懐かしのカーヌスティ トム・ワトソンの初優勝を見た!!

【スコットランドへ飛べ!!】

1975年の7月。ゴルフの取材は若葉マークながら、荒っぽいトウスポの勢いで、全英オープンゴルフを取材すべく英国へ飛んだ。ひどい話、前もっての資料はゼロ。(後日談では、先輩が隠した……とも),しかし、デスクに「大丈夫、やらせて下さい!!」とタンカを切った以上、何が何でもやらなければ、記者生命は危うい。「あいつはできない」――こんなレッテルは簡単に貼られてしまう。

ともかくカーヌスティ

この年の開催コースはカーヌスティ・ゴルフリンクス。(この思い出話を書き出した今年も)どうやらスコットランドらしい。飲み友達のアジア旅行社のN氏に力を借りた。ネス湖の近く、といっても、一般のツアーとは無縁。旅行のプロにとっても、情報の多い場所ではなかった。東京から英国までは、PAN‐AM(現在は無い。)の南回り各駅停車。東京→香港→バンコク→ニューデリー→カラチ→テヘラン→ドバイ→ジュネーブ→フランクフルト→ロンドン……といった具合。この航空会社は、アメリカの半官半民、ベトナム戦争時の際、兵士を運ぶために作られた、と言われていた。我がトウスポは、PAN‐AMの広告を掲載し、バーターチケットを得ていた。これで海外取材を展開、「協力=PAN‐AM」と記した。これはありがたかった。飛行機代がロハだから、小規模の会社でも、太っ腹になれたのだろう。ただし、海外旅行が高嶺っぽい時代だったから、妬まれ方は半端ない!?

【 ようやくロンドン】

各駅停車。東京から30時間くらいかかったのではないか。その度にその国の機内食が出た。英国では如何にしたら……不安を紛らわすため、呑んで食べた。アルコールは飲み放題だった。飛行機は遅れ気味に、ヒースローに着いた。身体はよれによれていた。ロンドンのホテルは予約してあった。正確には旅行社のN氏に、手配してもらっていたのだ。ヒースローからオースチンの箱形タクシーに乗った。予約したホテルを告げた。ホテルに着いたら、シャワーを浴びて、共同通信のロンドン支局長に連絡すればよい……全英オープンの記者証の予約を頼んでいた。通信社に対して、配信の契約をしている新聞社は、多少、客のようなバランスもあった。飛行機は遅れ気味だったが、歯車はスムーズに噛み合いだしたようだ……ところが……。

【ドタバタ始まる】

予約したホテルに着き、フロントのお姉さんに、「予約してある何某だ」と告げると、「いや、見当たりません」と、想定外の返事。飛行機の遅れで、「既定の午後3時まで」は2時間近くオーバー。それでも、事情を話して押しこめば良かったのだろうが、いきなりの想定外に気後れ、あっさり引いてしまった。さあ困った。土曜の夕方。行く宛てなどあるはずもなく、重いトランクを引きずって再びタクシーに乗り込んだ。「どこかホテルへ……」「……てったって、どこさね?」「……どこでもええから泊まれるとこ」。ロンドンのタクシー運転手話して世界一優秀だが、さすがに困った様子。そりゃそうだ。ちょっと考えていたが、「ウォルドフでも良いか?」。そこがどんなに高級なのかは予備知識無し。「頼む」で、ウォルドフへ。フロントにて必死のお願いモード。運良く空いていた。素泊まり2万五千円だったか。

【想定外、再び】

頼みの綱の共同通信支局長にはなかなか連絡がつかなかった。最初は初体験の公衆電話。七角形の20ペンスが必要……ここまでは分かっていたのだが、実際にやってみると、コインが落ちていかないのだ。実は相手方が受話器を取ると、落ちる仕組みになっていた。30分ほど悪戦苦闘の末、理解したが、つながってみると、支局長は外出中でなかなかつかまらなかった。今のような携帯は存在しない。土曜の夕方に何が多忙にさせているのか? 実はゴルフの全英オープンの前週はテニスのウインブルドン。こちらの知識がなかったのだが、日本の沢松和子と日系のアン清村のコンビがダブルスで優勝した直後だった。支局長、そりゃ大変だったはず。ちなみにTBSの朝の報道番組、「あさチャン!」に出演している沢松生子は姪の関係だ。号外ものの快挙。原稿に追われながら、支局長はウォルドフへ来てくれた。感謝、感謝。

【さて、カーヌスティへ】

ヒースロー空港。Inland,International……スコットランドはどっち扱いなのか、と混乱しながら、あちこちで聞きまくってアバディーン行きのカウンターへ辿り着く。重いトランクを引きずって、息も絶え絶え。すでに搭乗が始まっていた。ヤバイ、慌てて飛行機へ急いだ。しかし、トランクを引きずっているのは、極東からやってきた自分だけのようだ。「ええい、行っちまえ!」で飛行機に乗った。トランクは通路に置いた。そりゃいけん……しかし、見かねたスチュワーデスがやって来た。「荷物は座席の下に置いてね」「yes,mom」と言ったものの。どうやっても、3分の1は通路にはみ出した。「そりゃ、いかんばい」今度は大柄のスチュワーデスがやって来て、荷物室へ移動してくれた。助かりました。

【ヒュウバート・グリーンと呉越同舟】

「あんたも、オープンに出るのかい?」――後ろの席から、ちょいハスキーな声が飛んできた。振り向くと、”早打ちマック”で知られた、ヒュウバート・グリーンがいた。「コースには出るけど、取材です」「へ~、どこから?」「Tokyo、Tokyo Sports Press」「へ~、東京で一番大きなPressかい?」。社の規模は小さいのだが、社名には、この後もどれだけ助けられたことか。海外では一発で覚えてもらえた。

※ヒュウバート・グリーン氏。親日家であった。米国PGAツアーを張り付き気味に取材していたころ、ちょこちょこと話す機会があった。「お寿司を食べに行くんだけど、みんなお醬油をドバドバ着けて……困っちゃうね」なんて話もあった。2018年6月16日、喉頭がんとの闘いの末、旅立たれた。ご冥福をお祈りする。71歳。同級生のような年齢。ちょい寂しい気持ちになった。

小さなジェット機は、ガタガタと揺れながら、アバディ―ンに降りた。ロンドンから北……気流が安定していることは少ないようだ。

この時は自力で運転できないから、コースまではバスが頼り。「カーヌスティのコースへ行きたい」。「このバスが町に行くよ」「いや、コースへ行きたいんだけだけど」「だから、町に行くって言ってるがに」。要するに、イギリスもアメリカもゴルフコースは、人のいるところ、街中か、街のすぐ近くにある。日本だけが人里離れた場所が当たり前になっている。バスはカーヌスティの町へ近づいて行く。「それで宿は?」「まだ、これから。まずコースへ行ってから」「多分、無理かもよ」「え~!?」

【宿が無い……】

やっとのことで、コースの前で降ろしてもらった。確かに町の真ん中。日本のそれのように、ものものしいゲートがあるわけでもなく、道路からいきなりコース。見れば、ホテルとおぼしき建物が四軒。「よしよし、どこか空いているだろう」と、気楽にまずは右端のホテルへ。「えっ⁉」我が耳を疑った。「予約もしないで来ちゃったの? もう一年前から予約で満室なんだ」。二軒目、三軒目も同様。冷や汗にまみれて四軒目。当然、答えは同じ。世界最古のメジャー、これ常識。女主人、「極東からはるばるやって来て、可哀そうに」ってな表情を見せた。これは情にすがるしかない。「どこでもいいんです。何とか、助けてもらえませんか?」「そう言われてもねえ、一年前から満室は、どうにもなんないねぇ」……こりゃだめか、あきらめかけて肩を落としていると、女主人が「ちょっと待ってよ。友達に聞いてみよう。旦那が亡くなって独り暮らしの人がいるんだ」。電話で聞いてくれた。すると、金曜に親戚が観戦に来て泊まることになっている。それまではOK。お~救われた!! 神様、仏様!! 「まず、荷物を置いてきて、夕飯はうちの食堂で食べればいいよ」。女主人の家で、「あんたその薄着じゃ、だめだよ」と亡くなったご主人のフィッシャーマンを貸してくれた。「試合終わるまで着てなさい」。なんて親切な人たち。感謝、感謝。女主人のホテルの食堂。ビールの美味かったこと。

【青木、尾崎の代わりに来た】

居場所が決まったことで、気分的に大分楽になった。翌日……火曜日……朝一番で、プレスセンターへ。日本のそれとは異なり、すべてがテント使用だった。プレスセンター、グッズショップ、レストラン、バー……。トイレは仮設。取材記事送稿用の電話ボックスはプレスセンターの奥に並んでいた。当時はファックスさえも無い。送稿は音声のみであった。

プレスの窓口はジョージ・シムズ氏。口ひげ、蝶ネクタイ。いかにも英国紳士。共同通信からの紹介状(といっても、ロンドン支局長の名刺一枚)を差し出し、「東京から来ました」「よく来ましたね、それで何をするんですか?」「何を、といったって、取材に来たんですけど」「だから、何をするんですか?」……要するに、記事を書くライターなのか? 写真を撮るフォトグラファーなのか? 日本ではそれほど厳密ではなかったので、ピンとこなかったのだ。ちょっとしたやりとりの末、「記事がメインです」と答えた。シムズ氏も安堵の表情を見せ、「お世話になっております。OK。テーブルを上げます。Tokyo Sports Pressとカードをかけておくよ。あ、それから、夜はプレス招待のパーティーがあります。出ておくと、こちらの記者と顔見知りになれるから」

※ジョージ・シムズ氏。後日、名物プレス担当であることが判明。日本人選手の出場が当たり前になってくると、記者も同様。中には日本の物差しで、プレス担当に依頼する者も出てきて、シムズ氏を苦戦、苦笑させた。ある年から、プレスカウンターには、「馬鹿な質問だったらしないように」とのプレートが掲げられるようになった。シムズ氏もすでに旅立たれている。お世話になりました。合掌。

午後七時。プレスセンター隣の仮設テントで、プレス招待のパーティーが始まった。乾杯の後、順番に自己紹介。ン!? 何をしゃべればいいんだ? ひたすらスコッチをのどへ送り込んだ。ほう、シングルモルトか? いやいや、何をしゃべるんだ……思考とまらぬ間に、酔いが回ってきところで、順番が来た。Tokyoから初めてやって来ました。Tokyo Sports Pressへ記事を送りますが、気持ちは尾崎、青木の代わりにOPEN出場……と言い終わると、どっと拍手が巻き起こった。記者が集まってきて、飲む、日本のことを訊く。大会の印象を訊く。また飲む。酔いはどんどん回り、日本での仕事後と変わらぬような状態。こういう戦場は得意。相当、コミュニケーションができていたような。何人かで街へ繰り出した。時計の針はぐんぐん深夜へ向かって行ったが、カーヌスティの空は暮れない。白夜である。パブを2~3件はしごして、気が付けば、午前様。新橋で飲んだくれたような気分で、しらっちゃけたカーヌスティの街をやや千鳥足で、貴重な宿へと帰った。

[ 原稿を肉声で】

当時のこと、海外、国内を問わず、取材先から原稿を送る、となれば電話、郵便、何かの配達手段しかなかった。民宿先のおばさんに、「correct call」で日本に原稿を送りたいので、貸してください」と。すると「ただの電話って? そんなの効いたことがないよ」。「いやいや、大丈夫です。オペレーターに聞いてみてください」。……約30分ほどかかって、民宿のおばさんは理解。「じゃ、使いますよ」と言って、オペレーターを呼び出した。「correct callでTokyoをお願いします」「で、誰が払うの?」「だから~Tokyoの会社が払います」「OK」スコットランドのオペレーターはまず、ロンドンのオペレーターを呼んだ。つながると次はパリ。そしてTokyo。世界は広い。つながった!「スコットランドのKojiがcorrect call をリクエストしているが、受けてもらえますか?」。早朝。「はい、トウスポです」誰だか忘れたが、寝ぼけた声が出た。英語がだめだ。咄嗟に拒否反応。「no,no」。英語がだめだ、と言っているつもりなのだろうが、オペレーターには通じない。「馬鹿野郎、何でもいいから、yesって言え!!」と思わず。「What!? ン!? 何だかnoって言ってますが」「失礼、Tokyoのオペレーターと話をさせて下さい」――これでやっと回線をつなげてもらうことができたのだった。

「遅くなりました、原稿を送ります」。本社とようやく生の会話。受け手は例の取材資料を隠した先輩。「寒くないかね。心配してたよ」。F○○k you!! 心はそう叫んでいた。「ありがとうございます。遅くなりましたが、原稿を送ります」。サラリーマンだねえ。ほんとに大変な経過を経て、原稿を送ることができたのだった。今じゃ、パソコンでリーチ一発。楽なもんじゃ。

☆余談その①☆この何年か後の全英オープンでは、命綱の電話が使えない、というアクシデントに見舞われた。英国の国営電話会社がストをブチかましたのだ。しかし、地元の記者たちは、結構落ち着いていた。「大丈夫さ。いざとなったろ鳩がいるから」「ン⁉ 鳩で何をするって!?」。日本でも昔は伝書鳩が新聞社の原稿送りに、大きな役割を果たしていた。大きな新聞社の屋上には、必ず鳩小屋があったものだ。ストは大会の練習ラウンド前に解決して、事なきを得た。世界最古の全英オープン。Great Britainあげての一大行事。労働側もちゃんと心得ていたってことなのだろう。

☆余談その②☆同じ頃、コロンビアのポゴタにてワールドカップゴルフが開催されたことがあった。海抜2千メートル。「5番で200ヤードは楽だ」とニクラウスが言ったりして、色々と話題なっていた。日本からは安田春雄、鈴木規夫のコンビだった。内容がどうだったかはさておいて、ここでは原稿送りの際のハプニングを書くことにする。プレスルームの主役は米国からの記者たちだ。デスクの上にそれぞれ、新兵器のワープロを置いていた。小さなテレビ画面を付けたマシーンデスク、電話回線で本社に送るシステムになっていた。コロンビアの電力事情は満足できるものではなかった。停電は日常的なもの。……後で分かった。練習ラウンドを終え、それぞれ、ワープロと格闘していた最中、落雷を伴った夕立、来たか! と思った次の瞬間、プレスルームのライトが消えた。停電。あちこちで放送禁止用語が飛び交った。今のパソコンのように、自動保存など夢のまた夢。米国記者たちの苦労のあとは見事にぶっ飛んだ。そこへ、ボランティアの女の子が2~3人、ろうそくを灯しながらやって来た。「ほら、これで仕事ができるでしょ?」ろうそくで原稿送れってか……この時ばかりは、苦笑するしかなかった。

【Big thanks, Mr.Loo お世話になりました呂良換さん】

Mr.Loo。この大会では話題を呼んでいる選手であった。1971年、ロイヤルバークデールで開催されたオープンで、リー・トレビノに次いで2位に入っていた。アジア勢最高、この時代では快挙といってよく、日本のゴルフ・ブームを勢いづかせる出来事でもあった。また、言動、ゴルフに対する姿勢は紳士然としたもので、ゴルフ発祥の地において、結構な人気を呼んでいたのだ。呂良換(本当は火扁)。英語ではルー・リャンハンと表記され、ミスター・ルーと。日本では呂選手。呂さん。取材のポイントはまずは呂さんに決めた。練習ラウンドでつかまえて挨拶した。「よく来たね。一人で?  よろしくね」。日本語で取材できるのは、何たって楽ちん。リラックス・モードでラウンドを追った。すると、呂さんのラウンドに付いているギャラリーの中にアジア系の顔がチラホラ。先方もこちらに気づいて声を掛けてきた。日本語だ。一人は日商岩井のロンドン支社長、この方の名前は忘れた。もう一人は、沖縄空手剛柔流の師範、榎枝さん、ロンドンで大きな道場を主催しているという。気持ちはどんどん楽になっていった。この日から夕飯にも誘われ、酒も入っていろいろと話を弾ませた。しかし、問題を一つクリアできないでいた。今の民宿は木曜日までしか泊まることができなかったのだ。金曜日からどうする? 初日のラウンドが終わった後、呂さんにそのことを話すと、「え~そうだったの? じゃ、僕の予約している所を紹介するよ。丁寧に電話までかけてくれた。「今日も中華行くよ。荷物置いたら、タクシーでいらっしゃい」。おかげ様。呂さんの親切で路頭に迷わずに済んだ。大会は月曜日のプレーオフまであったのだから、本当に、今考えても綱渡りであった。

【死闘の末】

「呂さんはいいけれど、トムのネタは無いのかね?」デスクから注文が飛んできた。トムと気軽に呼んだが、売り出し中のワトソンのことだ。名門スタンフォード大学からプロに入って、ニクラウスの後継者と。デスクは一度でもあったりすると、友達になったかのように、吹聴する癖があった。しかし、そろそろ追わずばなるまい。婚約中のリンダさんもラウンドに付きっ切りだ。だが、戦況としては、オーストラリアのジャック・ニュートンが最終日前半までは楽勝を思わせる感じで走っていた。天気も穏やかだった。OK。三日目まで雨、風、あられ……が一日のうちに交代でやってくる天気に結構体力を消耗していたきともあって、「すんなり早く終わりましょう」と心は願っていた。ところが終盤にさしかかって、ニュートンが崩れだした。何と、最後の4ホールで3ストローク失った。ニュートン74。18番、以後も数々のドラマを生んでいく、バリーバーンでワトソンは6メートルのバーディーパットをねじ込んで72。72ホール終了してついに並んでしまった。「こりゃ、どうするのか」と。翌日18ホールのプレーオフも初めて知った。民宿の延泊願い、帰りのエア―チケットの予約変更、ロンドンの宿の予約変更……こっちの仕事もどっと増えて、「うへっ」て感じだった。すべてをクリアした月曜日、天気は荒れた。雨の中断もあった。すんなり終わっていればよかったのに。ワトソンのゴルフは実に歯切れが良かった。すっと構えると、2~3回のワッグル、スパッと振り抜く。風など関係ないって感じで、高いドローボールで攻めていく。大接戦、「これでタイだったら、もう一日か?」などと、マイナー思考も浮上する。14番のロング、ワトソンがチップインイーグル。ヨシ! 思わずこっちもガッツポーズ。見ればリンダさんも破顔一笑で拍手を送っていた。メキシコ系、小柄で日本人にも受けるタイプ? 勝手な解説で失礼。しかし、ニュートンとてツワモノ。めげずにバーディーをねじ込んだ。1打差のまま、18番。ひやひやものだ。ワトソンは冷静。8メートルに2オン。ニュートンは左手前のバンカー。やれやれ終わったか? しかし、しかしである。3打目をピン奥3メートルに付け、これを放り込んでパー。ワトソンのプレッシャーをかけた。ワトソンは、この場面でも冷静。手堅く2パットで仕上げて、メジャー初優勝を飾った。メジャー通算8勝の口切りであった。ワトソン……凄い選手だ、大会4日目、そして翌日、都合5日目のプレーオフにおいて、ようやく世界のゴルフに対面することになった。取材のポイントを決めてラウンドを追わなければならない。プレーオフという場面に放り込まれて、理解した。お上りさんのデビューは、ドタバタの末、幕を閉じた。……しかし、ちょっとだけ自信を得たことで、以後の海外取材へ挑んでいくことになった。

※ジャック・ニュートン。1983年7月24日、シドニーニー空港にて不運な事故に見舞われる。サッカーの試合を観戦するため、プロペラ機に歩いて搭乗しかけたところ、プロペラに巻き込まれ、右手と右目を失う重傷を負った。自身のキャリアは続けることは不可能となったが、解説者、コース設計、選手育成などでゴルフ界の普及に貢献している。

(この項完)