしていなかった。駅の案内所でホテル探しにトライするが、英語が通じない。フランス語がしゃべれずにふらり旅などありえないのかも。さてさて、「白石さん、ここに広告がありますよ。これホテルでしょ!?」とカメラマンのM。確かにこじんまりとしたホテルの写真。電話番号も。何か、ジーン・ハックマンがお忍び捜査で隠れ家にしそうな雰囲気だが、ぜいたくは言ってられない。公衆電話から「Allo! Allo!」とやった。「エングレ?」「Non」だからだ。こうなったら、度胸でぶちかますしかない。「disuponibles? ドュ ジャポネ?」。「ウィ ムッシュ」と向こうから。「おー、フレンチOK。やりますね白石さん」カメラマンMも嬉しそう。ホテル名を紙に書いて、タクシーの運転手に渡した。あさ黒いアラブ系と思われる運転手は小さくうなずじくと車をスタートさせた。

☆グルメ探求の結果☆ ホテルはこじんまりとしていた。当たり前だが、写真より安っぽい。でも素泊まり3千円はgood! マルセイユのグルメも取材計画に入っていた。夕刻を待たずに街に飛び出した。フランス語で”グルメ”……食べる、食事という意味だ。さて、港へ行ってどこか良さそうな店に入ろう。しかし、オリエント急行のどんちゃん騒ぎで内臓がややお疲れモード。下っ腹を帯で締めていたので、暴飲暴食はそこでダムのようにせき止められていた可能性がある。ちょいと胸焼けもしている。こんなもん、飲めばすっ飛ぶだろう。てなことで湾に面したこぎれいなレストランに入った。白ワイン、生ガキ、ガーリックトースト、取材で写真を撮るから、ブイヤベース……”まいう~”を連発。ワインをガブリ、生ガキをチュルチュル、胸焼けはどこかへ消えて、またまた暴飲暴食モード。ついでだ! 一つ憶えの「ムーラン・ナ・バン頼みます」。店の主人は、「おぬし、できるな」といった表情で、運んできた。赤ワインも飲みつつ、合間にブイヤベース。カメラマンのMも、「うまいっすねえ。マルセイユは気に入りました。安全そうだし」。何言ってんだか? 来たばっかりだぜ。それに世界に知られた麻薬組織の本拠地とも。油断は禁物。両者腹が突き出たところで、「散歩しながら、ホテルの方へ戻ろうか?」。港の夕暮れはやたらにきれいだった。ジャン・ギャバンが出て来そうな風景であった。きっと映画で観た記憶もどこかで重なったのかもしれない。

☆SOS 誰か助けて!☆ 喉元まで地中海料理を詰め込んで、港をぶらぶら歩いてホテルへ帰った。部屋に入って、突き出た腹を見ながら、「ちょっと休憩」と言って、ベッドにゴロリ。フランス語のテレビをぼーっと眺めているうちにうとうと。2時間ぐらい経った頃か、何か内臓の異変で眠りから覚めることになった。腸のあたりが熱く、痛い。胃も未経験のむかむモード。トイレに飛び込む。物凄い下痢。出せば治る……しかし、ベッドへ戻ると、再び強烈にもよおす。一体何が起こったのか? 水のような下痢の後は吐き気。これも治まる気配はない。ふらつく。発熱しているのは間違いない。それも結構な高さのようだ。経験からして、39度は堅そうだ。まずい。カメラマンのMは緊張の面持ちで、そばにいる。「どうしましょう? 薬が必要ですよね? 外で探し来ましょうか?」と言ったって、フランス語しか通じない感じのマルセイユの街で、”宝探し”ができるのだろうか? オリエント急行での暴飲暴食で内臓がダメージを受けているところに、さらにアルコールと生ものを詰め込んだ……完全なる消化不良だった。日本でならバッファリンやら、消化剤などを飲めば解決。だめなら医者に駆け込むところ。しかし、このマルセセイユではどうすりゃいいんだ? カメラマンのMはフロントに走り、身振り手振りで状況を説明して、おそらく鎮痛剤と思しき錠剤をゲットしてきてくれた。藁をもすがる思いで飲んだ。ちょっとだけまどろんだ。起きてはまた上下から出した。そして薬。日付が替わった頃にようやく落ち着いて、浅い睡眠に入った。

☆再度、にわかフレンチ☆ 翌朝8時、死の淵から蘇ったかのように目覚めた。いつもの空腹感は無い。「白石さん、何か買って来ましょうか? 食べ物ぐらい言葉が分からなくても大丈夫でしょう。何が良いですか?」「ありがたい。まず水分が欲しいね。固形物は受け付けそうもないから、精一杯果物かな?」。カメラマンのMが街でゲットしてきてくれた食料で何とか復活の兆しをつかんだ。この日の予定はパリに向かって立ち、途中のワイン街道を探索することであった。しし、歩くのもまだまだ不安な状態であることから、街で薬の入手、そしてパリ行きの列車の予約変更をやっておくことにした。10歩歩いては休み、といった調子で薬屋、マルセイユ駅と回った。薬屋では「メデイシオン」」連発して、ゼスチュアで。何とか消化剤と鎮痛剤をゲットした。 メデイシオン は英語のmedicinenonoの勝手にフランス語読み。駅では「リザベルシオン」の連発だった。こちらは英語のreservationの勝手にフランス語読みであった。すべてOK。怖いねえ。トウスポは何をするやら。大ピンチであった。しかし、これもおまく乗り切れば、連載のネタになるのだ。トイレの中でうなりながら、そんなことが頭をよぎってもいた。

【再びオリエント急行】

☆パリ東駅→ベニス☆ マルセユからパリに戻って一日のオフ。猛烈な消化不良からかなり回復。明けて夕刻、パリ東駅から再びオリエント急行に乗った。映画ではイスタンブールが終着駅だが、通常はベニスが終点。洗練されたスチュワードにコンパートメントに案内されて、ホッと一息。「体調が戻って良かった。一時は旅が続けられないかと……」「そうですね、必死でしたよ。フランス語なんて分かんないし」とカメラマンのM。薬と食料の調達がなかったら、どうなっていたのやら。旅は道ずれ、世は情けってか。列車はカレー→パリ間でディナーも終了。夜の闇と共に静寂が漂っていた。サロンカーも客はまばらだった。もう暴飲暴食はいかん。ウィスキーを軽く2~3杯。コンパートメントに戻ってゴロリ。映画ではないので、殺し屋も、ロシアの美人スパイも現れなかった。

【ベニス→イスタンブールで事件は起きた】

☆通常の終点はベニス☆ オリエント急行はパリを出てスイスのジュネーヴを通り、シンプロン峠を通過して、ミラノ→ベニスへと。途中、ジュネーブを通過したあたりで夜明けを迎え、朝日がやたらきれいだ、と感動していた。この企画は個人的にも、何だかとても良いものに感じていた。それほどゆったりして、貴重品を部屋に残してきても、何の心配もなかった。「ベニスから国際列車に乗るんだけど、食堂車で一杯飲んだりしていれば楽勝だな」「そうですね、もう終わったようなもんですか?」。カメラマンのMもリラックスしているようだった。

☆国際列車は危ない⁉☆ 「手打ちうどんでいってみっか? ハウワインもいってみっか?」。ベニスはまさに水の都。水辺をウロチョロしながら、パスタ探し。どこでも良かったのだが、連載のネタも欲しいので歩き廻った。太陽も燦燦と降り注ぎ、ゆったり、のんびり……200パーセント平和だなと緩んでしまう。しかしベニスもイタリアだから、注意は必要なのだが。一軒のレストランで”アリオーリョ・ペオエロンチーノ”。美味い。これも一つ憶え。ハウスワインをグラスで。美味い。腹ごしらえを兼ねた取材もOK。ってことで駅へ戻って列車の確認。イスタンブール行きの一等コンパートメントを確認。「後は食堂車でちびちびやっていれば、ゴールのイスタンブール。「楽勝だね、M君」「そうですね。でも念のため、非常用ということもあるから、軽食を買っておきませんか?」。カメラマンの提案で、パン、サラダ、ソーセージ、ボトルワインを調達した。これが命をつなぐことになるとは……。

☆共産圏で約人の急襲⁉☆ ベニスからは国際列車に乗り換えて、イスタンブールを目指す。映画ではロンドンからイスタンブールなのだが、このコースは特別の時しか運航されない。一応、国際列車の予約をしてきたのだが、何だか一等はガラガラで肩透かしを食らった格好であった。「まあ、空いてるのもいいか」「でも何だか雰囲気がもう一つですね」。カメラマンのMの表情から、明るさが消えかけているような感じがした。「確かにオリエントはキラキラだったからね。その落差があるね」。汽車は夕刻のベニスを滑り出た。ザグレブ、ベオグラード、ソフィアなどを経由していく。当時の共産圏を通過していくのだから、気分的にもゆったり、のんびりといくはずもなかった。列車内をゆくゆく調べてみると、食堂車なんてなかった。また、コンパートメントの外に出て、様子を伺ってみると、二等と思われる車両は結構な満員状態であった。「空いているのはこの一等のコンパートメント車両だけのようだね。それに食堂車なんてないから、どこかの駅で調達する必要があるね」「荷物も注意が必要でしょう。基本的に私が走ることにしましょう」。ベニスで買い込んだ軽食はスタートして間もなくちびちびやっていたので、残りは心もとないものになっていた。小さい駅に止まる。英語はまずダメ。駅名も定かではない。ゼスチュアを駆使し結果、水は”アグア”で通じることが判明。金は? 仕方ないので手持ちのドルを切ることにした。しかし英語の車内アナウンスなどないので、必死に走っては聞き、ゼスチュアも繰り出し、一ドル札を見せた。これで水の調達はかろうじて。ちょっとほっとした。気がちょっと緩んだ。 列車がクロアチアのザグレブに入る時に、コンパートメントのドアが勝手に開けられた。”excuse me!”なんてなし。制服の税関吏がどやどやっと。「パスポルト、コントロール‼」。おうそうか、国際列車だから、国を通過するたびに出入国のチェックがあるのか。こんなことも来て初めて分かった。そもそも一般的な観光で、こんな国際列車に乗る人はまずいないのではなかろうか。税関吏はお世辞にも”welcome”の雰囲気ではない。取り調べそのものであった。手荷物に関しては、「オープン コントロール‼」。これが終わると、「トエンテイダラー プリーズ‼」「Its US?」と聞き返すと、「イェス! イーチ!」。なんと入国税が20USドルときたもんだ。……だいぶイラつきもしたが、儀式が終わって役人は帰った。ほっとした。カメラマンMの顔にも安堵が漂った。「白石さん、こうなったら寝ちゃいましょう。寝て起きればだいぶ進んでいるでしょう」。確かに共産圏の夜は暗い。駅はどこも灯りが少なく不気味な感じさえした。寝よう。コンパートメントはソファー倒したりすると寝台車に早変わりした。しかし、どうも雰囲気が良くない。カメラマン一台30万は楽にするNikkonやCanon、計3台。これに引き伸ばし機やら何やらを抱えている。その昔、学生の頃、ナホトカからシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ行くというのが、一つの箔をつける手段と言われたことがあった。そして、経験者談が人ずてに伝わっていて、「シベリア鉄道に乗って、お土産用に持って行ったセイコーの時計が大人気。一個で食堂車貸し切りのどんちゃん騒ぎができた」。また、「赤の広場でパンストをヒラヒラさせたら、女性が集まって来た。その中の一人のアパートへ行った」とか。真相は定かではないが、共産圏では日本製のカメラ、特に世界的ブランドのNikkon Cannonなど、一財産ものに違いない。役人の根めるようなまなざしが頭から消えなかった。

☆遂に事件は勃発☆ 税関吏の三白眼の無神経な訪問 ⁉  に神経を消耗したようで、知らぬうちに二人ともうとうと状態に入った。また突然ドアが開いた。「パスポルト・コントロール!」「さっき見せたはずだが……」「今度出国。パスポルト、プリーズ!」やれやれ。何て国だ! 税関吏は無表情にパスポートを開いてスタンプを押して、出て行った。これが次のユーゴスラビア入りでも当然」あった。いきなり訪問と「パスポルト・コントロール」などは一緒だった。ちょっと慣れてきていた。ハイ、ハイどうぞ、といった感じで事務的に受け答えして、済むと眠りに落ちた。ン⁉ 何か変かな? 暗闇の中で、頭の上を探った。パスポート、イスタンブールからの飛行機チケット、クレジットカード、トラベラーズチェック、現金5米ドル、日本円2千円……などが入れてあった。まあ言ってみれば命綱。何かあっては困るので、頭の上の棚に置いていた。暗闇の中でまさぐった。ン⁉ 無い、ってことはないよな。電気を点けた。ベッドソファアの下ものぞいた。無い! 仕方がない。カメラマンのMを起こした。「アタッシュケースが見あたらないんだ」「エッ⁉ 白石さんが頭の上に置いてたやつですよね。こりゃヤバイ」。やられた! 裸足でコンパートメントを飛び出した。ドアの近くに、これまた三白眼の車掌が立っていた。何かニヤついている。笑っている場合じゃねぇ。「call police!! アタッシュケースを盗られた!」。ちょいと混乱していた。車掌に詰め寄って。ポリッツエ、 ポリッツエ !と叫んでいた。車掌は薄笑いを浮かべるのみで、「言葉が分からない」といった感じで、首をすくめるばかりだった。埒が明かない。二等車両も当てののないまま、のぞきまくった。しかし、そこまで。仕方ない。一度コンパートメントに戻ろう。ドアを開けた。カメラマンのMはカメラバッグを抱きしめて、俯いていた。「白石さん、ヤバイです。泥棒列車ですね」「こうなったら仕方ない。ベオグラードに着いたら、会社に連絡したり、日本大使館に言って相談しよう。取材旅行は中断やむなしかな」。カメラマンのMの顔は青ざめていた。

☆ポワロを目指せ!☆ カメラマンMのパスポートもそっくり入っていたアタッシュケースを盗られた。大ピンチである。恥を忍んで、恥じゃないのだが、編集局内の反応は「だから言ったんだ。大体企画が乱暴すぎるんだよ」になるはずだ。声の主の顔も浮かんできた。ここは一つ、うまく乗り切れれば、逆に連載には絶好のネタになるに違いない。ヨシッ‼ この列車は現在、どっぷり共産圏の中を走っている。外との出入りは不可能。車内には恐らく警察系のスタッフもいるだろう。一般人であれば、その目は怖い。奪ったアタッシュケースをご開帳できる場所は限られている。……となると、ヨシッ‼ カメラマンMに説明した。目はうつろだった。早く何とかしないと危ない。「僕はカメラを守ってます」 とカメラマンM はぽつりと言って、カメラバッグを抱きしめた。ヨシッ‼ 意を決してコンパートメントの外に出た。捜索の場所をトイレに絞った。他の部屋もさりげなくのぞいたが、あまり念を入れると、こちらが盗賊の疑いを掛けられる恐れもある。一つ目のトイレは無し。さらばと二つ目、これも無し。2ストライク❕ あほかこんな時に。そして三つ目、ドアをパット開けると、我がアタッシュケースが便座の上にちょこんと。あった‼‼ 中を調べないで、ともかく外に出た。ン⁉ あの三白眼の車掌がのそっと立っていた。「It’s mine!! おまわりを呼べといったバッグだ」。三白眼は薄ら笑いを浮かべるだけだった。恐らく、こいつだ。税関吏もグルなのか。長居は無用。アタッシュケースを抱えてコンパートメントに戻った。「あったよ、見つけてきたよ」「え~良かった‼」「まだ分からんぜ。中身のチェックだ」。アタッシュケースを開けた。5米ドル、千円札が消えていただけで、あとはセーフだった。「OK,、セーフ‼ 旅を続けられるぜ」「良かった~この後、どうなっちゃうんだろうと心配でした」カメラマンMも安堵の色を見せた。いや~危なかった。

☆ベオグラード駅の涙☆ イスタンブールへはベオグラードにて乗り換えが必要だった。に戻った。荷物を持ってホームを歩いた。そこここで家族単位でベンチに座り込んで涙を流し、途方に暮れているように見えた。この人たちは、我々と同じ列車に、多分イタリアあたりから乗り込み、寝込みを狙われて、手持ちの金を奪われたらしかった。出稼ぎ……金を稼ぐはずがなけなしのお宝を奪われた。国際列車は泥棒も呉越同舟だったようだ。いや、スタッフは怪しさ満点ではあったが。ベオグラードでドル札をちらつかせて食料を調達。同じような国際列車でイスタンブールへ。今度は油断しないぞ。「僕は寝ません。どうぞ楽にしてください」カメラマンのMの目は座っているように見えた。

☆自由圏バンザイ☆ 汽車はブルガリアのソフィアを抜けて、トルコへ入る。雰囲気が何となく明るくなるから不思議だ。駅には軽食の売り子が。こちらもまたまた米ドルをちらつかせて補給食を調達。ようやく気分がほぐれかかる。カメラマンのMも歩っとしたのか、うとうとしかけるが、寝ない。「寝るとまずいでしょ」とカメラバッグを肌身離さず。車内アナウンスも分からないから、ひたすら乗っているのだが、最後は午後3時を回った頃、海沿いを走り始め、彼方にイスタンブールの街並みがうかがえるようになって、さらに安心が増した。ようやくゴールできる。自由圏はほんとにええわい。午後4時過ぎだったか、列車はイスタンブール駅に滑り込んだ。荷物を抱えてホームに出た。泥棒トラブルは無かったのだろう。ベンチで泣き崩れるシーンは見かけることはなかった。駅の両替所で一万円程度をトルコリラに替えてタクシーに乗った。英語が通じるのは久しぶり。「ヒルトンへ」。予約はしていなかったが、ヒルトンなら何とかなると思った。フロントで部屋が取れるか訊いた。「生憎ですが」とフロントの女性。こちらの風体は国際列車に缶詰状態で、決してきれいとは言えなかったので、警戒の気持ちもあったか。すかさず、AMEXのゴールドカードを出した。「これで何とか、ロンドンからようやく着いたので」。「少々お待ちを。あ、ちょうどキャンセルがありましたので」。嘘つけ、最初から、あっただろうに。ま、それはおくびにも出さず、「イスタンブールは初めてだが、こんなにきれいな街だとは」こんなおべんちゃらを言って、部屋を取った。部屋に入るとセミスイートのようにデラックス。いいよ、会社持ちだから。冷蔵庫を開けて、冷えたビールの小瓶を3~4本出して栓を抜き、カメラマンのMと一気にあおった。自由も一緒に胃袋に流れ込むようだった。自由圏はええね。カメラマンのMも相好を崩していた。国際列車の中では、恐らく極度の緊張から、軽度のノイローゼに罹ったのではなかろうか。カメラマンのMは酔うほどに饒舌になっていった。

☆後日談☆ 連載は各方面で反響を呼んだ。してやったり。調子に乗って、書きまくった。しかし、こうしたことを快く思わない連中が必ず出てくるものだ。しゃあんめえ、最初から妬まれているわけだから。驚いたことに、編集局の上層部の人間からも、「君、これ本当なの⁉」と言われた。現場を知らないから、信じられないのである。こういう人たちが偉くなりだすと、組織はあかん……。

(to be continued)


懐かしのカーヌスティ トム・ワトソンの初優勝を見た!!

【スコットランドへ飛べ!!】

1975年の7月。ゴルフの取材は若葉マークながら、荒っぽいトウスポの勢いで、全英オープンゴルフを取材すべく英国へ飛んだ。ひどい話、前もっての資料はゼロ。(後日談では、先輩が隠した……とも),しかし、デスクに「大丈夫、やらせて下さい!!」とタンカを切った以上、何が何でもやらなければ、記者生命は危うい。「あいつはできない」――こんなレッテルは簡単に貼られてしまう。

ともかくカーヌスティ

この年の開催コースはカーヌスティ・ゴルフリンクス。(この思い出話を書き出した今年も)どうやらスコットランドらしい。飲み友達のアジア旅行社のN氏に力を借りた。ネス湖の近く、といっても、一般のツアーとは無縁。旅行のプロにとっても、情報の多い場所ではなかった。東京から英国までは、PAN‐AM(現在は無い。)の南回り各駅停車。東京→香港→バンコク→ニューデリー→カラチ→テヘラン→ドバイ→ジュネーブ→フランクフルト→ロンドン……といった具合。この航空会社は、アメリカの半官半民、ベトナム戦争時の際、兵士を運ぶために作られた、と言われていた。我がトウスポは、PAN‐AMの広告を掲載し、バーターチケットを得ていた。これで海外取材を展開、「協力=PAN‐AM」と記した。これはありがたかった。飛行機代がロハだから、小規模の会社でも、太っ腹になれたのだろう。ただし、海外旅行が高嶺っぽい時代だったから、妬まれ方は半端ない!?

【 ようやくロンドン】

各駅停車。東京から30時間くらいかかったのではないか。その度にその国の機内食が出た。英国では如何にしたら……不安を紛らわすため、呑んで食べた。アルコールは飲み放題だった。飛行機は遅れ気味に、ヒースローに着いた。身体はよれによれていた。ロンドンのホテルは予約してあった。正確には旅行社のN氏に、手配してもらっていたのだ。ヒースローからオースチンの箱形タクシーに乗った。予約したホテルを告げた。ホテルに着いたら、シャワーを浴びて、共同通信のロンドン支局長に連絡すればよい……全英オープンの記者証の予約を頼んでいた。通信社に対して、配信の契約をしている新聞社は、多少、客のようなバランスもあった。飛行機は遅れ気味だったが、歯車はスムーズに噛み合いだしたようだ……ところが……。

【ドタバタ始まる】

予約したホテルに着き、フロントのお姉さんに、「予約してある何某だ」と告げると、「いや、見当たりません」と、想定外の返事。飛行機の遅れで、「既定の午後3時まで」は2時間近くオーバー。それでも、事情を話して押しこめば良かったのだろうが、いきなりの想定外に気後れ、あっさり引いてしまった。さあ困った。土曜の夕方。行く宛てなどあるはずもなく、重いトランクを引きずって再びタクシーに乗り込んだ。「どこかホテルへ……」「……てったって、どこさね?」「……どこでもええから泊まれるとこ」。ロンドンのタクシー運転手話して世界一優秀だが、さすがに困った様子。そりゃそうだ。ちょっと考えていたが、「ウォルドフでも良いか?」。そこがどんなに高級なのかは予備知識無し。「頼む」で、ウォルドフへ。フロントにて必死のお願いモード。運良く空いていた。素泊まり2万五千円だったか。

【想定外、再び】

頼みの綱の共同通信支局長にはなかなか連絡がつかなかった。最初は初体験の公衆電話。七角形の20ペンスが必要……ここまでは分かっていたのだが、実際にやってみると、コインが落ちていかないのだ。実は相手方が受話器を取ると、落ちる仕組みになっていた。30分ほど悪戦苦闘の末、理解したが、つながってみると、支局長は外出中でなかなかつかまらなかった。今のような携帯は存在しない。土曜の夕方に何が多忙にさせているのか? 実はゴルフの全英オープンの前週はテニスのウインブルドン。こちらの知識がなかったのだが、日本の沢松和子と日系のアン清村のコンビがダブルスで優勝した直後だった。支局長、そりゃ大変だったはず。ちなみにTBSの朝の報道番組、「あさチャン!」に出演している沢松生子は姪の関係だ。号外ものの快挙。原稿に追われながら、支局長はウォルドフへ来てくれた。感謝、感謝。

【さて、カーヌスティへ】

ヒースロー空港。Inland,International……スコットランドはどっち扱いなのか、と混乱しながら、あちこちで聞きまくってアバディーン行きのカウンターへ辿り着く。重いトランクを引きずって、息も絶え絶え。すでに搭乗が始まっていた。ヤバイ、慌てて飛行機へ急いだ。しかし、トランクを引きずっているのは、極東からやってきた自分だけのようだ。「ええい、行っちまえ!」で飛行機に乗った。トランクは通路に置いた。そりゃいけん……しかし、見かねたスチュワーデスがやって来た。「荷物は座席の下に置いてね」「yes,mom」と言ったものの。どうやっても、3分の1は通路にはみ出した。「そりゃ、いかんばい」今度は大柄のスチュワーデスがやって来て、荷物室へ移動してくれた。助かりました。

【ヒュウバート・グリーンと呉越同舟】

「あんたも、オープンに出るのかい?」――後ろの席から、ちょいハスキーな声が飛んできた。振り向くと、”早打ちマック”で知られた、ヒュウバート・グリーンがいた。「コースには出るけど、取材です」「へ~、どこから?」「Tokyo、Tokyo Sports Press」「へ~、東京で一番大きなPressかい?」。社の規模は小さいのだが、社名には、この後もどれだけ助けられたことか。海外では一発で覚えてもらえた。

※ヒュウバート・グリーン氏。親日家であった。米国PGAツアーを張り付き気味に取材していたころ、ちょこちょこと話す機会があった。「お寿司を食べに行くんだけど、みんなお醬油をドバドバ着けて……困っちゃうね」なんて話もあった。2018年6月16日、喉頭がんとの闘いの末、旅立たれた。ご冥福をお祈りする。71歳。同級生のような年齢。ちょい寂しい気持ちになった。

小さなジェット機は、ガタガタと揺れながら、アバディ―ンに降りた。ロンドンから北……気流が安定していることは少ないようだ。

この時は自力で運転できないから、コースまではバスが頼り。「カーヌスティのコースへ行きたい」。「このバスが町に行くよ」「いや、コースへ行きたいんだけだけど」「だから、町に行くって言ってるがに」。要するに、イギリスもアメリカもゴルフコースは、人のいるところ、街中か、街のすぐ近くにある。日本だけが人里離れた場所が当たり前になっている。バスはカーヌスティの町へ近づいて行く。「それで宿は?」「まだ、これから。まずコースへ行ってから」「多分、無理かもよ」「え~!?」

【宿が無い……】

やっとのことで、コースの前で降ろしてもらった。確かに町の真ん中。日本のそれのように、ものものしいゲートがあるわけでもなく、道路からいきなりコース。見れば、ホテルとおぼしき建物が四軒。「よしよし、どこか空いているだろう」と、気楽にまずは右端のホテルへ。「えっ⁉」我が耳を疑った。「予約もしないで来ちゃったの? もう一年前から予約で満室なんだ」。二軒目、三軒目も同様。冷や汗にまみれて四軒目。当然、答えは同じ。世界最古のメジャー、これ常識。女主人、「極東からはるばるやって来て、可哀そうに」ってな表情を見せた。これは情にすがるしかない。「どこでもいいんです。何とか、助けてもらえませんか?」「そう言われてもねえ、一年前から満室は、どうにもなんないねぇ」……こりゃだめか、あきらめかけて肩を落としていると、女主人が「ちょっと待ってよ。友達に聞いてみよう。旦那が亡くなって独り暮らしの人がいるんだ」。電話で聞いてくれた。すると、金曜に親戚が観戦に来て泊まることになっている。それまではOK。お~救われた!! 神様、仏様!! 「まず、荷物を置いてきて、夕飯はうちの食堂で食べればいいよ」。女主人の家で、「あんたその薄着じゃ、だめだよ」と亡くなったご主人のフィッシャーマンを貸してくれた。「試合終わるまで着てなさい」。なんて親切な人たち。感謝、感謝。女主人のホテルの食堂。ビールの美味かったこと。

【青木、尾崎の代わりに来た】

居場所が決まったことで、気分的に大分楽になった。翌日……火曜日……朝一番で、プレスセンターへ。日本のそれとは異なり、すべてがテント使用だった。プレスセンター、グッズショップ、レストラン、バー……。トイレは仮設。取材記事送稿用の電話ボックスはプレスセンターの奥に並んでいた。当時はファックスさえも無い。送稿は音声のみであった。

プレスの窓口はジョージ・シムズ氏。口ひげ、蝶ネクタイ。いかにも英国紳士。共同通信からの紹介状(といっても、ロンドン支局長の名刺一枚)を差し出し、「東京から来ました」「よく来ましたね、それで何をするんですか?」「何を、といったって、取材に来たんですけど」「だから、何をするんですか?」……要するに、記事を書くライターなのか? 写真を撮るフォトグラファーなのか? 日本ではそれほど厳密ではなかったので、ピンとこなかったのだ。ちょっとしたやりとりの末、「記事がメインです」と答えた。シムズ氏も安堵の表情を見せ、「お世話になっております。OK。テーブルを上げます。Tokyo Sports Pressとカードをかけておくよ。あ、それから、夜はプレス招待のパーティーがあります。出ておくと、こちらの記者と顔見知りになれるから」

※ジョージ・シムズ氏。後日、名物プレス担当であることが判明。日本人選手の出場が当たり前になってくると、記者も同様。中には日本の物差しで、プレス担当に依頼する者も出てきて、シムズ氏を苦戦、苦笑させた。ある年から、プレスカウンターには、「馬鹿な質問だったらしないように」とのプレートが掲げられるようになった。シムズ氏もすでに旅立たれている。お世話になりました。合掌。

午後七時。プレスセンター隣の仮設テントで、プレス招待のパーティーが始まった。乾杯の後、順番に自己紹介。ン!? 何をしゃべればいいんだ? ひたすらスコッチをのどへ送り込んだ。ほう、シングルモルトか? いやいや、何をしゃべるんだ……思考とまらぬ間に、酔いが回ってきところで、順番が来た。Tokyoから初めてやって来ました。Tokyo Sports Pressへ記事を送りますが、気持ちは尾崎、青木の代わりにOPEN出場……と言い終わると、どっと拍手が巻き起こった。記者が集まってきて、飲む、日本のことを訊く。大会の印象を訊く。また飲む。酔いはどんどん回り、日本での仕事後と変わらぬような状態。こういう戦場は得意。相当、コミュニケーションができていたような。何人かで街へ繰り出した。時計の針はぐんぐん深夜へ向かって行ったが、カーヌスティの空は暮れない。白夜である。パブを2~3件はしごして、気が付けば、午前様。新橋で飲んだくれたような気分で、しらっちゃけたカーヌスティの街をやや千鳥足で、貴重な宿へと帰った。

[ 原稿を肉声で】

当時のこと、海外、国内を問わず、取材先から原稿を送る、となれば電話、郵便、何かの配達手段しかなかった。民宿先のおばさんに、「correct call」で日本に原稿を送りたいので、貸してください」と。すると「ただの電話って? そんなの効いたことがないよ」。「いやいや、大丈夫です。オペレーターに聞いてみてください」。……約30分ほどかかって、民宿のおばさんは理解。「じゃ、使いますよ」と言って、オペレーターを呼び出した。「correct callでTokyoをお願いします」「で、誰が払うの?」「だから~Tokyoの会社が払います」「OK」スコットランドのオペレーターはまず、ロンドンのオペレーターを呼んだ。つながると次はパリ。そしてTokyo。世界は広い。つながった!「スコットランドのKojiがcorrect call をリクエストしているが、受けてもらえますか?」。早朝。「はい、トウスポです」誰だか忘れたが、寝ぼけた声が出た。英語がだめだ。咄嗟に拒否反応。「no,no」。英語がだめだ、と言っているつもりなのだろうが、オペレーターには通じない。「馬鹿野郎、何でもいいから、yesって言え!!」と思わず。「What!? ン!? 何だかnoって言ってますが」「失礼、Tokyoのオペレーターと話をさせて下さい」――これでやっと回線をつなげてもらうことができたのだった。

「遅くなりました、原稿を送ります」。本社とようやく生の会話。受け手は例の取材資料を隠した先輩。「寒くないかね。心配してたよ」。F○○k you!! 心はそう叫んでいた。「ありがとうございます。遅くなりましたが、原稿を送ります」。サラリーマンだねえ。ほんとに大変な経過を経て、原稿を送ることができたのだった。今じゃ、パソコンでリーチ一発。楽なもんじゃ。

☆余談その①☆この何年か後の全英オープンでは、命綱の電話が使えない、というアクシデントに見舞われた。英国の国営電話会社がストをブチかましたのだ。しかし、地元の記者たちは、結構落ち着いていた。「大丈夫さ。いざとなったろ鳩がいるから」「ン⁉ 鳩で何をするって!?」。日本でも昔は伝書鳩が新聞社の原稿送りに、大きな役割を果たしていた。大きな新聞社の屋上には、必ず鳩小屋があったものだ。ストは大会の練習ラウンド前に解決して、事なきを得た。世界最古の全英オープン。Great Britainあげての一大行事。労働側もちゃんと心得ていたってことなのだろう。

☆余談その②☆同じ頃、コロンビアのポゴタにてワールドカップゴルフが開催されたことがあった。海抜2千メートル。「5番で200ヤードは楽だ」とニクラウスが言ったりして、色々と話題なっていた。日本からは安田春雄、鈴木規夫のコンビだった。内容がどうだったかはさておいて、ここでは原稿送りの際のハプニングを書くことにする。プレスルームの主役は米国からの記者たちだ。デスクの上にそれぞれ、新兵器のワープロを置いていた。小さなテレビ画面を付けたマシーンデスク、電話回線で本社に送るシステムになっていた。コロンビアの電力事情は満足できるものではなかった。停電は日常的なもの。……後で分かった。練習ラウンドを終え、それぞれ、ワープロと格闘していた最中、落雷を伴った夕立、来たか! と思った次の瞬間、プレスルームのライトが消えた。停電。あちこちで放送禁止用語が飛び交った。今のパソコンのように、自動保存など夢のまた夢。米国記者たちの苦労のあとは見事にぶっ飛んだ。そこへ、ボランティアの女の子が2~3人、ろうそくを灯しながらやって来た。「ほら、これで仕事ができるでしょ?」ろうそくで原稿送れってか……この時ばかりは、苦笑するしかなかった。

【Big thanks, Mr.Loo お世話になりました呂良換さん】

Mr.Loo。この大会では話題を呼んでいる選手であった。1971年、ロイヤルバークデールで開催されたオープンで、リー・トレビノに次いで2位に入っていた。アジア勢最高、この時代では快挙といってよく、日本のゴルフ・ブームを勢いづかせる出来事でもあった。また、言動、ゴルフに対する姿勢は紳士然としたもので、ゴルフ発祥の地において、結構な人気を呼んでいたのだ。呂良換(本当は火扁)。英語ではルー・リャンハンと表記され、ミスター・ルーと。日本では呂選手。呂さん。取材のポイントはまずは呂さんに決めた。練習ラウンドでつかまえて挨拶した。「よく来たね。一人で?  よろしくね」。日本語で取材できるのは、何たって楽ちん。リラックス・モードでラウンドを追った。すると、呂さんのラウンドに付いているギャラリーの中にアジア系の顔がチラホラ。先方もこちらに気づいて声を掛けてきた。日本語だ。一人は日商岩井のロンドン支社長、この方の名前は忘れた。もう一人は、沖縄空手剛柔流の師範、榎枝さん、ロンドンで大きな道場を主催しているという。気持ちはどんどん楽になっていった。この日から夕飯にも誘われ、酒も入っていろいろと話を弾ませた。しかし、問題を一つクリアできないでいた。今の民宿は木曜日までしか泊まることができなかったのだ。金曜日からどうする? 初日のラウンドが終わった後、呂さんにそのことを話すと、「え~そうだったの? じゃ、僕の予約している所を紹介するよ。丁寧に電話までかけてくれた。「今日も中華行くよ。荷物置いたら、タクシーでいらっしゃい」。おかげ様。呂さんの親切で路頭に迷わずに済んだ。大会は月曜日のプレーオフまであったのだから、本当に、今考えても綱渡りであった。

【死闘の末】

「呂さんはいいけれど、トムのネタは無いのかね?」デスクから注文が飛んできた。トムと気軽に呼んだが、売り出し中のワトソンのことだ。名門スタンフォード大学からプロに入って、ニクラウスの後継者と。デスクは一度でもあったりすると、友達になったかのように、吹聴する癖があった。しかし、そろそろ追わずばなるまい。婚約中のリンダさんもラウンドに付きっ切りだ。だが、戦況としては、オーストラリアのジャック・ニュートンが最終日前半までは楽勝を思わせる感じで走っていた。天気も穏やかだった。OK。三日目まで雨、風、あられ……が一日のうちに交代でやってくる天気に結構体力を消耗していたきともあって、「すんなり早く終わりましょう」と心は願っていた。ところが終盤にさしかかって、ニュートンが崩れだした。何と、最後の4ホールで3ストローク失った。ニュートン74。18番、以後も数々のドラマを生んでいく、バリーバーンでワトソンは6メートルのバーディーパットをねじ込んで72。72ホール終了してついに並んでしまった。「こりゃ、どうするのか」と。翌日18ホールのプレーオフも初めて知った。民宿の延泊願い、帰りのエア―チケットの予約変更、ロンドンの宿の予約変更……こっちの仕事もどっと増えて、「うへっ」て感じだった。すべてをクリアした月曜日、天気は荒れた。雨の中断もあった。すんなり終わっていればよかったのに。ワトソンのゴルフは実に歯切れが良かった。すっと構えると、2~3回のワッグル、スパッと振り抜く。風など関係ないって感じで、高いドローボールで攻めていく。大接戦、「これでタイだったら、もう一日か?」などと、マイナー思考も浮上する。14番のロング、ワトソンがチップインイーグル。ヨシ! 思わずこっちもガッツポーズ。見ればリンダさんも破顔一笑で拍手を送っていた。メキシコ系、小柄で日本人にも受けるタイプ? 勝手な解説で失礼。しかし、ニュートンとてツワモノ。めげずにバーディーをねじ込んだ。1打差のまま、18番。ひやひやものだ。ワトソンは冷静。8メートルに2オン。ニュートンは左手前のバンカー。やれやれ終わったか? しかし、しかしである。3打目をピン奥3メートルに付け、これを放り込んでパー。ワトソンのプレッシャーをかけた。ワトソンは、この場面でも冷静。手堅く2パットで仕上げて、メジャー初優勝を飾った。メジャー通算8勝の口切りであった。ワトソン……凄い選手だ、大会4日目、そして翌日、都合5日目のプレーオフにおいて、ようやく世界のゴルフに対面することになった。取材のポイントを決めてラウンドを追わなければならない。プレーオフという場面に放り込まれて、理解した。お上りさんのデビューは、ドタバタの末、幕を閉じた。……しかし、ちょっとだけ自信を得たことで、以後の海外取材へ挑んでいくことになった。

※ジャック・ニュートン。1983年7月24日、シドニーニー空港にて不運な事故に見舞われる。サッカーの試合を観戦するため、プロペラ機に歩いて搭乗しかけたところ、プロペラに巻き込まれ、右手と右目を失う重傷を負った。自身のキャリアは続けることは不可能となったが、解説者、コース設計、選手育成などでゴルフ界の普及に貢献している。

(この項完)