海外からの初の生写真

違法か合法か?

☆電話があればどこからでも☆ 「君、また調子の良いこと言って。そんな事、本当にできるのかね!?」また現場をよく知らないお偉いさんの疑心暗疑の声が飛んだ。1982年の夏の入り口だった。我がトウスポは日本国内においては、どこであろうと、電話がつながっていさえすれば、東京の本社に生写真を自前で送っていた。自社電(送)と呼んでいた。プロレスの巡業追跡取材においては、常にアップツーデイトの刺激的写真が不可欠。現像液、引き伸ばし機、小型の電送機、暗幕……すべてを装備して、旅をした。旅館、ホテルのトイレ、風呂場などで簡易の暗室を作り、取材したフィルムを現像。紙写真にした。それを部屋の電話機につないだ電送機で送った。電送機の光信号が音声信号に換り、編集局の受信機で再び白黒信号となって、紙に焼きつけられた。田舎に行くと、旅館の部屋に電話がないことも多々あった。そんな時は帳場の電話を借りた。プロレスの写真をあげると大喜びだった。ある時、東北のある所の旅館で、試合後の仕事をしていると、団体が忘年会をしていた。聞けば地元のNTTだ、と。電話線を目的以外で使用しているわけだから、やばい……。しかし、この時も馬場さんだったかの写真をあげて、大喜びだった。何にもやばい話にはならなかった。

☆海外だってやれるぜ!☆ 当時の国際電話はその国ごとのオペレーターが介在していた。ダイヤル直通はこの後だったような気がする。物は試し、というより、日本のゴルフ・ブームを放っておくてはない。海外のトーナメントはトウスポお得意の速報パターンにはまるのだ。生の原稿と共に、プロレスのように生の写真を送れば、インパクトは大きい。広告業界も黙っていられなくなるだろう。そこで、「いいじゃないですか。プロレスでやっているように全部持って行きましょう。向こうのホテルから電送やりましょう!」。この私の提案に対して、冒頭のお偉いさんのリアクションとなった次第。こちらも200パーセントの確信があったわけではないが、通信社だって、要は電話線で送ってきているわけだから、理屈は同じだ。この時の右腕はカメラマンのT。見てくれはぽっちゃりで頼りなさそうだが、カメラを持って現場に入ると、猫のように素早い。そして画面は前もって計算したかのようにシャープだった。任せておけばいい。こちらは送る手はずを整えれば。まずは1982年7月上旬のメンフィス・クラシック。この試合はレイモンド・フロイドが優勝したのだが、月曜日に着いて、火曜日にテスト。借りたモーテルの部屋で、簡易暗室で写真を焼き、部屋の電話に電送機をセット。そしてオペレーターを呼び出し、日本につないでもらい、correct callを依頼した。料金着払いってやつである。何の支障もなくラインが確保できたので、日本のプロレス取材同様の手順で作業した。日本から悲鳴のような反応があった。「君、日本よりきれいだぞ! バンバン送れ!」「何言ってんだい。今頃」と思ったが、してやったりだ。カメラマンも嬉しそうに「20枚送っちゃたもんね」と。もちろん、試合本番も送り続け、ミスなし。海外生写真速報。他社を圧倒することになった。広告業界も反応。トウスポの海外ゴルフ速報の第一歩と言えよう。

☆海外電送余話①☆ 自前の電送ができるのが確定したので、どんどん、いた。色々なスタッフがやるようになった。しかし、いつも英語で切り抜けられる人間がいたわけではなかった。カメラマンが写真を焼いて、オペレーターを呼び出して……確かマニュアルを作ったような気もする。ま、いってみれば問答集。アリゾナで野球のスプリングキャンプを取材した大阪スポーツのカメラマンのIはトラブルに見舞われた。アリゾナの田舎のモーテルで作業していると、ドンドン❕ とドアが乱暴に叩かれた。喚き声もする。開けると、モーテルのマネジャー的な親父が凄い剣幕。カメラマンを指さして、「てめえ、スパイやってんのか?」と言っているらしい。「出てけ!」とか「ポリス!」とか、断片的に理解できたそうだ。必死に書類を見せて、新聞社の記者だと食い下がるが、とりつく島なし。電送機は作業が始まるとピーピーと音を立てた。部屋を真っ暗にしてピーピー……隣の客が「親しい奴がいる」とたれこんだ可能性もあった。ともかく、モーテルをオン出されてしまった。東京に泣きの電話を入れたら、「そうか、撃たれなくて良かったな」と。

外電送余話①☆ ハワイの取材での出来事。ご存知のように、ハワイはちょっとした日本語が通じる時もある。だから、油断もある。取材を終えたカメラマンが電送機の段取りを整えて、オペレーターを呼び出し、東京の編集局にコレクト・コールをつないでもらうべく、英語で東京の電話番号を読みだした。途中でとちりかけたので、「あれ!? えーと、えーと」と。オペレーターは「8」を続けて、変だと気づき、「say again!」と。カメラマンはパニックになりかけたが、辛抱強いオペレーターに恵まれて、30分かかってが何とかセーフ。油断は禁物じゃ。

谷津嘉章は強かった‼

谷津 vs ウイリエム・ルスカ

☆異種格闘技戦に赤鬼登場 1975年暮れ、”オランダの赤鬼”ウイリエム・ルスカが異種格闘技戦で猪木に挑む、のニュースが流れた。ルスカは1972年のミュンヘン五輪で、柔道無差別級、重量級の二階級金メダルという偉業を達成しており、日本の柔道界においては宿敵のような存在であった。では、異種格闘技戦において、猪木が勝てば溜飲が下がるのかと言えば、そうでもない。柔道よりプロレスが強かった、となるのも見たくはなかったはずだ。ルスカの行動は日本の柔道界にある種、複雑な話題を投げたのかもしれない。問題の異種格闘技戦は、1976年2月6日、日本武道館となった。一月下旬、ルスカは来日した。記者会見にはかなりの数のマスコミが集まった。一体どういう試合になるのだろう? ルスカの隣にプロレス界では見慣れない人物がいた。現日本プロレス協会会長の福田富明氏である。実はこの人が影のプロデューサー。人脈を通じて、ルスカと新日本プロレスをつないだのである。福田氏はシグ片山氏(かの東京裁判で通訳を務めた)主催のユナイテッド・スチールの要職にあった。面白い会社で、ビジネスになる物は何でも扱った。ある時、「エジプトへかき氷のマシーンをまとめて輸出した」なんて話も聞いたことがあった。マシーンといったって、縁日で見かけた、足でペダルをばたばたこぐタイプのものだ。聞けばその筋から集めた、とのこと。ルスカのプロデュースもビジネスの一つだったのだろう。

☆公開スパーに谷津登場!☆ ルスカの公開スパーリングが行われたのは2月の上旬。練馬区江古田の日本大学レスリング道場。福田氏はOBであった。日本の柔道界にとっては宿敵のルスカに場所を貸す道場はなかった。警視庁という話も出かかったが、興行となると難しかったのだろう。当日、集まったマスコミは三社程度だったように記憶する。突き詰めれば新日本プロレスの興行。これを正面から取り上げるのか? となったのかもしれない。我がトウスポはそんなことはもはやどうでも良かった。個人的にも、ルスカの闘う能力に興味があった。柔軟、ストレッチ、バーベルなどの前段が終わって、ルスカがレスリングタイツになった。全身凄い筋肉で覆われていた。すげえ! 思わずつぶやいてしまった。「谷津、相手を頼むよ」と福田氏。大学三年生の谷津が現れた。ヘッドギアを付け、体重は95キロ程度。対するルスカは110キロ前後。やっぱりルスカが赤鬼……しかし、現実は違った。組み合ってグラウンドにもつれ込む。次の瞬間、あっという間に谷津がバックを取って締め上げた。立ち上がってもう一度、都合三回ほど組み合ったが、明らかに谷津が優勢であった。それではと、柔道着でスパーリングを行ったが、柔道着になると、ルスカはやはり赤鬼だった。セコンド役に後々格闘技界で存在感を表すクリス・ドールマンいた。こちらはサンボのスペシャリストだったが、レスリングでは谷津の敵ではなかった。 1980年、 谷津は 1980年の モスクワ五輪に備えて、自費でソ連のナショナルチーム合宿に参加した。ここで、メダル圏内の確証をつかんでいた。五輪不参加決定の後、新日本プロレスに入団した。道場で猪木とスパークリングを行った際、あっという間にバックを取った。「猪木さんに怒られちゃいました」と裏話を明かしてくれたことがあった。もし、モスクワ五輪に行っていたら……。

☆1976年2月6日、日本武道館☆ 試合中盤、猪木が額を割られて流血。異様な雰囲気にもなった。しかし猪木はぐいぐいとルスカを挑発。これに乗ったルスカが、柔道着」を脱ぎ捨て、「さあ来い、やるならやってみろ!」といった感じで両手を挙げて猪木に向かった。まさに赤鬼。猪木は顔面を朱に染めながら、バックドロップ三連発を繰り出した。ルスカはかろうじて立ち上がりかけたが、セコンドのドールマンがタオルを投げた。猪木のTKO勝ちだった。柔道家のルスカが柔道着を脱ぎ捨てた瞬間、ルスカは柔道家からプロレス転向を宣言したとも受け取れた。柔道家がプロレスの軍門に下ったのではなく、最後はプロレスラーとして散った……と。

※追記。ウイリエム・ルスカ氏は2015年2月14日、74歳で旅立っている。何度かプロレスの巡業で一緒に飲んだこともあった。合掌

ザ・モンスターマン密着取材記

今度はヘビー級プロ空手

☆全米プロ空手ヘビー級王者☆ アリ戦を敢行したが、周囲の期待が大きすぎたこともあって、様々な批判も浴びることになった猪木。5億、6億、7億……多額の借金も背負った。しかし、そんなことを感じさせないくらい、エネルギッシュに走り続けていた。いや、走らなければ団体の存続も危ぶまれる状態でもあった。所属している日本人レスラー、また、海外から「日本で一稼ぎ」をもくろむ外人レスラーにとっても、新日本の経済状態は重要。猪木はフアンの注目を集め続けなければならなかった。アリ戦の次のビッグマッチ、また少しでも抱えている負からの脱 却 の手がかりも兼ねて、異種格闘技世界一決定戦として、全米プロ空手ヘビー級王者、ザ・モンスターマンとの対戦が打ち上げられた。策士、新間寿営業本部長のが牽引車で、我が上司の桜井康雄さんもマスコミとTV解説者の立場で、NET側には栗山プロデューサー……こんな人たちがアドバイザーとして、知恵を絞ったのだ。1977年8月2日、日本武道館。モンスターマンは対戦の10日くらい目に来日したと記憶している。新宿の京王プラザホテルで記者会見。ここから、私の密着取材が始まる。こうした取材は何か定番になっていた。「白石、また頼むな」。オーダー主はほとんど上司の桜井康雄さんだった。そもそも、入社一年半は整理部の記者勤務。そこからプロレスを主に扱う第二運動部へ移ったのだが、当時、内外タイムスから移ってきて、ギャンブル部の部長になっていた針ヶ谷さんの口利きがあった。仕事後に飲みに釣れて行かれ、取材記者への転向を打診されていた。この人も井上博社長に買われていたのだった。第二運動部へ移って早々、山田隆部長(日本テレビ解説者。すでに他界。合掌)に喫茶店に呼び出されて、「あんた、英語が少しやれるんだって? 明日、サンマルチノのインタビューやってきて」と告げられた。言われるままに、東銀座の銀座東急ホテルのレストランでインタビューに及んだ。当たり前だが、”人間発電所”ブルーノ・サンマルチノとは初対面。どえらい緊張をしたが、サンマルチノは紳士でこちらがデビュー戦であるのを知っていて、大変協力的。また、立ち合いの百田義善さん(力道山長男。すでに他界。合掌)の時々助っ人もあって。無事終了。編集局に戻って、原稿をかいていると、山田部長が来て、「結構やれるらしね。よっちゃん(善浩氏)がほめていたよ」と。これで、何となく外人係になってしまったようだった。

☆モンスターマンに密着☆ モンスターマン。来日翌日から、取材に張り付くことになった。主な練習場所は代々木駅近く、沖縄空手の剛柔流だった。これは猪木-アリ戦のレフェリーを務めた京都の日本正武館館長の鈴木正文氏(すでに他界。合掌)の手配だった。余談になるが、鈴木氏は空手界の重鎮であると共に、故笹川良一氏の秘書、京都新聞社の経営陣と言った側面も持っていたようだ。異種格闘技で猪木と戦う相手、つい色眼鏡で見てしまいそうだが、真面目で物静かな男だった。京王プラザで目覚めると、目の前の西口公園で軽いジョギング、体操、朝食後、初代タイガーマスク、佐山聡の案内で道場へおもむいた。佐山はこの後の11月14日、やはり日本武道館で行われた”格闘技大戦争”に出場して、アメリカのマーク・コステロKO寸前の敗北で渡米、メキシコでルチャ・リブレと出会って、タイガーマスクでブレイクという経緯を辿る。この時は時々、キックの黒﨑道場で修行して、その異能ぶりが注目されてもいたのだった。モンスターマン、本名エベレット・エディ、ぺンシルバニア出身の空手家。キックボクサー。「最初はボクサーをやっていた。杯の病気をして、その道を断念したんだ」とモンスターマンは静かに語った。背中には肩甲骨に沿って、結構長いメスの跡があった。ある日、代々木の道場で黙々と、モンスターマンが汗を流していると、長身の白人が稽古にやって来た。聞けば、イギリス人で剛柔流の四段。これは格好のネタができた。形だけのスパーリングでも絵になる。そこでモンスターマンにに水を向けた。「写真の対象えだけでもいいので、軽くスパーリングしてもらえないか?」「OK」モンスターマンはイギリス人に近かずくと、「空手のルールでいいかい?」。二人のスパーリングが始まった。しゅつ、しゅつ、ビシッ! 道義が空を切る音が室内に響いた。肉体がこすれ合って火花が飛ぶようにも見えた。イギリス人の四段も凄いが、モンスターマンも強い。全米プロ空手ヘビー級王者。どんな規模の大会なのか、確かめようもなかったが、強いのは間違いなかった。相手は初対面の空手で、兼ねてからスパーリングパートナーを依頼していたわけだはなかった。佐山もびっくりしていた。「白石さん、やばいね。本当に強いよ」。新聞には事細かに、ありのまま書いてしてやったり、と思っていた。しかし、他社の反応はイマイチだった。ハプニングの現場に都合よくカメラマンもいて、克明なレポート……どうしても最初から仕込んだ……と受け取られてしまったのかもしれない。モンスターマンの招聘は興行的に成功だった。異種格闘技戦、猪木のセメント路線は軌道に乗っていくことになる。


A・猪木vs B・ロビンソン取材㊙メモ

ルー・テーズのマネジャーをやれ!

☆welcome Mr.Lou Thez……Aloysius Martin Thezs☆ 1975年12月初旬、”鉄人”ルー・テーズを迎えに羽田空港に行った。11日、蔵前国技館において、「A・猪木 vs B・ロビンソン戦」が決まっていて、そのウィットネスとして、ルー・テーズ、カール・ゴッチを立てていた。主催の新日本プロレス、そして放映局のテレビ朝日のプランであり、我がトウスポもいっちょ噛みしていたのだ。もちろん上司の(故)桜井康雄さんもアイデアの中心にいたはずだ。私は桜井さんに呼ばれたれて、言われた。「今回はテーズのマネジャーで動いてくれ。新日本のツアーを追って、テーズのコメントを送ってくれ」。テーズは大一番の ウィットネス であると共に、トウスポは特別評論家も依頼していた。後日、ギャラの百万円は私の手で。当時、カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦も行われていたので、こちらの評論もお願いすることになっていた。羽田でテーズにあった。「トウスポの記者ですが、今回はあなたのマネジャー役も兼ねています。よろしく」「OK、こちらこそよろしく」

☆やっぱり鉄人だ☆ 来日の翌日は「トレーニングしたい」で、新日本の上野毛の道場へ。さっと上半身裸になると、マイナス角度の腹筋を始めた。引退して結構な時間が経っていたのだが、鉄人ぶりは相変わらずだった。そして翌日、早朝、名古屋へ向かうため、宿舎の京王プラザホテルへ迎えに行った。ロビーで待っていると、ワイシャツ一枚の軽装でテーズはやってきた。外へ出て、「ン⁉ この格好じゃいかんな。言ってくれなくちゃ」とかまされた。「sorry little bit cool toay」。そうだった。マネジャー役でもあったのだ。

☆最強座談会☆ 12月9日、名古屋でどえりゃ~座談会を敢行した。この日、カール・ゴッチが名古屋の国際ホテルに到着していた。11日のためのあおり企画で、ルー・テーズ、カール・ゴッチ、それにB・ロビンソンを揃えて座談会をやった。テーズとゴッチを立会人にしたのは、猪木もロビンソンも一つ間違えると、セメントに走る危険性を持っていたので、二人の目が必要だったのかもしれない。こんなことは確証の取りようもないのだが。会場は名古屋国際ホテル近くのすき焼き屋。その日の試合後だから、午後の10時くらいだったか。司会は桜井康雄さん、こっちは雑用係&通訳。ゴッチとテーズが対等な感じで話し、それに正座をしたロビンソンがビールのお酌をしながら、相づち、といった感じだった。「この前、シカゴで空手のオープン戦に出たんだけど、大したことなかったな」とゴッチが言えば、テーズは自らのセメント・マッチを語りだす。頼むから猪木の話に絞ってくれ。ゴッチは話が盛り上がると、豪快に笑った。歯がきれいだった。……思い出した。ゴッチは日本プロレス時代に来日していて、その頃、奥歯が虫歯になって痛みが出たので歯医者へ行った。「虫歯だから抜いてくれ」と。歯医者は「Ok」と言って、素早く問題の歯を抜いて、「finish!」と。しかしゴッチは「No、No!!」と。「歯が生きているから虫歯になる。この際、全部抜いて、入れ歯にしたい」「じゃ、また日を改めて」と歯医者。ゴッチは「No、No!! 今やってくれ」。歯医者はびびりながらも、何とか全摘に及んだ。ゴッチは目的を敢行したが、しばらく顔が二倍くらいに腫れていたという。……ゴッチ、テーズの話は弾んだ。「猪木の寝技、返し技、巧妙にかけてくる関節技は要注意だ」とポイントが絞られた。ロビンソンは神妙に聞き入っていた。凄い夜だった。

”皇帝”ベッケンバウワーを、アポ無し独占直撃‼

☆皇帝ベッケンバウアー☆ 1975年1月3日、西ドイツ・ブンデスリーガ名門のバイエルン・ミュンヘンが初来日した。前年の西ドイツW杯で優勝した直後。”リベロ”として華麗に舞い、チームを率いたフランツ・ベッケンバウアー、がむしゃらにゴールに突進するプレーから、”爆撃機”と異名をとった、ゲルハルト・ミュウラ―、”鉄のカーテン”GKのヨゼフ・(ゼップ)マイヤー、ストッパーのカール・ハインツ・ルンメニゲ……監督はいぶし銀のウド・ラテクといった陣容だった。1968年のメキシコ五輪銅メダル以来、低迷を続ける全日本。人気の面でも一つの起爆剤としたい協会の思惑もあった。

☆宿舎の張り込み☆ バイエルンの取材……さてどうしたものか? この頃、トウスポの取材として十八番的になっていたのが、〈直撃インタビュー〉取材対象を近影でとらえ、取材の証拠として、記者自身も映り込むというもの。トウスポはギリギリのポイントまで突っ込んで、読者の好奇心をくすぐって、新聞を売っていた。カストリ、イエロー……いろいろ言われても、めげることなく書きまくった。それだけ取材をし、裏も取っていたので、堂々としたものだった。しかし、陰口はあちこちで飛んでいた。「遠目で様子を見て、対岸から石を投げてるんじゃ楽。正面切って取材してんのかね?」。「よし、それなら、直撃インタビューでいったらどうだ。記者も映り込んで、厳しいことも含めて一問一答形式でいこう」。言いだしっぺは(故)井上博社長だった。「君、ベッケンバウアー,何とかならんかね?」。風向き伺いの番頭さんが気軽に石を投げてきた。デスクの(故)桜井康雄さんは、ベッケンバウワーは大物で、どの社も狙っていることは知っている。「ダメ元で、張り込んでみっか。うまくいったら表彰もんだぜ」。ニンジンはぶら下げられた。カメラマンと宿舎の東京プリンスホテルへ赴いた。しかし、とっかかりのヒントは何もなかった。

☆助っ人招集☆ 芝の東京プリンスホテル。ロビーは取材陣で結構にぎわっていた。スポーツ紙、専門紙……何人か知っている顔があった。「ここで待っているしかないか?」「そうですね」。編集局の 風向き伺い たちが絵に描いた”直撃”など、どこから手をつけたものやら……。ここは一つ、ドイツ語がしゃべれた方が少しは有利になるかもしれない。友人のMiyamotoに電話した。ドイツ遊学経験者で戻って来て、元の石油会社で働いていた。年明け早々なので、少しは自由になるだろう、と勝手に判断した。「ベッケンバウワーに会いたくないか? 会社抜け出して助っ人してくれないか?」。Miyamotoは東京駅の会社から30分ほどでやってきた。「どうすりゃ会えるかね?」「本人がつかまりゃベストだが、監督でもメンバーでも出てくればね」。釣り人の前に魚はそう簡単には表れるものではない。この日は夕方まで張り込んだが、収穫ゼロ。「白石さんは何を狙ってんですか? えッ!? ベッケンバウワーのインタビュー!? そりゃ無茶でしょう。アポも無理でしょう」知り合いのカメラマンとこんなやりとりがあった。

☆無理は承知だ☆ 周りから、無謀だの、なんだのと言われているうちに、「何とかやってやろう」という気になってきた。まずはMiyamotoを口説いた。「明日、会社休んでくれない。早朝から、ホテルを張り込みたい。可能かどうか分からないが、レストランでアタックしてみようと思うんだけど」。さすがにMiyamotoも会社を休むとなって二の足を踏んでいたが、狙いは超の付く大物、ベッケンバウワーである。それに昔から無謀な遊びを繰り返してきた経験もあってか、面白そう、とスイッチが入ると突き進む性格。果たしてスイッチが入った。「やってみようか」。

☆1975年1月5日、早朝☆ Miyamotoと共に東京プリンスホテルのロビーに着いた。待ち合わせのカメラマンはすでに来ていた。先輩のOさんだったか。「どうなの見通しは?」「いや、これから様子を見て何とか」。カメラマンはほとんだ期待していないようだった。そりゃそうだったろう。昨日も張り込んでいた知り合いのカメラマンに、「選手だ誰か見かけた?」と水を向けると、「いや、誰も……」。よし‼ おそらく二階のレストランで朝食をとっているはず。「ダメ元でレストランに行って、誰かつかまえよう!」。ロビーにいる同業者の目を意識しながら、エレベーターに乗った。二階で降りた。レストランは目の前。警備は無し。緩い時代だった。今ならエレベーターにも乗れないだろう。ジャージ姿のバイエルンの選手たちが出入りしている。Miyamotoのドイツ語の出番だ。しかし。ドイツに2年近く遊学していたが、ドイツ語のレベルは知らなかった。こちらも多少の英語は話したので、いざとなったら、という頭もあった。Miyamoto一人の選手をつかまえて、「ベッケンバウワーに会いたいのですが、中にいますか?」「ちょっと待ってて」とその選手は言うと、2~3分してウド・ラテク監督を連れてきた。やったぞ‼ 名刺を渡して丁寧に仁義を切った。「5分でも良いので合わせていただけませんか?」「5分か? 良いだろう。一緒に行こう。ミューラーもいるけどいいのかい?」「とりあえず、ベッケンバウワーさんを紹介して下さい」。ということで、レストラン中ほどの6人かけくらいのソファに座って、インタビューを始めた。Miyamotoは身振り手振りも加えたドイツ語を繰り出した。コミュニケーションはOK。5分の約束はあっという間に。40分ほども経過して、こちらから質問を切り上げた。皇帝には「日本にはプロがなく、企業チームが主体の組織。なかなか世界の舞台に出ていけないのだが、何か方法は?」と訊き、「日本の状況に詳しいわけではないが、やはりトップにはプロがあり、底辺の拡大が必要なのだろう」とベッケンバウワー。この夜、バイエルン・ミュンヘンは釜本中心の全日本を1-0で軽くあしらって見せた。”リベロ”ベッケンバウワーのプレーは実に華麗だった。翌日、「皇帝ベッケンバウアーに独占直撃‼ 皇帝、日本にプロ化の緊急提言!」の文字が紙面を飾った。5万円の社長賞をもらった。その夜、Miyamotoと新橋へ繰り出して痛飲した。この話は未だに語り草。友人Mは現在、原宿豊島園で、紅茶専門店Kを経営している。あれから何年……未だに飲むと、この話題が浮上する。大物釣りは、それほど痛快だったのである。

ソウルで出会った、その筋の方たち

【ロッテホテルで超大物に】

Tousupo on my mind –我が心のトウスポ

プロレスは興行である。力道山、馬場、猪木……日本の黄金時代は、やはりプロの方たちの手腕で細部まで仕切られていた。この方がトラブルの起きる可能性が少ない。韓国はお国柄、また、八百長事件などがあったことも影響して、興行はなかなか難しいものがあった。しかし、1975年3月の「猪木ー大木戦」は別格だった。力道山の四天王のうちの二人。力道山の死後、紆余曲折、それぞれの道を辿った末の、”因縁の対決”かなりの盛り上がりをみせていた。プロレスファンの当時の朴大統領の肝いりで、大阪の”専門家”が動いた、との話も。不満が渦巻く社会のガス抜き、駐留軍の慰問……色々な解説がなされていた。昼間、猪木の顔を見ておこうと思い、宿舎のロッテホテルに行った。ロビーに入って、キョロキョロしていると、「白石さ~ん、こっちおいでよ!」。声の主は新日本プロレスの新間寿営業本部長。「お茶を飲みましょうよ」。見れば10人ぐらいが一つのテーブルを囲んで、談笑していた。猪木もいた。「お邪魔します」「白石さん、こちらを紹介しておきますよ」と。一人の紳士が立ち上がった。貫禄が凄い。お互いに「よろしく」と名刺を交換した。えッ!? 頂いた名刺には時々週刊誌で目にする、有名な団体の戦闘隊長として知られた人の名があった。韓国名であった。こちらも有名だ。「Yさん、こちらトウスポの敏腕記者の白石さん、ほら児玉さんとこの」「あ~そうでしたね。よろしく言っといてください」。そう言われてもねえ。改めて見渡すと、Yさんの周りは凄い雰囲気の人たちが詰めていた。この人が朴大統領から直々に、日韓スポーツ交流の協力を要請されていたようだった。半島の血が流れる日本の右と韓国の権力層は色々な面でつながりがあったようだ。「何かあったら、いつでも連絡してください」とYさんに言われた。しばらく名刺を持っていたが、ついぞその機会はなかった。

【お務めを控えて】

☆戒厳令の夜☆ 戒厳令の真っ只中の頃だった。取材を終え、一杯飲んで宿舎の清心洞のソウル観光ホテルに戻った。10時過ぎ。そこは日本でいえば、浅草のような下町。周囲は結構にぎやか。しかし、それも12時までがリミットであった。もう時間だから今日は部屋で寝よう……フロントでルームキーを受け取ろうとしたとき、一人の男が近づいて来た。「お兄さん時間ありますか? もしよかったら、今から一杯飲めるところ案内してくれませんか?」。日本の観光客か、良かった。ソウルでは何度も尾行されたり、盗聴されたり、を経験していたので、最初は”またか”と思って身構えたのだ。「怪しいもんじゃなかとよ、明日帰らにゃならんので、どうしても今遊びたい思って」。九州弁だった。しかし、観光客であれば客引きの案内で、とっくにレールに乗っているはず……と思ったが、「分かりました。この近くに以前大木さんに連れて行ってもらった割烹があります。そこで良いですか? 歩いてすぐです」「おう、よかね」。その男は実に嬉しそうについて来た。

☆男の正体☆ 清心洞、夜11時。大木金太郎御用達の割烹の広間に座った。「勘定はこっちだから心配せんで。おっと、何者か、言っときます」と言って、男は名刺を差し出してきた。それには”K会 何某”と記されていた。素人じゃなかった。こちらも名刺を出した。「ほー、記者さんとね。よか仕事ね。競馬とプロレスで、九州スポーツちゅうのをよく見てますよ」「それはうちの支社です」「ほー、それは、何かの縁ですたい」。男は嬉しそうだった。「酒、料理、ジャンジャン持ってきて。女の子もな」。男は何か頼むたびに札びらを切った。物凄い束を持っていた。円vsウオンだから、ちょっとした金額で束になるのだが、それにしても。「不思議ですか? 明日、日本に帰ったら、お務めに行くんですよ。だから、今夜は思い切り遊びましょう。さあ、遠慮せんと」。北九州でK会、関西のY組と並んでブランド団体。お務め? 日本で何かがあって、ソウルで気分転換、そして帰国して出頭……ということなのだろう。戒厳令直前までどんちゃん騒ぎの宴を張り、ホテルに帰って二次会。ルームサービスでステーキ、ボトルごとのウイスキーを頼んで、夜明け近くまで。男は酔うほどに「何かあったら連絡してくれ。今夜のことは感謝しとる」。不思議な夜だった。しばらく名刺は持っていたが、電話を掛けることはなかった。また、飲みたかったような気がしないでもなかったが……。


そりゃ反則!? 韓国取材裏の裏

【スパイもどき?】

1975年~1980年……おそらく、80年に近い年の事だったと思う。五月のゴールデンウィークに、新日本プロレスの韓国遠征があった。NET(現テレビ朝日)の放送も予定されていたので、第二運動部部長で我が上司の(故)桜井康雄さんが早々と訪韓の予定を立てていた。当然である。しかし、直前になって、「都合が悪くなった。白石、ピンチヒッター頼めないか?」と打診された。何か、ご家族の病気で大きな手術の予定が入ってしまったようだった。どうやら、心臓病を抱えていた娘さんのことらしかった。こっちは身が軽い。海外取材はいつでもウエルカム。二つ返事でOKした。だが、問題があった。ゴールデンウイークに韓国。バブル真っ只中、韓国は人気路線。男性専科ではあったが。飛行機の切符はどこへを探しても無い。どうしたものか? 桜井さんの切符はどこかのツアーに潜り込んだもので、人の変更は不可。トウスポ御用達の旅行代理店のN氏と相談を重ねた。「手が無いことも無いですね」「ほう!?」「白石さんは桜井さんのパスポートを持って行くんですよ。それで空港で旅行社の係員にパスポートを渡し、チェックインをしてもらう。チケットを持って、通関では白石さん本人のパスポート……当たり前ですが。白石さんが間違えると大変」。これで難なく韓国に入り、取材をして三日後に日本に戻って来た。しかし、何か問題が起きればえらいことだったろう。例えば飛行機事故に遭遇したら、乗っていない桜井さんが搭乗者名簿として発表されてしまう。韓国滞在中、白石孝次特派員で紙面を飾っていた。デリケート問題に触れることはなかったので、”いかさま入国”はほじくられることはなかったのだろう。

【空港で運び屋探し】

1970年代の韓国は情報の送りに大変苦労した。Faxさえ一般的でなかった時代、原稿を送るのは電話が主流。だが、デリケートな表現はリスクが伴った。盗聴は朝飯前。通話中に盗聴が入ると、トーンがダウンするのですぐ分かった。これがきたら、話をどうでも良いものに切り替えた。写真は通信社のラインで送ってもらう。しかし、これとて必ず南山のチェックが入った。南山はKCIAの本部である。しかし、原稿と写真を日本へ無傷で送る奥の手はあった。ブツをコンパクトにして、空港へ行って、運び屋を探したのだ。真面目そうな観光客に当たりを付け、事情をきちんと話して、軽いギャラを提示。こちらは日本の新聞社なので、100パーセントに近い確率で、成立した。後は運び屋さんが乗る便名と連絡先を日本に伝えれば良かった。しかし、これとて、南山を通過していない情報を日本に送っていたわけだから、こじれれば、無事では済まなかったかもしれない。

1986ソウル・アジア大会極秘メモ

【韓国大使館であわや監禁!?】

1986年のアジア大会は、88年のソウル・オリンピックの前段として、ソウルにて9月20日~10月5日のスケジュールで行われた。この二ヵ月前、これは事前取材を行って、トウスポ独自の切り口で本番の紙面展開への誘導路を作っておくべきだ、と思った。編集局では、「またあいつが目立とうとしている」と白い眼を向けられ、陰口も聞こえてきた。守りより攻め……お構いなしに、企画を進めた。ソウルのナショナル・トレーニング・センターに乗り込んで、目玉選手を根こそぎインタビュー。これができると面白い。アーチェリーの美人選手がいたし、陸上、ウエイトリフティング、柔道などにアジアでトップクラスの選手たちがいた。こうした情報をまず、編集局に知らしめることも重要だった。環境を整えておけば、次に進みやすいのだ。とりあえず、ソウル在住の個人的アドバイザー、申徳相さんに電話を入れた。申さんは名門、延世大学の出身で、長年京郷新聞のデスクなどで鳴らしたマスコミ人。各方面に幅広い人脈を持っていた。「ナショナル・トレセンに入れますかね? もう本番に向けてシャットアウトになって、いるとか……」「大丈夫、大丈夫、センター長よく知ってますから」。この人の人脈は底知れない。1979年10月26日に朴大統領が暗殺された時の大統領警護室長が同級生だったことから、しばらくKCIAにマークされていたこともあった。……企画を整理して、韓国大使館にビザ申請に行った。これまで韓国には何度も取材に行っていたが、お国柄、微妙な事情もあって、観光ビザで何となくすり抜けてきた。しかし、派手にアドバルーンを揚げようというのだから、仁義を切る必要がある。ビザを取っておけば、堂々と写真撮影もできる。アジア大会の盛り上げにもなるわけだから、ビザは簡単に下りるはず。同行予定の堀内良夫カメラマンと南麻布の韓国大使館へ行った。この人は、駒澤大学のバレー部出身。その筋からのコネ? で入社。校閲部、第二運動部……ここでは私と共にアマチュアスポーツを担当したことがあった。不器用だが、真面目一筋。写真部から最後は編集局長まで登った。体力もあるし、アマチュア・スポーツを知っているので心強い。「ビザ終わったら、一杯やろうか?」「いいですね、グチ聴いてくれますか?」「OK、OK」。大使館の窓口へ書類を提出した。「よろしきお願いします」。「ちょっとこちらへ」。ン!? どうした? 案内係の紳士はどう見ても素人ではない。肩幅広く、たっぱもある。いつでも戦闘ウエルカムの風体である。「こちらへ」と別室へ案内され、部厚いドアがバン! と音を立てて閉められた。ン!? 取調室じゃないかい。堀内カメラマンの表情も白く、緊張気味。「オタクたち、ソウルで何をするんですか?」。完全に取り調べモードだ。「いや、アジア大会に先立ち、韓国のスター選手を紹介するために取材です。できればナショナル・トレセンで」「あんた何言ってんの! センターは立ち入り禁止になってますよ!」「いや、知り合いがアレンジしてくれて……」「そんな事無理だと思うけど」。しばし沈黙せざるを得ない、と追っていると。「まあいい、今回はビザを出しましょう。堀内さん、たまにはおいしいお酒を飲みたいねぇ。こっちは時間あるんだから」と意味のよく分からな言葉が飛び出してきた。「どういう事でしょう?」「あんたがリーダー? もう帰っていいよ。堀内さんはちょっと残ってもらうから」「いや、これからセットで仕事の予定が……」「すぐ済むよ。何なら外で待ってたらどうですか?」。結局、飲み会への招待を約束させられて、放免されたのだが、真相は未だに藪の中。堀内カメラマンは実際に酒を驕らされた。訪韓して、申さんに話すと、「木っ端役人が、時々変な奴がいるんですよ。調べてとっちめてやりますか」。資材は思惑通り。センター長が案内とセッティングしてくれた。韓国は人脈が社会を動かしていることを実感した。

【金浦空港爆破テロ、開幕8日前】

大会8日前の9月13日。アジア大会の目玉企画は実行された。中身はマラソンコースを自分の身体で下見して、代表の中山竹通選手にアドバイスを送ろうというもの。だが、自分の足で走れるわけはない。といって、車で廻っても何も面白くない。そこで自転車で走る。42.195は自転車でもそんなに楽ではない。さらに趣向を凝らし、日の丸入りの中野浩一選手のユニフォームを借りた。ヘルメットも。私の仕事を面白がっていた競輪の須藤キャップがヘルプしてくれた。「君、本当にそんな事できるのか?」政治と駆け引きで成り上がった編集局上層部には理解できない。当然だ。早朝、中野浩一のユニフォームに身を包み、レンタルのスポーツ・サイクルにまたがって、ホテルを出発した。先導は申さん。マイカーのハザード付き。こっちは日の丸付きのユニフォームで決めているから、街角のお巡りさんも好意的だった。日本代表選手の公式練習と映ったようだ。緩い時代で良かった。途中、気の荒いタクシー運転手にすさまじい剣幕で怒鳴られるハプニングはあった。ソウルの交通事情は凄い。プレスルームでイタリアはローマからの特派員が言った。「ローマも凄いけどね、ここじゃ絶対運転できないと思う」と。……42,195キロ。自転車とて、そう楽なものではない。ポイント、ポイントで撮影もしているので、午後3時頃、汗みどろでゴールイン。やった! これでライバルの鼻を明かすことができるし、会社のお偉いさんにも、胸を張ることができる。頭を下げたり、言い訳はしたくなかった。他社のライバル一番手は報知新聞の吉江光弘記者だった。東京大学から報知に入った変わりダネ。似たような企画を打ち出すので要注意だった。普段は酒を飲むことが多かったのでなおさら。走り終わってシャワーを浴び、プレスルームに顔を出すと、少し遅れて吉江氏が入って来た。「少し、街中を回って来ました。そっちも取材でしたか?」。翌日、早朝から42,195の綿密な調査結果を原稿にして東京に送った。内容を見て驚いているようだった。やったな……。歩っとしていると、吉江氏が近づいてきてささやいた。「原稿終わりましたか? 出られますか?」「どこへ?」「まあ、行きましょう」。吉江氏は多くを語ろうとせずに、タクシーを掴まえた。「kimpo airport ツセヨ!」「金浦って!? 何が?」「何か起こっているらしいんだ」。金浦空港への道路は封鎖前だったが、やたらに警察官、軍人のがそこここに集まっていた。何と、爆破事件が起こった直後だった。空港の建物入り口付近はおびただしい血が流れていた。持っていたカメラでシャッターを押しまくった。だがすぐに警察官に止められた。五人が死んで、3~4人が負傷した直後の現場であった。

☆composision 4☆ プレスルームに戻った。しかし、テロとなると、トウスポの切り込む余地はあるのか? とりあえず、申さんに電話を入れてみる。「金浦でひどい現場を見てきました。何でしょうかねぇ?」。「馬鹿どもが起こした事件、あまり触れなくてもいいのではありませんか?」「まあ、そうなのですが、うちで書けるような材料が出てきたら、教えてください」。数分後、申さんから電話がきた。「爆弾はcomposision 4で時限のようですから、大会に合わせて計画的に起こしたということでしょう。我が国は戦争状態にありますから」。血みどろの現場写真と、ありったけの材料を集めて東京へ原稿を送った。何しろデリケートな問題である。使用された爆弾は韓国陸軍、米軍が常備している物。ここから、「自作自演」説も飛び出していたのだ。東京からはいつもの調子で「もう少し、刺激的になりますか」といった、リクエストは返ってこなかった。朴大統領健在の戒厳令下の時代から、韓国で取材をしてきた。これまで何どもホテルの電話の盗聴、尾行、直接アプローチを経験していたので、ペンを滑らせる勇気は無かった。

☆爆破テロ事件の夜☆ 開幕8日前の13日は血の匂いの漂よわせながら、暮れた。午後七時、デスクを整理して、報知新聞の吉江記者に声をかけた。「昼間はありがとう。爆発直後の現場を見ることができた。あまり良いものではないね」「当然でしょう。できれば、遭遇したくないよね」「行きましょうか? 気分を換えに」「良いですね。やっぱり一杯やりましょう」。こういう話はすぐまとまる。タクシーを拾って、清心洞(チョンジンドン)へ繰り出した。ここは安くておいしい食堂が多く、過去の取材で多少の土地勘もあった。麦酒(ビール)で乾杯の後、真露(焼酎)。本場物は砂糖が入っているので甘い。辛い料理に甘い酒というバランスだ。日本への輸出品は甘くない。本場の真露は口当たりが良いのでついつい。吉江氏も強い。空き瓶が転がる。昼間の借りもあるので、「さっきはありがとう。おかげで貴重な体験をさせてもらった。今日はこっちでもたせてね。後、別に隠していたわけではないんだけど、昨日、マラソン・コース下見してきたんだ。自転車で」。吉江氏はにやりと笑った。「やっぱり、何かやるとおもってたけど。実はこっちもやったんだ。体力に自信がある方でもないので、タクシーをチャーターしてさ」。何のことはない。ライバルも似たような企画を敢行していたのだ。「何か面白そうなことやらないと、会社じゃよく分かっていないので」。吉江氏も報知では、異端児だったようだ。この後、真露の空き瓶はさらに転がった。

【韓国日報と個人的密約】

アジア大会は、オリンピックと比べれが多少コンパクトだが、未だ戦争状態にある国の首都で開催されるわけだから、それなりに注目度も高く、世界各国の特派員が集まった。日本のマスコミもスポーツ紙でも大手は記者三人、カメラマン二人といったチーム。我がトウスポは、記者一、カメラマン一のお決まり陣容。「君、アジア大会なんかで新聞売れんのかね?!」上層部はこんな調子なのだ。ミスター・トウスポ、故井上博社長のように、売るためには何をやろうか、何を仕掛けようか……という思考とは違う。ま、しゃあんめえ。そこで、可能かどうか分からなかったが、現地の新聞社とうまく連携できないか? と考えて、申さんに相談した。申さんは韓国マスコミ界の大物OBである。「白石さん、いいね。それ、やりましょう」「そんなに簡単にいきますか?」「韓国日報がいいでしょう。私のいとこが局長ですから、電話しましょう」。こうして、韓国日報を訪問して、仁義を切った。「できれば磨り出し前のゲラ(校正紙)を見せていただけると……」「OK、じゃ時間になったら、取りに来られますか?」。これでニュースの入手が確保できた。翌朝から、申さんは韓国日報の最終ゲラを持って宿舎ホテルに来てくれて、コーヒーショップで面白そうな、まあ、トウスポ的な記事を」拾い読みしてくれた。それを私はメモに取り、プレスルームに出勤しては、チョイ脚色も入れ、もちろん許される範囲で、東京へ送りまくった。これを見た他社は、一様に不思議がっていたようだ。一人なのに、どうしてこんなに幅広く取材できるのだ?……種明かしは今が初めて、と言っていい。もう時効でしょう。

【谷津嘉章の「乱入・直訴」】

大会半ばのレスリング会場。私は谷津嘉章と待ち合わせていた。目的はFILA(国際レスリング連盟)のミラン・エルセガン 会長 とのツーショット。写真と両者のコメントだが狙い。谷津氏はこの春の全日本選手権にプロから復帰優勝を果たして、五輪出場の道を探っていた。FILAの会議では当時の笹原正三会長がオープン化推進の意見を出していたが、結論には至らなかった。それではと、”アジア大会でエルセガン会長に直談判” ……これでいこうと考えた。谷津氏に「旅費など持つので、行きませんか?」と誘ったところ、「乗りかかった舟だし、韓国は知り合いもいるので行きましょう」となった。笹原会長にはあらかじめ、「谷津が直訴といった感じの写真をこっそり撮ろうと思っています。エルセガン会長にそれとなく言っておいてもらえませんか?」。笹原会長に頼み込んで、この日を迎えた。谷津氏の記者証はどうにかならないか、と思案していると、谷津氏は「お~い○○、パス一枚何とかしてよ」と、旧知の韓国選手をつかまえて、頼素早くゲットしてしまった。緩い、良い時代である。これで会場内をある程度自由に動くことができる。問題は他社に悟られないことだった。通信社、スポーツ紙一社が微妙な動きを見せて、少し緊張させられたが……。エルセガン会長が貴賓席に着いたのを確認して近づき、隣の笹原日本協会会長に、「まもなく谷津を連れて来ますので、よりしくお願いします」。笹原 日本協会会長 は無言でうなずいた。こちらをマークしているかもしれない2~3社の目が外れたところで、谷津氏に合図を送った。谷津氏はそれとなく貴賓席に近づき、まず笹原日本協会会長と握手、笹原会長は隣のエルセガンFILA会長に、谷津氏を引き合わせる形をとった。谷津氏とエルセガンFILA会長が握手。言葉を交わした。「会長、プロにもゲートを開けて下さい」「おー君か、オールジャパンで復帰優勝したのは。君のことは聞いている。FILAは強い者をいつでも歓迎したい」。こんな会話が交わされた。やった‼ 「エルセガン会長、プロを容認!!」。ツーショット写真とともに、紙面を飾ることができた。また一つ仕掛けが陽の目を見たのであった。この時、テニスはすでにプロアマの垣根が取り払われていた。時代はその方向で流れてはいたのだが……。

※ミラン・エルセガン=

※ミラン・エルセガン(セルビア=当時はユーゴスラビア)。1972年~2002の間、FILA(国際レスリング連盟会長を務める。福田富明現日本協会会長と組んで、女子レスリングを登場させるなど、レスリングを見せる競技に変えた功労者の一人。95歳にて近年他界されている。合掌