マサ齋藤さん、ありがとう。

2018年7月、マサ齋藤さんが亡くなった。栃木の病院でパーキンソン病との闘いの末だった、そうだ。齋藤さんと会ったのは、1978年の秋、フロリダのタンパであった。9月15日、ニューオーリンズのスーパードームにおいて、モハメド・アリが世界ヘビー級王座に返り咲いた……この密着取材を成功させた後、アメリカのプロレスの深部を覗くため、ツアーを追った。一つの手がかりとして、フロリダのブッカーとして、重鎮的存在だった、日系のデューク・ケオムカさんを訪ねた。ここで、マサ齋藤とミスター・サトこと、高千穂のコンビがフロリダのリングを席捲していることを知った。齋藤とサト(高千穂)のタッグはハリケーンのごとく、フロリダ中を暴れ回っていた。

☆ケオムカ邸に齋藤さん、高千穂さんが……☆ 「おッ、トウスポさん、カメラのスーさんまでお揃いで、ここまで来ちゃったんですか?」「そう。二人とも単身赴任で、真面目にやっているかどうか、調べに来たんですよ」「エッ⁉ 真面目なもんですよ。ねえ、齋藤さん」と高千穂。この人はメラちゃんの愛称で、持てることで有名。「話半分に聞いておくとして、ツアーを取材したいんですよ」「オーケー、明日から、一緒に行きますか?」。てなことで、齋藤・高千穂組の車に同乗することになった。確か、オーランド方面への遠征だったと思う。遠征って言っても、アメプロじゃ、常套句のような日帰りである。2時間強のドライブで現地へ行き、15分程度の試合をやって、帰って来る。日本での地方巡業のように、旅の楽しみ、なんてものは、別次元である。また、暴れん坊ファイトで売っている二人だから、試合中も試合後もぼーっとはしていられない。観客は怒っているわけであるから、四方八方の注意は必要である。マジで緊張した。後日、テキサスではナイフを持ったメキシカンに待ち伏せされたこともあった。

☆ケオムカ邸、こぼれ話☆ ケオムカ邸はタンパの運河沿いにあって、プールあり、今にはポケットビリヤード台あり。ドラマに出て来そうな、おしゃれな住まいだった。プロレスのプロモーターはこんなにもリッチな生活が手に入るのか? ちょいと羨ましくなった。「時間があるんだから、フィッシングでも行って来たらいいよ」とケオムカさんがさりげなく。「hey, Pat! ボート出して」庭に出るとすぐに運河で、モーターボーが係留されていた。Patと呼ばれたのはケオムカさんの長男で、後に新日本プロレスの留学生を足掛かりに、AWA、WWFで活躍したPat Tanaka である。ちなみにケオムカさんの本名は、田中久雄さんである。「好きな時に釣りをして、プールで軽く泳いで。もう、毎日のんびりだね」とケオムカさん。トウスポ辞めて、ここで仕事させてもらおうか? と心が揺れた。待て待て、プロレスはできんだろう。Pat,高千穂さんとボートで釣りに出た。狙いはバスの一種だったが、エサのエビをただ食いされて、ボウズ。切り上げて、居間でPAtとエイトボールで対戦。1~7のlow ballと9~15のhigh ballに分かれて、自分の持ち分のボールをポケットに落としていき、最後に黒の8を落とした者が勝つ。若い頃、四つ玉や3クッションで鳴らしたこともあったので、自信ありで戦いを挑んだが、歯が立たなかった。しかし、居心地の良いアメリカの時間であった。

☆齋藤・高志穂は裏試合の達人☆ 「彼らはただ暴れて人気が出たわけじゃないんだよ」とケオムカさんは語りだした。リング上で暴れて地元の人気者をコケにすれば、観客の怒りはどんどんエスカレートしていく。当然、食ってかかる荒くれ者が出てくる。戦いを挑んでわけである。レスラーは「ok, common!!」と受けて立とうとポーズを作るが、公然とファイトするわけにはいかない。そこで、マネジャー役でもあった、タイガー服部さんが間に入って、”予約”を受け付ける。後日、ダウタウンにある、リングが設備されたジムに招待? する。そこで気のすむまで? ファンの挑戦を受けるのである。ここで二人は真価を発揮し続けた。骨の髄まで可愛がられたファンは、帰って誰かに言う、「いやあ、とんでもない奴らだったよ」と。こんな話がどんどん伝わって、会場に跳ね返る。二人のファイトはさらにヒートアップして、地元観客の心を逆なでしていく。「高千穂さん、次の裏の予定はいつですか?」「人に見せるような物じゃないと思うけどな……」と、あまり多くを語ろうとしなかった。「まあ、つっかかって来られて、逃げてばかりいられないからね」とは、齋藤さんの弁だった。ちょっと笑いが混じっていた。裏試合、ルー・テーズ、カール・ゴッチらの十八番だった。裏も強くなければ、プロレスでのし上がるのは難しい。

☆kiss my ass!!☆ 英語圏の映画で良く出てくるフレーズである。直訳なら、「わしの尻にキスせよ!」だが、馬鹿野郎にもなるし、ふざけてじゃねえ! にもなる。同じような使われ方に、suck my ass、suck my dick なんてのもある。いずれも学校では習わない、隠語ってやつだ。齋藤・高千穂組を追跡した夜、オーランド方面からの帰り道、隠語を地でいくシーンに遭遇した。齋藤さんの運転でタンパへ帰る道すがら、ハイウエイを淡々と走って、景色も何も、また、少々緊張も続き、お疲れモード、知らずにうとうと……すると、我々の車の隣に一台のステーションワゴンが急接近。ん⁉ と目をやると、若い女の子の尻が窓から二つ突き出ていた。何じゃ⁉ と目を丸くしていると、尻が引っ込んで、女の子が窓から顔を突き出して、中指を突き出して、叫んだ。「kiss my ass!!!」。何じゃこりゃ⁉ 女の子三人組の乗ったステーションワゴン。威嚇するわけでもなく、全員笑顔、時には破顔も披露しながら、付かず離れずで走っていた。高千穂さんもそっちに笑顔を向けながら、解説してくれた。「日本でもそうだけど、悪役が好きになる人もいるんですよ。彼女たちはずっと付いてくると思いますよ。どうですか、白石さん?」。おいおい、どうですかって、何だよ、どういう意味名だよ? こっちは妻帯者になったばかりで、言っている意味がよう分からんたい。高千穂さんは九州の出身だった。高千穂さんのどうですか? に心が揺れなかった、と言えばどうだったか、よく分からない。しかし、後日、ゴルフなどで、アメリカへの出張が日常的になった時、現地で様々な恋愛が生まれ、どこかの家庭が崩壊したという話もあった。自身としては、言葉の自信がイマイチで、誘いに乗れなかったのが、今となっては大正解だったのでは、と一杯飲みながら、キーボードを叩いている。地元の女の子三人のステーションワゴンを引き連れた格好で、齋藤さんの運転する車はタンパへ帰って来た。※レスラーはもてる→それはきれいな体が保証されているってこともあるそうだ。リング上でお互いの体を密着させて戦うプロレスは、お互いに”健康である”という保証が必要だ。万が一、何かに感染となれば命に関る。そこで厳しい健康チェックが行われている。かなり前、一時代を風靡したデイック・マードックというスターレスラーがいたが、テニス界の美人スター、クリス・エバートと親密な時期があったそうだ。何で? その答えはここにあると言われている・

☆深夜のドライブインで吸った物は?☆  翌日。齋藤・高千穂組はオフ。齋藤さんの「うちで簡単な物を作るから、夕飯でもどうですか?」の言葉に甘えて、カメラのスーさんと出かけた。リング外の写真も貴重である。何よりも単身赴任の真面目な私生活? を確かめておくことも仕事のうちだ。齋藤さんは料理もなかなか。いやいや、レスラーの人たちは、料理上手が多い。合宿、修行中、いわゆるちゃんこ番の経験をしている人はなおさら。相撲出身者は」これに該当する。齋藤さんはボロネージュ風パスタを作ってくれた。+サラダ、+ワイン。食前にバドワイザーんのロングネック。勧められる毎にクイクイとグラスを干しているうちに、良い気分になっていた。「白石さん、せっかくタンパまで来たんだから、ちょっとぐらい羽目はずしてもいいでしょ? ねえスーさん?」と高千穂さんが笑顔で言った。しかし、この答えは困った。yesともnoとも……。「じゃあ、さあ、ここは服部にお膳立てさせようか?」と齋藤さんは言うなり、電話でタイガー服部に、命令していた。「おい服部、いつものバーにお二人を案内しろ。たむろしているインディンの女の子に話つけろや」。何だか凄い話になって来た。じゃ、景気付けに変わったタバコを吸わせてあげましょう。ますます変なことになってきた。今さら、聖人君子を装って、「私は帰ります」ってわけにもいかない。勧められるままにタバコを吸った。美味いんだか、不味いんだか……首を傾げていると、「白石さん、何ともない?」と高千穂さん。齋藤さんと顔を見合わせて、肩をすくめていた。素人が手巻きしたようなタバコ……何かあるのか?

☆ナイトクラブで撃沈☆ 齋藤さん、高千穂さん、カメラのスーさん、そして私は、タイガー服部さんの運転する車でナイトとクラブへ行った。カントリーの生バンドが入っているバーである。道すがら、齋藤さんは「服部、分かってるな! うまくやれよ!」「先輩、そんなこと言ったって、相手があることだし」「うるせえ。うまくやりゃいいんだよ」。こちらはどういう反応をしたら良いのか。またまた複雑な気持ちになりかけていた。バーのボックスシートに座った。カントリーロックが演奏されていた。心地好い。酔ったら気持ちが楽になるだろう。再び、ワインをクイクイ飲んだ。「白石さん、またタバコ吸うかい?」と高千穂さん。バーカウンターに首を突っ込んで、「よー、smooseあるかい?」「why not!」顔見知りとおぼしきバーテンは、すぐさまカウンターの下から、例の素人が手巻きしたようなタバコを差し出した。それをみんなで回して吸った。「白石さん、何ともない?」と高千穂さん。別に……と言いかけたところで、身体の芯がドンと抜け落ちたような感覚に襲われた。何じゃこりゃ⁉ しゃべるのが億劫になった。しかし頭は、冴え渡ったかのように。カントリーバンドの演奏が立体的に生再現されているかのようだった。おーっ、リードギターはあそこでチョークしているのか。ギターのフレットも見えた。わしの頭はどうなってしまったのか? 齋藤さん、高千穂さん、服部さん、カメラのスーさん、全員がこっちを指さして笑っている。しかし、口が重い。ひたすらカントリーの聴いていたい。次々と浮かぶオタマジャクシが頭を占領しているかのようだった。そこへ服部さんが一人の女の子を連れて来た。黒髪、黒い瞳……インディアンの血が入っているようだった。「白石さん、踊ってほしいんだって」。ああそう、と言った。動くことが億劫だった。再びうながされた。「白石さん、タンパ最後の夜。羽目を外しなよ」と高千穂さん。ン!‽ 服部さんのお膳立て? そういうこと? 動かなきゃ、服部さんが齋藤さんに怒られる。意を決して、体を動かして、女の子とフロアに出た。体を密着させて踊った。リズムに乗っているのかどうか、はなはだ疑問だったが、会話も交わした。東京から来たとか、あれこれと重い口で、多分ぼそぼそと……そのうちに女の子が、「私が必要なの、必要じゃないの」と真顔で距離を詰めて来た。困った。「タンパできれいな人に会えてうれしい。今日は旅の疲れが出たのか酔っちまったようだ。後で必ず電話するから、次回必ず」とかなんとか言って、お別れした。酔ったのは酒のせいだけではない。何か他のもので経験のない酔いに出くわしていた。この時はその正体が分からなかった。後日、それは日本では違法の種目だった。アメリカでもほとんどの地域で合法ではない。緩いことは緩いのだが。私の吸った物が恐らくそうだろう、と思ってはいるのだが、確証があるわけではない。同じような物をコロンビアのボゴタで吸った経験があった。勧めてくれた人は「ポリ公から買うんだよ」と言っていた。……タンパの夜、ビール、ワイン、謎のタバコ、カントリーロックがごちゃ混ぜになった空間で撃沈した。これで良かった。翌朝の頭痛だけで済んだのである。



モハメド・アリに密着―New Orleans

アリは復活する‼

☆アリの復活劇を速報☆ ”The Greatest Ali”が敗れた。1978年2月15日、ニューヨークのヒルトン・スポーツパビリオンにおいて、モントリオール五輪ライトヘビー級金メダリストのキャリアを持つレオン・スピンクスに判定で敗れて、王座を失った。しかし、これで引退するはずはない。案の定、春に入ると再選のムードが高まり、間もなく、9月15日にニューオーリンズのスーパードームでWBA王座に挑戦することが発表された。㋅も半ば、アリの密着取材を重ねてきたこともあって、アリが何だか身近な存在に感じられ、今度は間違いなく勝つだろうと思った。ヘビー級のボクシングほど、ビジネスライクな世界はない。巨額なお金を動かすには、まだまだアリの存在が大きい。アリは復活する……確信めいたものがあった。そこで、上司の桜井康雄さんに相談した。「アリは復活すると思います。速報でやりましょう。ついでに、アメリカのプロレス・ツアーを取材して、連載をやってはどうでしょう?」「おつ、また仕掛けるか。面白そうだな。いっちょ、行ってみっか!」。これでニューオーリンズへ飛ぶことになった。カメラマンはこれまたTokyoでアリ戦にも深く関わった写真部筆頭デスクのK.Sだった。

☆ニューオーリンズはアリ一色☆ 今度の取材では、過去の経験があるので、あらかじめプレス申請を行なった。ニューオーリンズの街に入ると、なにやらすでに王座に復活したようなムードだった。アリの宿舎はニューオーリンズ・ヒルトンで、開場一周年記念とのことだった。何か出来すぎじゃないの、思わずつぶやいてしまった。……アリと単独で会いたい。これを実現させれば、仕事の9割はしてやったり。公開練習に行ってはチャンスをうかがった。アリはこの時すでにパーキンソン病jと戦っていたという話だ。「試合は無理だ」という主治医ドクター・パチェコの反対意見もあったという話も残っている。しかし、アリはエネルギッシュに口と体を動かし続けた。大イベントの主役で、宣伝マンも兼ねていたのだたら。さてさて、頼みはまたアンジェロ・ダンディー。すっかり顔なじみになっていたので、挨拶しがてら、取材の趣旨を説明した。アンジェロはすぐに身なりの良い、側近のような男を紹介してくれた。「おー、東京から‽ 懐かしいね。何とかするよ」。結局、この時もお願いモードがうまく行って、ニューオーリンズ・ヒルトンの客室最上階のアリの部屋へ案内してもらった。家族全員、お客、ラスベガスから来たというマジシャン……トランプのマジックhで盛り上がっていた。凄いショットが撮り放題だった。こちらは試合の事、これからの事、ちょっとだけ猪木の事などを訊いた。30分ほどで、他の客の相手を始めたので引き揚げた。カメラマンのSさんは嬉しそうだった。「これからAPのオフィスで現像してもらって、良いのを送る。でも間違いないよ」と。

☆頼むから1枚売ってくれ!☆ 写真の現像・焼き付け、そして日本への電送をお願いするAP通信社のオフィスはニューオーリンズの街の中心にあった。現地スタッフははりばるfar east からやって来た、アメリカは慣れていないので大変だろう、的な接し方だった。「頼みがあったら遠慮なく言ってくれ」と。10,分後である。現像にかかっていた写真スタッフが顔色を変えてダークルームから出て来た。現像したてのネガフイルムを握りしめて。Sさんが私を小声で呼んだ。「あのさあ、1カット30ドルでどうかって話なんだ」「えっ⁉ 30ドルって⁉」「だからね、アリの部屋での写真をさあ、是非ほしいってことなんだ」「さあ、それはねえ。相談されても何とも。やっぱり担当のSさんが判断されれば……」。少々、気まずい雰囲気となったが、APのカメラマンも職人。「会社の手前、無理」と告げると、さっと引いた。「あんたたち、great な仕事をしたな。アリのように」。ちょっとだけ複雑な思いが残った。その夜、フレンチクオーターに繰り出した。ジャズ、フオーク、様々なジャンルの音楽を肴に、ビール、バーボンを何倍も。時には酒の助けも必要だぜ……。

☆祭りの後……☆ 「アリ vs スピンクス」――The Great Rematch と銘打たれた試合は、スピンクスのパンチが軽いので、アリが間違っても倒れることはないだろう、何か安心感のようなものを感じていた。先入観念かもしれないが、試合は淡々と進んだ感じで15Rを終え、アリの判定勝ちとなった。予定通り、とは言えないのだろうが、自分の中では何となく……。もう一度、試合後のアリに会いたい。スーパードームからニューオーリンズ・ヒルトンに急いだ。ロビーはごった返していた。無理を承知で、エレベーターに乗り、アリの宿泊階で降りた。廊下には顔見知りの取り巻きがいた。「ちょっとでいいから入れてくれないか」「今日は無理だ」「そこを何とか」……押し問答していると、ニューオーリンズ警察の制服に取り囲まれ、非常口へ強制移動させられてしまった。これ以上は無理……ロビーに降りると、日本人の男に声を掛けられた。「アリはどうしてますかね?」。名刺をもらった。作家の沢木耕太郎、とあった。少しだけ立ち話をして、別れた。祭りの後の空虚感……フレンチクオーターへ行った。相変わらずのお祭り騒ぎだった。アリの王座復活とは、あまり関係なさそうだった。

モハメド・アリに密着―Tokyo

アリを徹底張り込み

☆㊙作戦は敢行された☆ 猪木戦のために、私には「ダンスをしに行く」と、アリは軍団を率いて日本にやって来た。1976年6月16日、羽田空港。一説には2千人以上のフアンが押し寄せた、と。大変な人だった。一行が税関を通過するのに結構な時間がかかった。飛び切りのスーパースターである。普通なら特別扱いで……。一部マスコミの間で、妙な話が流れ出した。拳銃を持ち込んだらしい。それで時間がかかっていたいるという話だ。どうやら、これは事実だったらしい。アリの特別警護官として、シカゴ警察の現役が二名入っていて、彼らが身に着けて。日本の税関がそれを当然咎めて、ひと悶着。恐らく彼らは”許可証”を持っていて、正当性を主張したものと思われる。後日、事前会議でもめた時, 「拳銃をちらつかせた」と何人かの証言にも出てくるので、恐らく持ち込まれた、と見るべきだろう。……一行は出てくると、迎えの車、バスに分乗して、宿舎の新宿京王プラザホテルへ向かった。こちらはこれを見届けると、社の車で高速を走らせた。ホテルに先着。警備で玄関を制限したおかげで、さしたる混雑もなかった。アリ一行は44階を貸し切り。我々は43階のセミスイートを借り、ワーキングルームを設置した。もちろん、私が常駐することになった。

☆アリの付き人を拉致⁉☆ アリ一行の中にアジア系と見られる小柄の男がいた。五月のミュンヘン取材の時にもいた。この男はシンガポール・ヒルトンの客室マネジャーだった。アリに気に入られて、ツアーに帯同していた。私はこの人物に的を絞った。密着取材の内部通報者にする作戦だった。これには仕掛けがいる。上司の桜井康雄さんと策を練った。「ヨシ、日本のカメラをやるか」。写真部を通じて、Nikonのプロ仕様を調達した。買えば40万強。トウスポも素早い決断をした、と思ったが、アリ滞在中に港区港南のNikon本社を見学訪問した、させた? のだから、舞台裏でいろいろとあった、と思われる。写真部の筆頭デスクのSさんの手配だったのだろう。私はアリの付き人、A氏に連絡を取って、主旨を話し、ランチの約束をした。舞台は銀座一丁目にある、すき焼きの老舗、吉澤。ここですき焼きを食べながら、A氏と打ち合わせ。「カメラをプレゼントする。取材に協力してほしい」「OK, 何をする?」「そのカメラで室内のアリの写真を撮ってくれないか? もう一つは、毎晩夕食後に我々の43階の部屋に電話を入れて、夕食のメニューと来客……などを教えてほしいんだ。それを新聞に載せるから」「OK、分かった。できるだけ頑張るよ」。商談成立。アリの滞在中、この作戦は忠実に実行され、紙面を飾ることができた。ある意味、ばくちでもあった。もしA氏が食わせもんだったら……。誠実な人物で助かった。アリ軍団にはいろいろな人物がいた。シカゴ警察のボデイーガードなぞ、エレベーターで会う度に、「よう、どこかで遊ぼうぜ。俺にもバイトさせねえか?」など、酒くさい息を吐きながら、ささやかれたものだった。……試合は仕方なく、期待はずれの? 引き分けに終わったが、新聞を売れたのである。これもしてやったり。桜井さんの判断のおかげも大きい。


モハメド・アリに独占直撃‼

ミュンヘンへ飛べ!

☆無謀‼ アリをつかまえろ☆ 1976年4月中旬、例によって、上司の桜井康雄デスクから、「ちょっと来い」のサインが飛んで来た。桜井さんは新日本プロレスのマスコミ側の顧問的存在だったから、この年の6月26日、「猪木vsアリ戦」の煽り仕掛けをいくつも進行させようとしていた。この前にアリは西ドイツのミュンヘンにおいて、5月24日、英国のリチャード・ダンとのヘビー級王座防衛線の予定になっていた。「アリをミュンヘンでつかまえてみっか?」「直撃インタビューですか?」「おつ!  話が早くていいな。どうだ、やれそうかな?」。隣で話を聴いていた、ボクシング担当の先輩記者Hさんが、割って入ってきた。ボクシングの取材は俺でなければ、英語が絡めば、俺でなければ……という”人柄”だった。「ようよう、桜井、まだ小僧だろ、行ったって相手にされるわけがないよ」。今度はいろいろなスキをついて上に登っちゃった感のあるWなる人物が来た。「そうだよ。高い経費使ってできませんでした、じゃ困るよ。え~」。お次は全日本プロレスの中継でお馴染みの山田隆デスク。「白石なら、ガッツで何とかやってくるでしょう。やらせましょう! 放送の12チャンネル(テレビ東京)のスタッフにも、それとなく流しておきましょう」。……ということで、5月10日頃だったか、ミュンヘンへと向かった。カメラマンは田中章氏。もう一人、助っ人で、と文化部の記者で先輩のSさん。取材の助っ人、身体が空いたらカンヌ映画祭の取材に行け、という結構乱暴な作戦指令だった。

☆大物アリをつかまえられるのか?☆ 我ながら、少々心配だった。ミュンヘンの試合会場(五輪の自転車会場となったベロドーム)、プレスセンター、ぐらいしか予備情報はなかった。例によって、資料は隠された可能性があった。これは後日判明した。飛行機の中であれこれ考えていたが結論が出るはずもなく、南回りのパンアメリカンはフランクフルトに着き、乗り換えてミュンヘンへ入った。ホテルの予約もなし。何だか、こんなことに慣れてきていた。飛行場からミュンヘン駅までタクシーで行った。そこの観光案内所でホテルを探してもらった。なるべく街の中心。アリの試合があるから、どうかなと思っていたが、さほどの事はなく、すぐに朝食付きで一人3千円ほどの宿を紹介してもらった。なんだ楽勝だね! 文化部のSさんはあっけにとられていたが、ここまではうまくいった。ほっとした。全英オープンゴルフの宿探しの地獄に比べたら、大楽勝だった。

☆アリの追跡開始☆ ミュンヘン到着翌日から動いた。英字新聞を買って、アリ関係を拾い読みして、基本情報を集めた。アリ一行はどうやら市内で一番高級なウォルドフ・ホテルに宿泊しているようだった。ウォルドフと言えば、全英オープンの取材時、ロンドンに前泊のための予約したホテルに泊まれず、苦闘の末、辿り着いたことのある因縁? のホテル。これも何かの縁かもしれない。まずはプレスセンターへ出向いて、名刺を出して仁義を切った。「申請がまだ届いていないけど、仮のパスを出しましょう」と事務局は親切だった。世界的なイベントである。取材申請は必要である。しかし、そういう物を東京で目にしていないので、ピンときていなかった。それは後日判明するのだが、先輩の机の引き出しにしまわれていたのである。

☆アリの取り巻きを狙え☆ アリの宿泊していると思われるウォルドフ・ホテルは幸い、こちらの宿から歩いて通える距離にあった。いつでも張り込める。プレスセンターで仮の取材証をもらった我々は、スパーリングの取材に行った。そこは市内の小さな劇場だったように記憶する。観客席があって、舞台にリングが設置されていた。そう、アリのスパーリングは一般には有料だったのだ。例によってダンスのようなステップでリングを動き回った。時々、「flaot  like a butterfly, sting like a bee(蝶のように舞って、蜂のように刺す)」の名文句で知られる、”カエル頭”のバンディーニ・ブラウンが、「タイム‼」と甲高い声をあげていた。その横では、シュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーが黙々と無駄のない動きで、アリのケアをしていた。スパーリングの最後はアリのワンマンショーだ。「リチャード・ダン? 何者だ? 俺のビューティフルな顔には指一本触れさせない。3ラウンドでも立っていられたら、褒めてやるさ」。有料の観客から拍手が起こると、アリはさらにテンションを上げた。節々の合間には必ずブラウンの合いの手が入っていた。一段落したところを見計らって、私はアンジェロ・ダンディーに近ずいた。「日本の新聞社です。六月の猪木戦にも関係している新聞社です」。ダンディーはにっこり笑って握手を求め、「よろしく頼むね」と。私は「10分程度で良いので、アリにインタビューさせてもらえませんか?」と頼み込んだ。「良いね。でもそれは俺の仕事じゃない。待ってて」と言って、お付きの男を連れてきた。バリっとしたスーツに銀縁の眼鏡をかけていた。

☆アリに会わせて‼☆ アンジェロが紹介してくれた人物は、押し出しもなかなかでただの取り巻きではないことは確かのようだった。今から、色々な資料に照らし合わせて見れば、黒人弁護士のチャンシー・エスタリッジだったか。ともかく、懇願するように、「アリに10分でもいいから会わせてくれないか」と。「東京から来た? 猪木戦……何とかするから、夕方にホテルへ来てくれ」。「Thank you so much, see you at Woldof 」。やったぞ! 一度こちらの安宿に戻り、軽食を取って、夕刻、カメラマンとWoldof Hotelへ出かけた。玄関で待った。アリの取り巻きと思われる人たちは何人も出入りしていく。しかし、昼間の約束の相手は現れない。仕方なく、というか、早く大物を釣りたい一心で館内電話にチャレンジした。フロントで、「アリの部屋は何番ですか?」などと馬鹿な質問もした。当たり前だ。教えるはずがないだろ、と頭の中で、誰かの声が聞こえたようだった。先輩の顔も浮かびかけた。「アリだぞ、若造じゃ無理に決まってるさ」。ヨシ! 館内電話をかけた。「こちらは東京から来た記者で、アリとインタビューの約束で来た。つないでもらえないか?」。と言ったって、オペレーターがつなぐはずもない。またまた、馬鹿な事をやったものだった。しばらく待った。お目当ての人物は現れなかった。

☆頼むからアリに会わせて☆ 翌日の公式練習でお目当ての人物をつかまえた。「昨日ホテルに行って待ってたんですけど」「えっ、じゃ時間が間違ってたんじゃないか?」「今日の夕方是非お願いします」。腕を握った、「Yes」と言うまで話すつもりはなかった。黒人の紳士は「うーん」と言いながらも、「じゃ、ホテルの玄関に夕方7時30分に会おう。時間を間違えるなよ」。やったぞ! カメラマンと私は約束の1時間前、6時30分にはWoldof Hotelnoの玄関に立っていた。今日こそは。冗談を言う余裕は全くなく、ただ緊張して、汗ばんでいた。待つこと1時間、紳士は現れた。「おー、今日はいたな」「いや昨日もいたんだけど」と言いかけたが、呑み込んで、「いや、感謝します10分程度でOKですので」「アリが終わり、と言ったら、そこまでだ」。紳士の案内で非常口のようなドアから、スタッフ用のエレベーターに乗り、3階で降りた。そして、これまた非常口のようなドアを抜けてアリの部屋に案内された。おー、入ったぞ。と思った瞬間、左手のソファーでくつろぐアリの姿が飛び込んできた。真っ白なガウンを着てくつろいでいた。カメラマンの田中は早くもシャッターを切り始めていた。東京での猪木戦のこともあって来たことをまず告げた。「そうか。東京は二回目だから、楽しみだ。猪木のビッグマウスもきにいらないしな」アリはそう言ってウインクして見せた。「今回の防衛戦はどうでしょう?」「コンディション格別良いというわけじゃないが、チャンピオンで東京へ行かなきゃだめだろう? I’ m the greatest!」。「プロレスの猪木とどう戦うのでしょう?」「I’ m the greatest!! 東京へはダンスをしに行くんだ。いいか猪木!」アリはそう言って立ち上がると、シャドウボクシングを始めた。この後少々話を聴いたところで30分。お付きのような男が現れて、客が来ている、と。遂にグレーテスト・アリをつかまえて直撃インタビュー。その夜、原稿を仕上げて、翌朝、ミュンヘンの空港から、飛行機便で撮影フイルムと共に送った。二日後、トウスポは大々的に、”モハメド・アリに直撃インタビュー”を報じた。当然他紙を圧倒したわけである。ほっとしたどころではない。もう、どこでどう遊んでも許されると思った。田中カメラマン、助っ人の文化部の先輩、打ち上げはかのヒットラーが大演説をぶった、ばか広いホーフブロイハウスだった。戦後は人気No1のビアホール。本場の生ビールは格別だった。

☆アリ世界戦での事件☆ アリの直撃インタビューに成功。後は「アリvs リチャード・ダン戦」そのものの取材。気分的にはおまけのようなものだった。本番の二日前、記者証の配布が行われた。我々も指定された場所に行って列に並んだ。番が来て、名刺を出して「東京から……」と、受付の女性に。「ちょっと待って」とカードを探しにかかったが、見つからない。「申し込みされてますよね?」「えっ⁉」「こちらから、あらかじめフォームが行っていると思うのですが?」「そんなものは無かった……」。押し問答になって埒が明かず。脇に外れて待つことになった。別のプレス担当の女性が来て、同じような話になった。また押し問答……女性が泣きそうになりながら、声を振り絞って、「Tokyo Sports Press ですね?」と再確認して席を外した。2~3分すると、件の女性が体格の良い中年男性を連れて戻って来た。「Tokyo Sports Pressだって? そうか、こっちで話そう」と。この人物は西ドイツのプロレス界の大物、グスタフ・カイザーだった。「アリvs リチャード・ダン戦」のどこかで、仕切りに関わっていたようだった。「事情は聴いた。記者1名、カメラマン1名で良いのか?」と言って記者証発行ブースへ行って、手配してくれた。「good luck!」。ありがたい、助かった。プロレスのトウスポにいながら、カイザーと会ったのは、この一度きりだった。……1976年5月24日「アリ vs リチャード・ダン」、試合開始は午前3時だった。アメリカのテレビが莫大な放映料を払っている。現地の観客はそっちのけ。ニューヨークの午後八時前後のゴールデンタイムに合わせているのだ。2020年の東京五輪。JOCや一部政治家が税金をばらまいて、拝むように開催にこぎつけて、有頂天になっている。しかしこれとて、アメリカのメジャースポーツのシーズン谷間のスケジュール。東京の真夏。戦う選手も観るお客も、ある意味命がけ。テレビは盛んにお祭りムードを盛り上げる……考えるほどに妙な話だ。話は横道に逸れた。「アリ vs リチャード・ダン」、午前3時のゴング。何だかぼーっとしながら観ていたような気がする。ダンのパンチは軽い。アリは適当にかわして余裕しゃくしゃく。案の定5回でTKO勝ちとなった。会場の外の出ると、夜が明けかかっていた。それほどの余韻も残らず、地下鉄で安宿に戻った。

☆カンヌの特ダネ☆ 助っ人で来ていた文化部の先輩Sさんも奮戦した。ミュンヘンのアリ関係では、インタビューが成功したところで、二人でカバーする必要もなくなった、と感じた。そこで、当初、おまけのおまけのような取材課題だった、カンヌ映画祭に行くことを勧めた。ミュンヘンから飛べばニースまでは2時間弱。カンヌに行けば、顔見知りの映画関係者がいるという。根城の安宿から、日本人映画関係者が止まっていると思われるホテルに電話を入れた。運良くつかまった。現地でのヘルプを頼むと、二つ返事で引き受けてくれた。翌日、Sさんはミュンヘンの空港から、ニース入り。ちょっと心配もしたが、見事、大物俳優のグレゴリー・ペッグを釣り上げた。これも後日、大々的に紙面に掲載した。少々、鼻高々で、酔うと自慢話になっていたが、これで良かったのだ。

鬼の篠竹が呼んでいる?!

つなぎは謎の女性

☆新橋五丁目の出会い☆ 築地の本社で仕事を終えた後は、あっちこっちで飲んでは、新橋五丁目のバーになだれ込むことが多かった。当時、はラジオ関東(ラジオ日本)、NET(テレビ朝日)のデスククラス、また某製薬会社の管理職、さらには防衛庁のお偉いさんなどが集まる、独特な雰囲気の店だった。普通のサラリーマンはまずいなかった。会員制じゃないが、一見さんには敷居が高かった。店の名はR……。1988年、ある夜、ソウル五輪が終わっていたから、10月の中旬頃だったか。Rのカウンターで、梅干しを入れた濃いめの水割りを飲んでいると、顔見知りの女性が隣に座って、「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」と。「ダメだよ、誘惑は」「そんなんじゃないって。でもうれしい」。この人、Pさんとしておく。仲間には金井克子さんがいたり、政財界に評判の占い師がいたり……正体不明の人だった。「で、話ってのは?」「あのねえ、アメラグっていうの? あれで有名な怖い人がいるでしょ?」「えっ⁉ まさか日大の篠竹さん?」「そう、そのまさかなんだけど、貴方に会いたいって言ってるんだけど、紹介するから、一緒にどお?」「そうかあ、なんで会いたいのか、分からないけど、行きましょうか」。それから2、3日後、Pさんの車で下高井戸の日本大学アメリカンフットボール部のグラウンドへ行った。夕刻、グラウンドはライティングされてはいるものの、薄暗く、少々異様な雰囲気だった。グラウンドの横にコーチングルーム、監督小屋があった。篠竹幹夫氏はどっかと座っていた。小屋には選手の親や、タニマチからのものと思われる差し入れが並べられていた。「監督、連れてきたわよ、お望みの白石さん」「おーよく来たな!」「初めまして。何かご用命、とか?」「おー、しばらく練習見てろや」「はい、分かりましょた」。監督の横に座ったり、時々、サイドラインに立ったりしながら練習を見た。すさまじいものだった。ワンプレーが終わる。選手たちはちょっとだけ指示を待つ時間を作った。何もなければ次のプレーに移った。とちった選手は自発的にその場を離れてグラウンドを走った。プレー自体の展開が悪いと、監督の招集がかかった。「お前ら、次の相手をイメージしているのか? もう一回やれ!」こんな感じの練習風景だった。殺気が漂っていた。「まあいいやじゃ怪我するからな」。全体練習はいつも午後九時過ぎまで続き、20分くらいのアフターで終わった。練習の最後には鬼の言葉があった。「負けるわけにはいかんぞ。この練習は勝つためにやっているんだ! 分かってるな!」「ハイ!」。

☆鬼の篠竹からの極秘依頼は?☆ 「さあ一緒に行こう」篠竹監督は、愛車のシーマに私を誘った。マネジャーがかばんを持って付いてきた。監督が運転。私が助手席。かばんを持ったマネジャーが後部座席。「これから合宿所へ行って話そう」。カセットテープから”百万本のバラ”が流れ出した。「いいだろ、この歌」監督はロシア語で口ずさみ始めた。上手いという物差しではなく、凄みと味があった。鶴田浩二のような歌唱である。中野区南台の合宿所に行く道中で、深夜スーパーに寄った。パン、お菓子……大量の買い物をした。「学生に差し入れするんだよ」と。監督とは初対面だったが、鬼の素顔がちょっと見えた気がした。根は優しい……。合宿所に着くと、これまた見慣れぬ光景、幹部選手が玄関への誘導路を作るように整列していた。「お疲れ様です」「おー」。こんな感じで玄関に入り、監督室へ通された。監督室には噂に聞いたことのある虎に革の敷物が敷いてあった。「いろいろ噂を聞いているだろう。日本刀抜いて脅してるとか」。日本刀も本当にあった。それも結構な数の物が監督室の傍らに立てかけられていた。「警察から頼まれて預かっている物もある。そんなに良いものはないよ」。「監督、私に用事というのは?」「まあ、軽く飯を食おう」。マネジャーが来た。「監督、用意ができました」。食堂に降りると、テーブルには刺身、煮物、お吸い物、ご飯……きれいに夜食が配膳されていた。

☆「何か良い手はないかい?」☆ 食事をしながら、監督はポツリ、ポツリと語りだした。それはまだバブルっぽい経済状況にあった当時、一流企業は人材確保の手段として、運動部を持っていた。バスケット、バレー……しかし、すでに実業団で定着しているジャンルには、新たな企業の参入は難しい。そこで見た目にも華やかで、頭脳も必要だよ、というイメージのアメリカンフットボールに注目が集まり出していた。実業団リーグの露出も増えてきていた。もともと、メンズファッションのVANなどもチームを持っていたこともある。ファッションとも結び付きやすい。すでにレナウンにはチームがあった。負けじとオンワードも作った。ヘッドコーチを関西の草分け的人物をスカウトした。これに、反発の声が上がった。関東の有力大学であった、明治、立教……関西に対するライバル心もあって当然、もう一つは、ずっと手弁当でやってきたのに、お金が動くとなったら、関西の人間がその恩恵を受けるのか? こんな図式だった、と思う。だが、今、いろいろと思い返してみると、防具販売もこの問題の根っこにはあったのかもしれない。関西よりのコーチは関東の大学でプレーした経験を持っていたが、その後は関西でフットボール用具専門店を主催、全国展開していた。関東にはやはりYという専門店があり、この辺で摩擦が起きようとしていた、とも考えられる。「オンワードには選手は送らん」関東の大学の指導者はこんな感じで結束したかのようだった。せっかく、人材確保と企業宣伝の狙いがあってチームを作ったのに、これでは逆効果。オンワードは人を介して、篠竹監督へ”陳情”をかけていたのであった。篠竹監督が影響力を発揮してくれれば、窮地を脱することができるかもしれない。オンワードはそこにかけた。篠竹監督のフットボール界での存在感は大きい。「どうだ白石、遣りてらしいじゃねえか。何か良い手はないか?」

☆名案、迷案、明暗☆ 「なるほど、そういう事でしたか?」と私は言って、ちょっと考えてみた。これもアマチュアでやっているから、お金が動きそうになると問題が起きる。そこで、「監督、日本のフットボールも、このまま企業のバックアップで活動し続けられるとは思いません。やはり、セミプロ、その後はプロでやっていけるように努力していくべきだと思います」「だから、オンワードへの風当たりをどうしたら解決できるんだい」「トウスポの紙面を1ページ買えますか? 買えるなら、日本のフットボールの草分けでもある監督の緊急提言として、今のような話を特集するんです。それはオンワードへの風当たりを和らげることになるでしょう。指導者は手弁等で良いはずはないし、学生の将来にもつながることでしょう。記事下の広告がオンワードじゃ見え見え。ここは他社の広告にしてもらって」「良いな! で、トウスポの1ページはいくらになりそうだ?」「定価で百万ですね」「よし、分かった」。人生で初めて、新聞の紙面を売ろうとしていた。

☆山が動いた☆ オンワードも担当幹部が下高井戸を訪れ、監督と打ち合わせの結果、正式にこの作戦に乗った。新聞の1ページは15段で構成されており、下5段が広告、上の10段が編集ページとなる。篠竹監督とのインタビュー形式の記事を中心に、実業団フットボールの現状分析……。レイアウトは、また奈良井澄さんという先輩にお世話になった。ページを作り上げて、試し刷りをして、篠竹監督、オンワードへ見せた。オンワードは副社長のGさんが登場。さっと見て、「goodです」と。篠竹監督も「やったなオイ。学校なら優だな」と笑みをもらした。この二日後、新聞は発行された。関東の学生フットボール界では、ちょっとした騒動になっていた。新聞のコピーがあちらこちらで、飛び交っていたという。築地本社に日大のマネジャーから電話がかかってきた「白石さん、お時間ありますか? 監督がお呼びです」。下高井戸の監督小屋に行った。「お疲れ様です。笑っちゃうぜ。俺のところにもこのコピーを持ってきたやつがいてさ、監督、こんな記事が出ましたよ。何者ですか。この白石ってのは。だとさ」。してやったり。この記事で随分と状況が変わった。オンワードからも手厚い礼を言われた。※ちなみに、私に電話をかけてきたマネジャーは、今を時めくツタヤ創業者の息子だったと思う。……これがトウスポでの仕掛け仕事の最後だった。この年の晩秋、トウスポは越中島のスポーツニッポン社のビルへ引っ越した。私は「人工芝じゃ野球をやるつもりはない」と言って、引っ越しを拒否。つまり、退社した。縁は不思議なもので、篠竹監督からみの仕掛け仕事のきっかけとなった、関西からのコーチは、その後、オンワードとの関係を円満に清算した。そしてベースボールマガジン社の副社長と大学の同窓生で親しかったこともあって、私を探して編集長に押し、アメリカンフットボールマガジンの創刊に奔走した。どこで誰がつながるのか、世の中、誰が脚本を書いているのやら。篠竹監督はかなり前に他界された。お世話になりました。合掌

☆監督小屋余聞☆ 篠竹監督の所ではいろいろな人にあった。正確には紹介してもらったわけである。選手の親の中には素人さんでない人も時々いた。マネジャーとなるとそのご子息が……結構な確率でそんな感じだったような気がする。また、監督小屋の入り口、ちょっと脇に直立不動の若者がいることもあった。聞くと。「親からさあ、行儀見習いで頼むと」いうから、引き受けているんだよ」と。監督がたばこを咥えればすぐライター、のどが渇いた、と言えばお茶……張り付き型のマネジャーであった。いずれも見た目に素人とは思えない人たちだった。私はこの中の一人に、何度かベンツにて、送り届けられたことがあった。ある日の夕刻、監督小屋に見慣れぬ初老の人物がいた。肩幅が広く、目が座っていた。素人ではないことは歴然としていた。軽く会釈をした。相手も、「こんばんは」と。すると監督「白石、この人知ってるか?」「いや、申し訳ありません」。「知るわけないだろ、篠さん」と初老の紳士が割り込んだ。「白石よう、この人は力道山を素手でぶっ飛ばした男だぞ!」「えっ⁉ じゃあ、戦後の新宿を牛耳っていた加納さん?」「そうだよ、この人が加納貢さんだよ」。加納貢、銀座の安藤昇とともに、ヤクザ以上の実力者と言われた愚連隊の頭だ。名刺を渡して、「よろしくお願い致します」「もう、何にもやってないけどね。新宿で何か困ったら電話してくれ」と名刺をもらった。ピンとこなかったが、戦後の裏社会の伝説の人物。……今、思い起こせば、あっちこっちで凄い出会いを経験させてもらった、思っている。当方、ゴマすりたちの暗躍でちょっとばかり干されたおかげだった、てことかな。

A.猪木 vs ガッツ石松 「セメント対談」

編集局には内緒だ!?

☆スーパー対談への㊙作戦☆ 猪木と石松……二人の対談は、あのマイク・タイソンの全盛期、1988年(昭和63年)の2月下旬、東京ドームの開城記念の一環として行われたボクシング世界ヘビー級選手権のスペシャル企画として仕掛けたものだった。試合の煽りもあってか、タイソンは3月21日の本番(WBA, WBC、IBF統一世界ヘビー級戦。挑戦者ト二―・タップス)に対して、一ヵ月以上も早い2月17日に来日した。要するに、勝敗は明らかなので、タイソンに動いてしゃべってもらって、動員に協力してもらおうという作戦だったのではないか。各社とも苦労していた。タイソンの人間離れしたような強さがテレビでさんざん流されていたから、普通の世界戦のように、真っ当に取材しても、スリリングな記事は難しかった。このころ私は経営の体制が替わって、編集の上も替わり、現場を知らないような人材が座ったため、大変居心地の悪い椅子に座らされていた。純粋な取材編集でなく、広告部と連動して紙面を作る、という仕事だ。新聞、週刊誌をめくってみると分かるが、明らかにヨイショと明らかでないヨイショがある。明らかでないものは純粋な取材記事に引けを取らない、時には凌駕する時もある。私はこれを狙っていた。やれ温泉だの、イモ・ゴルフ場のヨイショは簡単な仕事だが、”なんでこんな事を”とストレスさえ感じていた。そこへ、タイソンの来日である。「スポンサーがどっきりするような企画お願いできませんか?」とリクエストが来た。さてさて、このテーマなら、紙面的にも派手になる人を集めて対談が良いだろう。誰にする? アウトローのイメージの タイソン、となると、ボクシングと塀の向こう側の経験を併せ持つ、小説家の安部譲二、そして喧嘩の仲裁で警察沙汰も経験している、元Jライト級王者のガッツ石松。こりゃ、面白くなるはずだ。ガッツ石松の方は、先輩の永島勝司さんがフレンドの仲だったので、「何とかするよ」と言ってくれた。問題は安部譲二。知り合いに、「安部はさあ」なんて時々」言っていた人がいたので、探りを入れてもらった。しかし、仲介者もいたようで、「20万出せる?」なんてことのなって、断念した。金に糸目を付けないなら、誰だってできることだ。This is not of my business!! さて、ではトウスポでもあることだから、異種格闘技のマッチメークでも異彩を放つ猪木では? 石松は異種格闘技のリングでレフェリーの経験もある。こちらも猪木とフレンド付き合いみたいになっていた永島さんに助けてもらうことにした。「いくら出せるんだ? プロレスの煽りじゃないから、ギャラいるぞ」。当たり前である。石松だって同様だ。いろいろと算段した結果、一人五万円。「安いな。まいいか」で話を付けてもらった。ありがたいことだ。新宿の京王プラザホテルにご足労願って、中華レストランで対談。日時も決めて、あとは敢行するのみ。しかし、苦労はまだあった。正式に写真記者の同行を依頼すると、編集局に企画がもれることになる。これまでに何度か、ご注進を得意とする人間に邪魔されたことがあった。「……こんな事やってますよ」てな感じで、とても相手にしたくなかった。そこで、㊙作戦が……。

☆スーパーDHの起用☆ 猪木―石松の対談は、原稿はある程度融通が効くとしても、写真を撮りっぱぐれるわけにはいかない。写真部以外で誰かいるか? 一人いた。編集局の人間だが、少しばかり自由に動ける若者がいた。変人視されている面もあったが、私とは少々馬が合った。Y君としておこう。ここの上司も事情を呑み込んで、協力してくれた。変な話だが、これがある時代のトウスポの内情であった。 Y君 はオートマの付いたcannonを持っていて、そこそこ写真も撮って紙面で使っていた。 Y君 も二つ返事で「面白そうですね」と。1988年2月下旬某日夕刻、私とY君は二人だけで、新宿の京王プラザホテルに行った。中華レストランの個室を午後七時過ぎからとってあった。早めに着いて二人の到着を待った。なかなか現れない。冷や冷やしながら待った。石松もそこそこ売れていたし、猪木は巡業帰りだったか。先着は7時半頃に石松だったか。「遅れてすいません、猪木さんは?」「少々遅れるという連絡で」「いいよ待ちましょうよ」。石松のマネジャーは渋い顔だった。何しろギャラが安い。それにこちらの先輩の永島さんが石松とフレンド付き合いで、予定にない行動を苦々しく思っていた気配もあった。「すいませんが、今のうちにタイソンに関するお話を先に聞かせてください」「そうだね。タイソンの動物的な闘争心、動きは普通の人は恐怖心を憶えるだろうね。少しでもその素振りを見せたら、勝負は終わりだね」……こんな感じで石松は自分の体験談も交えて語ってくれた。石松のボクシングもある意味で、喧嘩ファイトの要素も入っていた。ビッグマッチ前のトレーニングキャンプ。記者たちも招待されてキャンプを取材をした。これも客引きのプロモーションだから、あご足だ。夕食も、その後の一杯も主催者持ち。減量を背負っている石松も飲み会に参加すうことが多かった、という。石松は飲んでは吐き、飲んでは吐き……で宴会の席に付き合い続けた、との話だ。サービス精神旺盛。これもプロだ。「早く倒せば大丈夫」こんな話もしていた。トレーナーのエディ・タウンゼントさんは「15キロも落とすのよ。腕一本だからね」と。楽な減量ではなかったはずだが、石松はおくびにも出さなかった。今まで表に出なかった話もあって、あっという間に一時間ほど経った。やっと猪木が到着した。DHカメラマンh早速二人の対談ツーショット写真を撮りまくった。これで仕事のかなりの部分はOKであった。対談を30分ほど真剣にやった。95パーセントは完了した。新聞1ページは楽勝であった。夜も10時半を回って、そろそろお開き。二人に謝礼を渡してお礼を言いかけた時、「何、これで終わるのか? Y! お前は写真撮りに付き合えよ、この野郎!」。Y君は猪木にビンタを 食らってしまった。これはこれで猪木の親しみを込めた挨拶みたいなものなので、「お付き合いさせて頂きます」とトウスポ側は参加表明。「ガッツは行かんかい」と猪木。「じゃ行きましょうよ」と。マネジャーはとんでもなく渋い顔。「明日は朝からテレビですよ。顔が腫れると……」と。気分が乗っている石松は一括「うるせえ、てめえは帰れ!」。乱暴な話だが、こんな感じで全員、タクシーに乗って、六本木の酒呑童子という深夜クラブへ行った。「トウスポさん、心配すんな。ここはおれの場所だから」と猪木。ドンペリを何本かお代わり。一本2万円位かな、と思いながら、勧められるままに飲んだ。Y君は時々、猪木から思い出したかのようにビンタを浴ていた。「Y! ちゃんと撮ってんのか、シャッターが聞こえなかったぞ!」。石松も調子を合わせて、「しっかりやれよ!」と。マネジャーは一段と渋い顔で「明日の朝テレビが」。石松は「うるせえ、てめえ帰れ! 俺はずっと飲んでっから」と。仕方がない。怒られるのを承知で、中締めに出た。「申し訳ありません。充分に面白いお話を聞かせて頂きました。また、別の機会を設けますので、今日のところは一応お開きということで」と切り出した。猪木は怒ると思っていたが意外に、「おうそうか。石はどうだい?」。石松も「そうですね。猪木さん、またお願いします」となったので、なんとか切り上がった。時計の針は午前2時を指していた。

☆他紙を圧倒した「猪木vs石松」☆ 対談終了後、自宅のある練馬へ戻って駅前の居酒屋でY君とささやかな打ち上げ。「やったね。良かったね」「面白かったですね。ビンタ食らいましたが」。酒は実に美味かった。ドンペリより、居酒屋の熱燗の方が数倍美味く感じられた。ほっとした時、すでに空はうっすらと白みかけていた。翌日、築地本社に出勤して、新聞1ページを埋める原稿を書いた。Y君の写真もグッドだった。写真部ではちょっとした騒動になったようだった。「誰が撮ったんだ?」と。私の範疇でDHのY君が撮ったことを知ると、デスクは顔を潰されたようなことを口走っていたとか。「またあいつが」。このレイアウトはやはり、スポニチからスカウトの声がかかるほどの腕を持ちながら、経営者の批判をしたとチクられ、純粋な編集局から締め出された? 奈良井澄さん(すでに他界。合掌)が担当してくれた。素晴らしい紙面だった。他紙を完全に圧倒していた。編集局の何人かは苦虫を噛みしめているという話だった。私の後、何年も経ってから、入社から一緒にゴルフの仕事をしていたことのある小川朗さんが、社歴の後半、同じような仕事をしていた。やはり、スポンサーにおもねるだけではなく、納得させて広告を出してもらうというコンセプトである。物乞いじゃないからな。私は在籍中、そうした変なプライドみたいなものがあった。小川さんは”マムシ”とあだ名され、事件物にもかなりの力を発揮していた。定年前の早期離職。現在、ゴルフジャーナリスト協会の会長、自ら清流舎という編集プロダクションをベースに新聞、雑誌に多岐の活躍をされている。完全卒業前の転身組は、やはり優秀。自信も無ければ、なかなか途中下車はできない。トウスポは何人も優秀な人材を失ってきたものだ。ちょっと横道に逸れたかな?


トウスポ築地本社--白石孝次の私的グルメ回顧談

築地で美食家になった狼たち? 

1970年代の初め、トウスポは田町の海っぺりの廣済堂系の産報印刷社のビルから、築地の日刊スポーツ印刷社のビルに移転した。日本経済が右肩上がりを続けている時だった。新聞の売れ行きも好調で、給料もぐんぐんと上がり、労使交渉でも日刊スポーツ、スポニチと比較して……になっていた。ハイエナのように、面白いネタを嗅ぎまわっていた猛者たちの食環境もかなりの変化が表れ、知らずにグルメの世界に溶け込んでいたようだった。それを追い求めたのではなく、築地という場所がグルメワールドだったのである。平成30年10月初め、市場が豊洲へ移転した。築地本社時代の思い出がまるで昨日のことのように、蘇ってきた。

☆築地グルメワールドその①ザ・ギョクリン☆ テレビでは築地の引っ越しの様子が頻繁に流れていた。ああ、そうだった。いろいろな食のスポットがあったなあ、と思いながら、ネット上の”築地”をあれこれ見ていた時、あるブログに「えっ!?」と声が出そうになった。築地にお務め、まさか同業だったわけではないだろうが、これを味わって、懐かしがっている人がいた。こちらも思い出を語りたくなった。それはまず中華の玉林。ギョクリンと読む。同じ屋号でタマリンと読む店は新橋にあるが、つながりはなさそうだ。スポーツ印刷社を出て右、新大橋通りを渡って、右奥の築地グルメ横丁に入った所にあった。編集局ではいよく出前を頼んだ。チャーハンにルースのあんかけが半分かかったルースチャーハン、もう半分にマーボ豆腐がかかった半かけチャーハン、シュウマイも美味しかった。この出前は電話して10分もかからずにやってきた。猛者たちは貪り食った。「終わるから、待ってろや」なんてこともあった。トウスポの牽引車、桜井康雄さんの食べっぷりも凄かった。美味い、美味い、シュウマイを頬張り、半カケをかき込み、電話を取り、凄かった。

☆築地グルメワールドその②井上博社長☆ 痩せぎす、小柄、ヒラヒラ付きのブラウス、パンタロン……変な人がうろうろしだしたな、と思ったら、社長だった。新聞が伸び悩んでいた時、一階の社長室を出て、編集局をうろうろするようになった。ちょっと位のある人、これからゴマをすってでも偉くなりたいと思ってた人たちにとっては煙たかったかもしれない。昼間から、日本酒をチビチビやっていた。時々思いついたように関係者」を呼んでは意見を交換していた。しかし、己の身の安全を考えていては、リスキーな策を披露できるはずもなかった。社長は若手記者とのコミニケーションに積極的だった。「社長、そりゃ」まずいでしょ。……した方が良いと思いますよ」。社長は嬉しそうだった。おかっぱをかきあげては、「ウム、ウム」とうなずき、「時間があるなら付き合え」と若手記者をよく連れ出した。まずは築地本社から歩いて2~3分の所にあったウナギの宮川。店横の路地では大きな樽をおいて、一日中ウナギをさばいているシーンがあった。社長は日本酒の冷やをちびちびやりながら、ドンドン注文した。特上のうな重、わさび醤油で日本酒にぴったりの白焼き。これは当時で2千円くらいしたか。真っ平記者の安月給のメニューリストにはなかった。ある日は、やはりご近所さんにあった、鶏の水炊きの老舗、新三浦にも連れられて行った。ここの経営者はラグビー界の重鎮でもあった。鶏の水炊き……こんなに美味いものが地球上にあったのか? とうなったものだ。吉野家は築地の一号店、新橋の駅前店(二号店? 現在はカメラのキムラヤ?)にも連れて行ってもらった。必ず、牛肉のお土産を付けてもらった。またある日は東銀座のインドレストラン、ナイルにも行った。創業者は京都帝国大学卒のA.Mナイルさんで、社長とは友達関係のような感じだった。ここでは十八番のムルギランチだった。お土産にはナイルギーというレベルの高い植物油とインデラカレーというカレースパイスを頂いた。どちらも食通には逸品物。最近も、食事に行って、社長の昔話を二代目と弾ませた。ナイルは、新聞休刊日の泊りがけ突貫編集の夜、夜食を届けてくれたこともあった。これも社長の気配りの一つだった。社長は私が大きな仕事を手掛けようとした時、必ず「ちこう寄れ!」と言って、次は「頼むぞ!」と握手を求めてきた。「分かりました」と握り返す。手の平には小さく折り畳まれた一万円札があった。「えっ!?」と見返すと、「頼んだよ」と小さい声で言った。こんな事をされたら、誰でも身を投げ打ってでも勝負しようという気になるではないか。人には言えなかった。間違いなく妬まれる……。社長が亡くなって政権が替わり、しばらくして「彼は社長派だったからね」などというささやきが上層部から漂いだした。何か、上を向いて仕事をする空気になった。井上社長の下で、汗をかいていた幹部はことごとく窓際へ引っ越しとなった。暴れん坊には住みにくい環境になっていったのだ。井上社長には改めて合掌。★二代目のG.Mナイルさんは健在。こちらは東京農大卒。先日、お邪魔した際、ちょっとがかり、故井上社長の思い出話をさせてもらった。

☆築地グルメワールドその③名店案内の壱☆ 時々の日曜日、築地には”散歩”と称して出かけている。編集局のあった聖路加病院向かいの日刊スポーツ印刷社を拠点にして、歩を運ぶ。隣のビルの一階には喫茶店があった。軽食もありで、朝から結構繁盛していた。アイスホッケー狂いの菅谷さんというマスターがいた。こちらは競技に素人同然だったから、よくヒントをもらった。店の立ち退きと同時に、五反田の方でアイスホッケーベースのスナックを開いた、との情報もあった。どうしているのやら。またビルを背中に通りを渡ると、Any old Timeというカントリー音楽ベースのスナックがあった。電通をドロップアウトした地元の人がオーナー。アメリカ音楽なら何でも、評論家の顔も持った鈴木カツさんが経営者だった。店の対面に音楽スタジオがあった関係もあったのだろう、カントリー、フオーク、ロック……若いミュージシャンがたむろしていた。なぎら健壱さんも常連の一人だった。ここでは当山さんという上司(野球部デスク)と、ギターとバンジョーのセッションもどきで遊んだ。夜中までやっていたので、いつも誰かが飲んだくれていた。もうお店はない。鈴木さんはリタイアして、茅ケ崎にお住まいだったそうだが、闘病生活の後、最近、亡くなられたそうだ。合掌。

☆築地グルメワールドその③名店案内の弐☆  Any old Time同様、 我々が食べたり、飲んだり、暴れたりした名店はほとんど姿を消している。中華の藤野、玉林の並びにあった、日本の洋食大宮、日本そばの長寿庵、本願寺の並びの更正庵は閉店こそしていないようだが、「長期休業」の張り紙。樽酒の美味しかった更科は現在改装中。こちらはまだOK。玉林のそばにあった、日本のフランス料理柳はまだ健在のようだった。そうそう、国際プロレスのテレビ解説もやっていた、門馬忠雄さんに、よくゴチになったのが多喜本なる割烹だった。ここは河岸で仲卸をやっていた関係で、魚が恐ろしく新鮮だった。寿司もやっていたが、恐らく築地NO1だった、という話だ。ここも立て直しになって、店はない。ちょっと奥まった所には、金魚おいうおでん屋さんがあった。ここは芸者の置屋も兼ねていて、店にはいつも粋なお姉さんがいた。ここの娘さんも芸者だった。ぐだぐだ飲んでいると、芸者さんたちが3~4人で帰ってくる。「今日はこれで終わり」「それじゃ、飲みに行っちゃおうか?」と水を向けると、みんな即OK。”制服”のまま、タクシーに分乗して、新橋方面に繰り出したことは枚挙に暇なし。しかし、誰も”高砂や”には至らなかったのだから、誠にきれいなお遊びだった。この金魚もすっかり住宅然として、面影はない。玉林のすぐそばにふるさとという居酒屋があった。沢山飲んで、議論もしたい派のたまり場だった。つけで店を困らせた人ももちろんいた。ここも看板だけが残っていた。まさに兵どもの……である。※寿司言えば、築地本社から歩いて3分くらいのところにキャピタルホテル新館があり、その二階の”入船”という寿司屋さんにはよく行った。熊谷出身のマスターとはすぐ仲良くなり、五千円以上払ったことがなかった。今はない。お世話になりました。


☆築地グルメワールドその③名店案内の三☆ ザ・テント村。我々がそう呼んでいたグルメスポットがあった。場内の入り口付近。夜中……開店は夜の十時くらいだったか。小型トラックでやって来て、テントを広げた居酒屋。椅子もテーブルもある。ちょっと酔えば全く、ノープロブレムだった。整理部記者の奈良井さん(すでに他界)という先輩が得意だった。客は朝日新聞の飲んだくれ記者、日刊スポーツの同様、夜食を求めるタクシーさん、仕事前の河岸のアンちゃん。 何でも美味しかった。煮物、おでん、生もの、特にルイベ状の馬刺しは絶品だった。安い、美味い、早い、朝まで……行けばながっちりで飲んだ。仕事に悩んでいる奴は、ドンドン深みにはまって行った。ある夜、後輩の林君(トウスポ→報知へ移籍。その後、心臓系の持病で若くして他界)が深みに嵌った。焼酎の水割りグラスをじっと見つめていた、と思ったら、頭突きを食らわせた。グラスは粉々、額も割れた。流血。「すいません、コップがどのくらい堅いか、気になってしまって」。マスターはすかさず手ぬぐいをくれた。林君は額に巻いて、また飲み続けた。林君は報知に行って、出川さんという記者と結婚した。子どもはもうかなり大きくなったはず。毎年年賀状を頂いて、「中学です」「高校です」とお知らせが。……全く、早過ぎる旅立ちはいかんばい。

☆築地グルメワールドその③名店案内の四☆ さてさて、呑兵衛たちの世界はまだまだある。勝鬨橋のたもとの天竹。肌寒くなってから、フグとひれ酒。お値段はサラリーマン向け。気取ってないのが良かった。橋を渡って一つ目の信号の右手あたりに、立ち飲みの〈かねます〉。当時は午後4時くらいから開いていた。日本酒、ビール、ハイボール。おつまみが凄かった。今や、立ち飲みのフランスバージョンと紹介されている。牡蠣、フグ、ウニ、イクラ……逸品物がズラリ。仕事帰りの河岸のアンちゃんたちもグラスを傾けていた。立ち飲みなので、そうそう長居はできなかった。……でもなかったかな。ここにはサンケイ、日刊の記者連中もよく来ていた。勝鬨を渡って、かねますをやり過ごして進むと、左手に月島もんじゃストリートが出てくる。ここを入って、もんじゃ街の始まり地点にあるのが岸田屋。午後5時の開店。この字型のカウンターはアッという間に埋まってしまう。煮込み、刺身、ホッピー……とにかく安い。たっぷり飲んで、たっぷり議論もしたい派にはお勧め。トウスポ部隊は月島への出陣が決まると、整理部記者の石井仁志さんという人が、先乗りを買って出ることが多かった。無類のお酒愛好家、現在は茨城県日立市で市会議員を務めておられる。人の役に立つのがお好きだった……ということにしておこう。この他、競馬記者たちは新橋の烏森ある田吾作に、各社記者、評論家がたまること多かったか。トウスポ、日刊、サンケイの野球記者たちは新橋の戦国という串焼き、馬刺しの居酒屋を根城にしていた。中心にいたのは江尻良文さんだったか。トウスポから夕刊フジに移籍。プロ野球一筋で活躍された。トウスポ出身はみな他社で中心選手として仕事をしてきた。自慢したい、ね。

☆築地グルメワールドその③名店案内の五☆ 築地における食の思い出を書き尽くした、とホッとして、一杯飲んでいたら、”三匹の子豚”が頭に浮かんできた。ン⁉ どこかで見た覚えがある。本社横の喫茶店はまだ思い出せずにいるが、こちらの三匹はピンときた。勝鬨橋近くのかつ平であった。ここも忘れてはいけない。当時は店にも行ったが、出前をよく頼んだ。ボリュームがあって、安い、早い、で結構な人気だった。もともと築地は江戸の終わり頃より、外国人居留地であったことから、洋食が入り込んで、日本の洋食の原点のような場所だ。魚だけの街と捉えるのは間違いだろう。魚だって、元々は日本橋が市場だったわけだから。かつ平は1963年の創業だそうだ。当時はそんなことも、池波正太郎さんがご贔屓だったことも、知らなかった。ひたすら、美味い、美味い、とかきこんで腹を膨らませて、原稿を書いていたのである。当時と今のお店は場所がちょっとだけ違う。築地七丁目から六丁目、歩いてチョイの移動だ。そして、今のかつ平の並び奥にあるのがウナギの丸静だ。うなぎが死ぬほど食べたい……この丸静がお勧めだ。いつでもお神輿を担ぐ、いつでも喧嘩に参加する、って感じの、見た目もしゃべりも江戸っ子そのものの兄弟がやっているお店だ。メニューが変わっている。直(あたい―1900円)、連(むらじ―2300円)、臣(おみ―2700円)、尊(みこと―3300円)、王(おおきみ―3800円)。※値段は現在の物。我々が通っていた頃は、5~6百円安かったような気がする。臣あたりから、ウナギがお重に入りきらずに折り畳まれていた記憶がある。メニューの云われは大化の改新までの大和朝廷の氏姓制度から……と。経営者もそこそこのお歳だから、元気なうちにもう一度、目いっぱいウナギを味わっておこうかと思っている。

☆築地グルメワールドまとめ☆ いろいろとお店を紹介してきた。タイトルも、グルメ……しかし、当時はそんな気取ったものではなかった。お店の人に会いたい、腹が減った、原稿が終わったので早いとこ飲みたい、本能のままにうろうろして酔っぱらっていた。そうしたスポットがいずれも気合の入った、年季の入った名店だったのである。今でもそんな空気に触れたくて築地へ散歩に行く。今はわが家から大江戸線で一本。便利になった。昔の面影はいつまで残っていることやら。

番外余話…練馬のとん陣が消えた 

とんかつを磨いて半世紀

本題から外れる。西武池袋線の練馬駅を南口へ出る。千川通りを渡って、練馬銀座に入ったところに、とんかつで有名なとん陣があった。この9月30日まで。経営者は西野芳男さん。実は練馬小学校5、6年で同級生だった。未だに恩師の石丸哲夫先生を囲んで、年に一度のクラス会があり、顔を合わせている。ちょっと前、「もうきつくなったから、週末休み、あと週三の営業にしたんだ。夜も無し。ちょっと有名になっちゃった」と言っていた。へえ~と思っていた。とん陣へはたまにお昼を食べに行った。また、練馬で飲んでふらふらしている最中に、乱入したりしたこともあった。ご本人は一滴も飲まないから、乱入しても連れ出すことも無かった。とん陣は時々テレビに出ていた。特大のわらじとんかつに挑戦みたいな企画もあった。結構アイデアマンだったようだ。9月中旬、クラス会幹事役の増田隆彰さんから電話が来た。「フジテレビのプライムニュースに出るんだって。これが最後みたいなこと言ってたから、是非観てやってよ」と。了解。2、3日後、用事で練馬に行ったついでにとん陣をのぞいた。店に張り紙があり、「9月30日をもって閉店……。えっ⁉ そうなのか? 帰って来て、じゃ、一回は食べに行っておこう。うちの奥方と話ながら、昼に待ち合わせて、と。西野氏にショートメール。「知らなかった。近々、食べに行きます」。すぐ返信が来た。「うれしいけど、ずっと朝の9時半から行列ができていて、10時半には打ち止め状態。食べてもらうのは難しそうです」。えっ⁉ そんなに凄いことになっているのか。「営業時間外で特別貸し切りみたいなことでは?」と手を替えたメール。「お得意さんとか、世話になった人たちへの挨拶もあるので余裕がない。申し訳ない」と。1971年に23歳で開業。ほとんど半世紀を美味しいとんかつを突き詰め続けた。凄いね。また、クラス会で詳しい話を聴くことにしよう。ご苦労様。

海外からの初の生写真

違法か合法か?

☆電話があればどこからでも☆ 「君、また調子の良いこと言って。そんな事、本当にできるのかね!?」また現場をよく知らないお偉いさんの疑心暗疑の声が飛んだ。1982年の夏の入り口だった。我がトウスポは日本国内においては、どこであろうと、電話がつながっていさえすれば、東京の本社に生写真を自前で送っていた。自社電(送)と呼んでいた。プロレスの巡業追跡取材においては、常にアップツーデイトの刺激的写真が不可欠。現像液、引き伸ばし機、小型の電送機、暗幕……すべてを装備して、旅をした。旅館、ホテルのトイレ、風呂場などで簡易の暗室を作り、取材したフィルムを現像。紙写真にした。それを部屋の電話機につないだ電送機で送った。電送機の光信号が音声信号に換り、編集局の受信機で再び白黒信号となって、紙に焼きつけられた。田舎に行くと、旅館の部屋に電話がないことも多々あった。そんな時は帳場の電話を借りた。プロレスの写真をあげると大喜びだった。ある時、東北のある所の旅館で、試合後の仕事をしていると、団体が忘年会をしていた。聞けば地元のNTTだ、と。電話線を目的以外で使用しているわけだから、やばい……。しかし、この時も馬場さんだったかの写真をあげて、大喜びだった。何にもやばい話にはならなかった。

☆海外だってやれるぜ!☆ 当時の国際電話はその国ごとのオペレーターが介在していた。ダイヤル直通はこの後だったような気がする。物は試し、というより、日本のゴルフ・ブームを放っておくてはない。海外のトーナメントはトウスポお得意の速報パターンにはまるのだ。生の原稿と共に、プロレスのように生の写真を送れば、インパクトは大きい。広告業界も黙っていられなくなるだろう。そこで、「いいじゃないですか。プロレスでやっているように全部持って行きましょう。向こうのホテルから電送やりましょう!」。この私の提案に対して、冒頭のお偉いさんのリアクションとなった次第。こちらも200パーセントの確信があったわけではないが、通信社だって、要は電話線で送ってきているわけだから、理屈は同じだ。この時の右腕はカメラマンのT。見てくれはぽっちゃりで頼りなさそうだが、カメラを持って現場に入ると、猫のように素早い。そして画面は前もって計算したかのようにシャープだった。任せておけばいい。こちらは送る手はずを整えれば。まずは1982年7月上旬のメンフィス・クラシック。この試合はレイモンド・フロイドが優勝したのだが、月曜日に着いて、火曜日にテスト。借りたモーテルの部屋で、簡易暗室で写真を焼き、部屋の電話に電送機をセット。そしてオペレーターを呼び出し、日本につないでもらい、correct callを依頼した。料金着払いってやつである。何の支障もなくラインが確保できたので、日本のプロレス取材同様の手順で作業した。日本から悲鳴のような反応があった。「君、日本よりきれいだぞ! バンバン送れ!」「何言ってんだい。今頃」と思ったが、してやったりだ。カメラマンも嬉しそうに「20枚送っちゃたもんね」と。もちろん、試合本番も送り続け、ミスなし。海外生写真速報。他社を圧倒することになった。広告業界も反応。トウスポの海外ゴルフ速報の第一歩と言えよう。

☆海外電送余話①☆ 自前の電送ができるのが確定したので、どんどん、いた。色々なスタッフがやるようになった。しかし、いつも英語で切り抜けられる人間がいたわけではなかった。カメラマンが写真を焼いて、オペレーターを呼び出して……確かマニュアルを作ったような気もする。ま、いってみれば問答集。アリゾナで野球のスプリングキャンプを取材した大阪スポーツのカメラマンのIはトラブルに見舞われた。アリゾナの田舎のモーテルで作業していると、ドンドン❕ とドアが乱暴に叩かれた。喚き声もする。開けると、モーテルのマネジャー的な親父が凄い剣幕。カメラマンを指さして、「てめえ、スパイやってんのか?」と言っているらしい。「出てけ!」とか「ポリス!」とか、断片的に理解できたそうだ。必死に書類を見せて、新聞社の記者だと食い下がるが、とりつく島なし。電送機は作業が始まるとピーピーと音を立てた。部屋を真っ暗にしてピーピー……隣の客が「親しい奴がいる」とたれこんだ可能性もあった。ともかく、モーテルをオン出されてしまった。東京に泣きの電話を入れたら、「そうか、撃たれなくて良かったな」と。

外電送余話①☆ ハワイの取材での出来事。ご存知のように、ハワイはちょっとした日本語が通じる時もある。だから、油断もある。取材を終えたカメラマンが電送機の段取りを整えて、オペレーターを呼び出し、東京の編集局にコレクト・コールをつないでもらうべく、英語で東京の電話番号を読みだした。途中でとちりかけたので、「あれ!? えーと、えーと」と。オペレーターは「8」を続けて、変だと気づき、「say again!」と。カメラマンはパニックになりかけたが、辛抱強いオペレーターに恵まれて、30分かかってが何とかセーフ。油断は禁物じゃ。