猪熊功さんと仕込んだ”世界の山下”への引き出物

,猪熊さんとの出会い☆ (故)猪熊さんは、言わずと知れた、1964年の東京オリンピック重量級の金メダリストだ。取材で知り合ったのは、1977年か78年頃だったと思う。私が所属していた第二運動部、先輩の小泉志津男さんに段取りして頂いた。小泉さんはバレーマスコミの大御所的存在で、アマチュアスポーツのデスク役だった。「猪熊さんが面白い話をしそうだから、行って来いよ」ということで、新宿駅東口駅前にあった、東海建設ビルを訪ねた。ここは2001年9月28日、猪熊さんが自刃して果てるという最後の場所ともなる所である。バブル崩壊で負債を抱え込んだ末の、サムライ的企業トップとしてのけじめのつけ方……。果たしてそれだけか? 東海大学の建学者、(故)松前重義氏の懐刀として、大きな存在感があった。松前さんの国際柔連会長選で表に出ない仕事を」していた、との説も。だとすれば東海建設のピンチにも……東海大学はどこかで手を引いてしまった……のか。余談だが、自刃の立ち合い人の中に、アマレス関係者もいた、という情報もあった。

☆東海建設専務室にて☆ 私が猪熊さんを初めて取材したときは、専務の肩書だった。「何とか、トウスポさんに柔道界の現状を書いてほしいんですよ」猪熊さんは開口一番。続けて「日本の柔道を守るためにも、世界をリードしなきゃならんのですよ。パーマー(国際柔連会長)なんて柔道を商売にすることしか、考えてないんですよ」と。ここで国際柔連の流れを整理しておく。※1951年 アルド・トルチ(初代会長=イタリア)1952~65年、 嘉納履正(第二代)、1965年 – 1979年 チャールズ・パーマー(第三代 イギリス)。要するに、東京オリンピックで正式種目となった”日本の柔道”。会長は開催国の日本であるのが自然。しかし、オリンピックが終わると、会長職は日本から離れてしまったのだ。会長職は選挙によって公平に? 選ばれるわけだが、選挙だから事前運動が物を言うのは当たり前 。世界を相手にした事前運動となると、少々荷が重かったのではないだろうか? パーマーは国際連盟独自の昇段システムを打ち出し、その都度、免許料を徴収。各国下部組織を通じて国際連盟への流れを作っていた。「柔道の発信元は日本なのに、勝手なことをされては困るんですよ」と猪熊さんはまくし立てた。こりゃ面白い。「このまま書いちゃっていいんですか?」「ああ、バンバンやってくださいよ」と猪熊さん。内輪もめに油を注ぐのは、トウスポの得意技。パーマーの独裁者風の風刺画的イラストを使い、ほぼ一ページを割いて、暴露っぽい特集記事を展開した。反響大。「よくもこんな一方的な記事を書いてくれたな‼」といった抗議があれば、「よくぞ書いてくれた。日本の柔道が外国人に骨抜きにされているんだ」という賛同もあった。もちろん、猪熊さんからのお礼の電話もあった。

☆柔道を日本に取り戻せ‼☆ 1979年、東海大学総長の松前重義氏が第四代の国際柔連会長の座に着いた。日本柔道界全体としての悲願でもあった。だが、批判的な声も無いわけではなかった。社会党全盛期の国会議員でもあった松前氏は、当然外交では左系の国々にパイプを持っていた。その大本は旧ソ連である。このソ連はアフリカの多くの国々に影響力を持っていた。国際柔連の選挙となると、アフリカ票がポイントになると言われていた。そこでソ連を抑えることができれば、アフリカもおのずと……。猪熊さんは事前運動のため、頻繁に旧ソ連を訪れていた、という。それも結構な額のキャッシュをかばんに詰めて。これは表に出ないものだったらしい。一説によれば、この作戦には東海建設をうまく機能させたという話がある。今さら、法律的にどうこう言っても始まらないのだが、ギリギリ、すれすれのところで、猪熊さんは奮戦していた、と推測される。

☆内憂外患☆ 東京オリンピックをきっかけに、世界の柔道という新たな舞台に立つことになった日本柔道。その内側には、様々な問題を抱えていた。一般的には日本柔道=講道館、となりそうだが、現実には違う。日本の柔道は戦前・戦中には、スポーツよりは格闘要素の強い流儀を以て 日本の柔道 の中心的存在だったのが、 大日本武徳会・高専柔道 だったと言われる。終戦時、その格闘要素が強いところから、GHQによって解散させられる。この人材の多くは天理大学、東海大学といったところへ流れ、イズムは継承され、学生柔道連盟の理念を形成していくことになる。それは事あるごとに講道館柔道を批判するという形になって表れていく。「講道館柔道は寝技を軽視している。技をかけないでいると、反則を取られる。これは本来の日本の柔道の本来の姿ではない」と。

☆孤立する? 講道館☆ 「嘉納家が講道館長と全柔連会長を独占するのはおかしい」と東海大総長・松前重義氏は異議を唱えたことで、日本の柔道界の内憂が表面化したのだ。東海大を中心とする、いわゆる反主流派は全日本学生柔道連盟を立ち上げた。こちらのリーダーは東海大学柔道部監督の佐藤 宣践 氏。東京教育大(⇒筑波大)出身。寝技の鬼とも言われた。高専柔道継承者の一人と言っていい。国際柔連会長に東海大総長の松前氏、この直属の下部組織のようになった、全日本学生柔道連盟、リーダーに佐藤氏。本来なら、国際柔連の日本における組織は全柔連でなければならない。それが対立組織、講道館についてしまっているのだから、話は複雑だった。1983年、武道館において正力杯 国際学生大会 が行われたが、運営方針はもめにもめ、出場した日本選手団には、全柔連サイドから警告文が出されるに至って、両者の争いは裁判にまで発展していった。もめ事の取材を得意とするトウスポであるから、両者を嗅ぎまわって記事を書いた。その過程で、何度か「会って話を訊いてくれ」というアプローチを受け、ネタの提供を受けた。行きがかり上、東京地方裁判所にも何度か足を運んで傍聴した。席でメモを取っていると、双方の弁護士の目に止まり、”職質”を受けたこともあった。

☆遂に松前重義氏をキャッチ‼☆ 1986年1月15日、1984年ロサンゼルスオリンピックで悲願の金メダリストとなった、山下泰裕さんが結婚式を挙げた。私は年明けから、これを”枕”に何か仕掛けられないか? と考えていた。表はテレビ、朝刊紙がこぞって、 銀座和光に勤務していたとされる小野みどりさん との馴れ初めやらを報じていた。読売テレビの関係者からは、「巨人選手の追っかけだったらしいよ」なんて話もあったが、ここをほじくり返すのは、あまり気が乗らなかった。今や世界の山下。実直を絵に描いたようなスポーツマン。やはり、仕掛けも正統で行くべきではないか。ここは一つ、国際柔連会長の松前重義氏の手記をぶつけるのはどうか? 松前氏は東海大学の総長でもある。山下さんへの祝辞は当然。さらにできることなら、日本柔道界内紛の一方の主役でもある、松前氏が”世界の山下の結婚への引き出物として、和解へ向けての緊急提案”……と持って行きたい。早速、猪熊さんに連絡した。アポが取れて、霞が関の東海大会館を訪ねた。「よ~、久しぶりですね」と猪熊さん。山下の結婚について当たり障りないところから切り出し、徐々に核心に近づけていった。「山下の結婚に当たって、松前総長の手記という形でやりたいんですが……インタビューさせていただいて、こちらでまとめる」「親父は忙しいから、それは難しいなあ」「そうですか、何とかなりませんかねえ。例えば、猪熊さんとある程度の中身を決めておいて、総長の写真を撮って終了、とか」「で中身はどうするんだ?」「ここでただおめでとう、では仕方がありません。今、日本の柔道界が抱えている問題に光明が当たるような提案とか」「……て言うと?」「松前総長が山下の結婚を機に、和解への提案をする……」「えっ⁉ 君、今裁判中なんだぜ」「ですから、祝のスピーチの範疇と考えて。総長の提案ですから、意義深いものになると思います」「……話は分かったが、でも無理だな」「そうですか。でも一言だけでも訊いていただけませんか?」「……しつこいね、ちょっと待っててくれ」と言って猪熊さんは席を外した。2分くらいで戻って来た。「親父が話を聴くと言ってる」「じゃ、どちらへ?」「隣の部屋にいるんだよ」と猪熊さん。総長の部屋に案内された。松前総長は終始笑顔で、「君も結構しぶといそうだね。話は分かった。まかせたよ。うまくやってくれ」と。やったぜ、独占手記が成立した。このやり取りが1月の8~9日ぐらいだったか。一面の特ダネ扱いとして、15日の発行、山下さんお挙式にぶつけることになった。新聞が出るまでに何度か猪熊さんから電話の急襲を受けた。「あの企画、やっぱりまずいかな。替えられないかな」と。恐らく、講道館批判の先鋒が和解提案はまずくないか? との声が出たのではないだろうか? その都度、「日本の柔道界の将来のためにも意義のあることですよ」と踏ん張った。最後は猪熊さんも承諾した。山下さんの結婚式には、各紙担当記者も招待されて、にこやかにスケッチ取材を展開していた。しかし、各紙編集局では、トウスポの紙面、{松前重義国際柔連会長、独占手記 日本柔道界への緊急提言」で、ちょっとした騒ぎになっていた、という。してやったり。しかし……猪熊さんの自刃はショックだった。遅ればせながら、合掌

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